翌日、土岐は先週末の講演の録音をテープに起こす作業を始めた。実際の講演を聞かずに原稿に起こすのは初めてだった。先週、金井が講演会出席の残業を免除してくれたときは、誰が原稿にするのか疑問だった。ひょっとしたら金井自身が録音を文章に起こすのかと思ったが、雑用はやはり土岐の仕事だった。リアルタイムで講演を聞かずに原稿にするのは少し厄介だ。金井はそのことを承知で、土岐の残業を免除したのかどうか、土岐には分らない。これまで土岐が講演を文章化したのは、多くが企業経営者や経済官僚の話で、教育関係者は初めてだった。土岐が春学期だけ非常勤講師を務めていた東京政経大学の理事長である金子留吉の話は格調が低かった。企業経営者がおカネの話をするのは違和感がないが、教育関係者が終始、お金の話ばかりをすることに土岐は違和感を覚えた。建学の精神や教育方針といった話題が一切なかった。来年度から土岐が受け持っていた春学期の講座は金井が担当することになるが、土岐は理事長の講演を聞いて東京政経大学と縁の切れることの未練が多少薄らいだ。
一通り、講演を文字に起こし、最後に口語を文語に変え、多少脚色し、表現も活字に耐えられるように変えた。土岐が着任したばかりのころ、アジアのある国で、張りぼての龍に眼を入れる儀式の話があり、これを土岐が、
「点睛の儀式」
という造語で表現したことがあった。講演者が言ってなかった言葉だが、校正のチェックをした金井には褒められた。しかし、最後に講演者自身の校正の段階で、この造語は削除された。
木曜日の午前中に講演録の最後の推敲を終え、コピーを金井に提出した。金井は、昼休み中に読み終えて、殆ど修正することなく、
「講演者にメールの添付ファイルで、本人校正をお願いするように」
と土岐に指示を出した。土岐は理事長の金子留吉のメールアドレスを聞いて、講演録を送信し、校正を依頼した。その返信があったのは金曜日の午後だった。数か所、手が入れてあった。大学の宣伝のような文言や講演時に話していもしないような挿話もあった。土岐は金井の了承を得て、そのまま講演録を作成し、会員企業に配送した。夕方近くにすべての作業が終了し、講演録を一部、保管用としてキャビネットにファイルした。ついでに終業時間まで十五分ばかりあったので、過去の講演録を見た。着任してからの講演録は土岐が編集しているので、それ以前のファイルを見てみた。着任以前の講演録の末尾には、
〈文責・金井〉
とあった。年度ごとの一覧表を見ると、土岐が着任してからと同様に、企業経営者が多く、ときどき東亜クラブの監督官庁の経済官僚も混じっていた。土岐が着任する1年前の外務官僚の講演が土岐の目を引いた。講演者名は三橋光夫、司会は専務理事の萩本になっていた。土岐はファイルごと取り出して、こっそりと自席で読んでみた。
〈本日は同窓のよしみで、萩本専務理事と金井事務局長に講演を依頼されました。萩本さんは大先輩で、金井さんとはキャンパスで接近遭遇したかもしれませんが、三歳ばかり違うので、同窓だと知ったのは、萩本専務理事の口利きです。しかし、これだけのコネクションでは講演のお声がかからなかったかと思います。多分、講演を依頼されることになった理由は、私自身が来年度からアジアの小国の大使として赴任することが内定したからであろうと思います。そういうことで、今夜のお話は、私の置き土産のような感じです。私自身は、国際政治そのものよりもODAに非常に興味がありまして、東亜クラブの会員企業さんにとって、多少ためになるようなお話ができるのではないかと思います。実際もう少し若い頃、ODAを扱う政府系金融機関に出向で行っていたこともあります。さてそろそろ本論にはいりますが、日本は第二次大戦後、戦時中にご迷惑をおかけした東南アジア諸国に対して、莫大な戦後賠償を行いました。まだ日本が高度経済成長を始める前の話です。以来、日本の経常移転収支はずっと赤字です。日本の歴史上、敗戦で賠償を支払うのは初めてのことでした。米ソの東西冷戦構造の影響もありましたが、アメリカが日本に対して終戦直後行った食糧援助が日本人のパン食を習慣づけ、その後の対米小麦輸入依存を定着させたのと同じように、日本政府も戦後賠償をその後の東南アジア諸国との経済関係を構築する方向で行いました。外交とはそういうものです。
戦略のない外交は国を滅ぼします。戦後賠償で東南アジア諸国に蒔かれた種は日本経済が復興を遂げてから、ODAに引き継がれました。最初から、純粋に経済的な観点からの援助ではなく、政治がらみの案件が常識になっていました。軍隊をもたない日本としては、援助が最大の武器になったのです。これはもう既に時効だから言うのですが、ODAは現地政治家の私腹を肥やし、その時々の現地政権を支援し、同時にODA関連企業を経由して日本の政治家の政治資金にキックバックされ、今日まで黙認されてきました。ODA関連の日本の企業にとっては公共事業のような役割も果たしました。国内の公共事業ですと、建築・土木・ハコモノに限定されるのですが、ODAであればより広い範囲の企業に税金を還流させることが可能になります。
