部屋に戻ると、神武已は改めて琉香の踵の手当をしながら言った。
「暫くは歩くと痛むだろうな。朝の祈りには私が出よう」
「私も出ます」
「この足で、か? 歩かずにいた方が治りが早い。我慢しろ」
「我慢も何も朝の礼拝は仕事です。足に擦り傷くらいで休む訳にいきません」
ぷいと顔を背けて言い張る琉香に、神武已の眉が寄る。
「…何を意固地になっているんだ?」
「なってません。祈りは私たちのするべき事です。足に怪我くらいで休めません」
自覚がないのだろうが、琉香は意地を張っている時には言葉遣いが改まる。神武已相手に敬語が出ているのは、何か不満があるか機嫌が悪い時だ。
機嫌は、恐らく悪くない筈だ。だとすれば何か不満があるのだろうが、神武已には思い当たるところがない。
「じゃあどう言ったら休むつもりになる?」
床に膝をついたまま、寝台に腰掛けた琉香を見上げるように問うと、琉香は唇を噛んだ。
手を伸ばして琉香の唇に触れ、噛むのをやめるように促す。噛み切りでもしたらそれこそ仕事に障る。
「……神武已は、いつも私を助けてくれるのに」
ぎゅっと目を閉じて、琉香は小さく呟いた。
「私は、それに甘えてばかりで、いつも迷惑を掛けて」
だから、と続く筈だったのだろう。けれど、声にはならず、唇が動いただけだった。
代わりに琉香の瞳から涙が溢れ出す。
膝に置いた手で衣を強く握りしめ、声を押し殺して泣く琉香に、…神武已は少しばかり腹を立てた。
「……お前は、何の為に俺がいると思ってるんだ?」
神武已は、意図的に「俺」という単語を使った。臨戦時、あるいはそれに匹敵するほど機嫌の悪い時にしか使わない一人称だ。
驚いたように顔を上げた琉香の前に膝をついたまま、神武已はしっかりと視線を合わせて言葉を継いだ。
「一方的に掛けられる迷惑ならとっくに見限ってる。お前のそれは迷惑とは言わん」
「……でも」
「余裕のある人間が相手を気遣う事の何がいけない? 疲れた人間がそれに寄りかかるのはいけない事か? 言っておくが、俺は見返りを求めて世話をしてる訳じゃないぞ」
「それは解ってる! でも、…私が神武已の助けにはなれないの……?」
既に真っ赤な目元を隠しもせず、琉香は神武已を見ている。
暫しの、まるで睨み合いのような緊張感を伴った沈黙の後。
神武已は重い溜息を吐いた。
「解った。なら気に病まなくていいようにしてやる」
「え?」
つい、と片膝を立て、琉香の纏うドレスの裾を軽く持ち上げて。
「今、この時より、我が主として。琉香、あなたに忠誠を誓おう」
神武已の唇が衣の端に触れ、次いで琉香の右手の甲に触れる。
訳が分からずに息を詰めている琉香に、神武已は跪いたまま笑った。
「元々私は武人だからな。守るべき相手のいない力はただの暴力だ。だから、私の力は全て、お前を守る為に捧げよう」
「え……」
「受け入れるも入れないもお前の自由だ。私がやりたくてやっているだけと言われればその通り。だからこれからもお前を気遣うし、フォローもする」
「でも、それじゃ」
「逆に、守られてくれる相手がいないと落ち着かないのが武人の性でな。私を傍に置いてくれると言うのなら、返礼を」
誓いに対する返礼は、受け入れるのなら額に口づけを。拒否するのなら衣を神武已の手から引き抜けばいい。ただし後者の場合、神武已は二度と琉香と顔を合わせる事はなくなるだろう。本来ならばその場で切り捨てるのが拒絶の仕方なのだが、琉香に剣は扱えない。となれば、琉香に残された選択肢は、この先二度と神武已と口をきかない覚悟をするか、受け入れるか。
形骸化した古くさい誓いだが、それで琉香の気が少しでも晴れるのならば安いものだ。どうせ今の神武已には、琉香以上に大事に思う物などないも同然なのだから。
おずおずと、琉香の指先が神武已の頬に触れた。衣擦れの音を聞きながら目を閉じる。
そっと額に触れた琉香の唇の感触。
これで、神武已は琉香のものだ。
目を開けた神武已と視線が合うと、琉香はそれをふいと逸らした。
「でも明日の朝の礼拝には行く」
「……お前な」
少し機嫌が直ったかと思えば。
しかし、琉香は少しばかり意地悪く言った。
「大丈夫、歩かなければいいんでしょ? 今日みたいに、神武已に連れて行ってもらったらいいんだわ。…ダメ?」
これは早速甘えられているんだろうか…。
随分昔に離れたきりの妹を思い出しながら、神武已は降参と両手を挙げて見せた。
そして翌日から一週間程、礼拝と、参詣者との対面に、神武已に抱き上げられて参加する琉香の姿があった。
仲の良い美男美女は、衆目を集めて止まなかったのだが、本人達は終ぞ知ることは無かったのである……。
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