たとえば、発送電・電信電話関係は国内公共事業としてお金をばらまくのはうまくないのですが、発展途上国であればインフラ整備という理由で膏薬を張り付けることができます。まあ、発送電は半分官業のようなものですし、電信電話もつい最近まで官業でしたから、お金をばらまく必要もなかったのですが、国内公共事業と縁のない産業・企業に対しては税金を使うに当たり、経済官僚にもなんとなく後ろめたいものがあります。高度経済成長期は税収も増え、国内公共事業に限らず、ODAのそうした不効率な資金の使われ方も容認されてきましたが、昨今の膨大な国債発行残高を背景として最早見過ごされなくなったというのが背景にあります。しかし、現在でもODAは交換公文等を介して、外交的に高度に政治的な判断で行われているのが実情で、その実態を調査することは内政干渉につながることもあり、同時に行政当局からも政治的な圧力がかかるのが一般的です。国内法規と対象国の法規、日本の政治家と相手国の政治家などが絡み合って、赤字財政だからと言って単純に削減できないのが実情です。ODAに求められる視点は、あくまでも経済合理性と税金の節約ということで、建前として国際政治的な視点は、それが本音であるという形では明示しません。かりに政治的に問題があったとしても、経済合理性にかなうものであれば問題とはしないというのがODAのスタンスです。今後とも東亜クラブの会員企業におかれましては、被援助国の経済厚生の向上につながるような案件がありましたら、当該国の大使館を通じて情報をいただければ幸いです。プロジェクトは一応国際入札という形式をとりますので、案件の仕様はできれば日本仕様でいただければ、日本国内で納付して頂いた法人税は合法的に迂回させることが可能になるものと思います。今夜は、ご清聴有難うございました。(文責・金井)〉
講演録を読みながら、土岐の背中に凍りつくような電流が流れた。パソコンの保存メールから、以前、
〈Kakusifile〉
から受信した文章を開いた。
@あまり、詳細を述べると当方の身元が明らかになる恐れがあるので、簡潔に調査報告書の書くべき視点について説明します。日本は第二次大戦後、東南アジア諸国に対して、莫大な戦後賠償を行いました。アメリカが日本に対して終戦直後行った食糧援助が日本人のパン食を習慣づけ、その後の対米小麦輸入依存を定着させたのと同じように、日本政府も戦後賠償をその後の東南アジア諸国との経済関係を構築する方向で行いました。戦後賠償で東南アジア諸国に蒔かれた種はODAに引き継がれました。純粋に経済的な観点からの援助ではなく、政治がらみの案件が常識になっていました。ODAは現地政治家の私腹を肥やし、同時にODA関連企業を経由して日本の政治家の政治資金にキックバックされ、今日まで黙認されてきました。高度経済成長期は税収も増え、そうした不効率な資金の使われ方も容認されてきましたが、昨今の膨大な国債発行残高を背景として最早見過ごされなくなったというのが背景にあります。しかし、現在でもODAは交換公文等を介して、高度に政治的な判断で行われているのが実情で、その実態を調査することは内政干渉につながることもあり、同時に行政当局からも政治的な圧力がかかるのが一般的です。国内法規と対象国の法規、日本の政治家と相手国の政治家などが絡み合って、単純な調査を行えないのが実情です。以上より、調査報告書に求める視点は、あくまでも経済合理性と税金の節約ということで、政治的な視点は求めません。かりに政治的に問題があったとしても、経済合理性にかなうものであれば問題とはしないというのが当方のスタンスです。できれば、誰がどのような無駄使いを画策しているか、首謀者は誰か、組織ぐるみであるとすれば、どのような組織か、証拠に基づいて調査し、プロジェクトを破綻の方向に誘導していただければ幸甚です。以上@
講演録と見比べてみると、講演録の内容の半分ぐらいが、メール本文にある。土岐は、
〈kakusifile〉
の送信者がこの講演録を見たことを確信した。会員企業数が現在とあまり変わらないとすれば、百数十社である。この講演録はそこに配付され、会員企業の誰かが見た可能性がある。土岐は会員企業名簿を開いた。竹内工務店を探してみた。名簿は五十音順で、竹内工務店はた行の最初に名を連ねていた。
(ということは、竹内工務店の誰かが、kakusifileの送信者ということか?)
講演録の直接的な関係者としては、三橋大使と金井だが、三橋という名前については、土岐は聞き覚えがあった。電化プロジェクトの現地打ち上げを大使館で行ったとき、土岐は体調不良で欠席した。そこの大使が三橋という名前であったような気がした。さっそく、外務省のホームページで確認した。確かにS国の大使は三橋光夫だった。
終業時間をとっくに過ぎていた。福原が不審な目つきで土岐の方を見ている。土岐は疑問を抱えたままファイルをキャビネットに戻し、帰宅についた。中央線の電車に揺られながら講演録について反芻した。
(S国の三橋光夫大使は東亜クラブで三年前に講演していた。萩本専務理事と金井事務局長と同窓だった。とすれば、今回の国鉄電化プロジェクトについて、東亜クラブと三橋大使の間で何らかの情報交換があったとしても不思議ではない。kakusifileから受信したメール内容と三橋大使の講演録はほぼ同じ文面だ。講演録は会員企業百数十社に配付されていた。とすれば、その議事録を見た人間がkakusifileの送信者のはずだ。誰だ?10万円が入っていた封筒の竹内工務店の誰かか?ACIの丸山の話では、今回の国鉄電化プロジェクトを立案したのは経済産業省から現地大使館に出向している西原とのことだったが、そもそも発案したのは三橋大使ではなかったのか?三橋大使が西原を使って、プロジェクトを推進しようとした考えることもできる。そうであるとすれば、三橋大使にとってプロジェクトが流産したことは面白くないはずだ。そこで一等書記官の白石から、僕が東京政経大学の新設学科の教員として文科省の大学設置審議会で審査されているという情報を得て、同窓の文科省の官僚と同窓の大学教授の審議委員に働きかけて、業績が不足しているという理由で、僕を教員審査で否とするように画策したのか。金井は自分が大学教員になりたい一心でそれに協力した。萩本は東亜クラブを自分の子飼いで固め、居心地をさらに良くするために、僕を来年度から排除する計画を立てた)
とそこまで考えて、土岐はため息をついた。今更ながら自分自身に何の対抗手段もないことに思い至された。
(だから金井は東京政経大学の理事長に僕を合わせたくなかったのだ。海外出張のためのねぎらいで残業を免除したわけではなかったのだ)
いつものように八王子駅前から路線バスに乗り、帰宅した。借家の周りには街路灯がないので、玄関は杉林の闇に覆われていた。唯一の灯りは隣家からもれてくる生活の照明だけだった。隣家の脇の細い路地を通って自宅玄関に立ったとき、家の中が真っ暗だった。帰宅時に母が家にいないことは滅多になかった。外出する場合は、かならず連絡をくれていた。
玄関の鍵を取り出して、手探りで鍵穴に鍵を差し込んで回してみた。開錠の感触がなかった。そのまま玄関の引き戸を開けると、寒々とした家の中は真っ暗だった。玄関の照明をつけると、台所に続く狭い廊下が闇の中にぼーっと浮かび上がった。その先で、エプロンをかけたまま、うつ伏せに倒れている母の足が見えた。これから夕食の準備に取り掛かろうとしていたのか、エプロンの紐が腰の後ろで結ばれていた。
土岐は鞄を廊下に投げ出した。
「どうしたの」
と玄関から靴を脱ぐのももどかしく、駆け寄った。母の背後から肩を揺すると、
「うーん」
と消え入りそうな声で唸っている。
「救急車を呼ぶよ」
と大声で言うと、かすれた声で、途切れ途切れに、
「大、丈、夫、・・・」
と聞き取れないほど小さな声で言う。
「救急車呼ぶよ」
と言い捨てて、固定電話で119に電話をかけた。すぐに出てきた。
「はい、119番です」
住所を言い、バス停前の道路から駐車場を隔てて、一軒奥の平屋だと教えた。
「道路に出て、待っています」
と言うと、
「十分程度で到着します」
という返答があった。それから、母の状況を聞いてきた。土岐は見たままを言うと、
「とりあえず、動かさないで、そのままにしておいてください」
という指示があった。電話を切ってから母の寝巻きと着替えを探した。それほど多くの衣類があるわけではないが、箪笥のどこに母の下着があるのか分からない。居間にあったガウンを母の背中に掛け、まだ取り入れていない母の洗濯物を買い物袋に入れ、母の老眼鏡と保険証と厚手の靴下を同じ袋に詰めた。他に必要なものを考えてみたが思いつかなかった。
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