百合の傷
大陸を二分する程広大な、北から南に伸びる森。自然の国境線から少々離れた場所に町があった。そこは現在の地図に記されていない、村より少し大きい程度の田舎町。草木が多い牧歌的な風景に風が吹き抜けて、立ち並ぶ家に木々の匂いを運んだ。
屋敷の庭で爽やかな風を一身に浴びているのは、金髪の少女と緑髪の男の子。それぞれの髪が日差しを浴びて輝いた。
「気持ちいいね。姉様」
生え変わり途中の歯を見せて笑う弟へ、リリィは微笑んで返す。
「そうだね、リュウト」
姉弟なのに全然似ていない。周りに指摘されるまでも無く、リリィ自身が痛切に感じていた。姉の金髪とは明らかに違う常磐緑の髪。それはまるで森に祝福されているようで、小さい頃は弟の髪色が羨ましくて仕方なかった。
昔は自分の髪が嫌いだった。家族以外に見られるのがとにかく嫌で、短く切り揃えて帽子で隠していた位だ。何で緑髪に生んでくれなかったと、母へ文句を言った事もある。
弟と一緒にいた場がふっつりと終わる。移り変わった光景は屋敷の談話室。父はテーブルで本を読んでいて、弟は紙に絵を描いている。
椅子に腰掛けるリリィは、母に髪を梳いてもらっていた。
「随分伸びたわね」
長くなった髪に触れて母が笑う。ずっと短くしていたから、急に伸ばし出したのが不思議だったんだろう。
伸ばすきっかけは単純。冷やかしの的でしかなかった金髪を、花みたいな色で可愛いと言ってくれた男の子がいたからだ。顔も名前も思い出せないけれど、とても綺麗な緑の髪だけは覚えている。
顔から火が出る程恥ずかしくて、嬉しかった褒め言葉。近所の森で偶然出会った男の子とはそれっきりで、また会う事は無かった。
けたたましい半鐘。穏やかな世界が一瞬で変貌して、悲鳴や怒号が外から届く。何が起こっているか分からないまま、八歳のリリィは屋敷を駆けずり回っていた。
「ねぇ! 誰かいないの!?」
目に付いたドアを片っ端から開く。しかしどの部屋にも両親と弟、使用人の姿すら無い。いつも傍にいる人達はどこにもいなかった。
屋敷には自分だけ。そう考えるのに時間はかからない。独りきりの恐怖と焦りに突き動かされ、リリィは無人の廊下を走り抜ける。
「皆……。誰か……っ」
通路を進んだ先。曲がり角に父と弟が立っていた。二人は横顔を向けていて、こちらには気が付いていない。家族を見付けられた安心感から、リリィは叫んでしまった。
「父様、リュウト」
呼ばれた二人は反応する。弟は姉へ振り向いて、剣を持つ父は娘を一瞥して吠える。
「来るな、リリィ!」
直後、足を止めたリリィの前で鮮血が迸る。父の首が宙を舞い、血飛沫が弟にかかる様が映った。
「え……?」
嫌にゆっくりと動いて見えた一瞬。リリィは呆けたように声を漏らす。頭部を失った体が倒れて鈍い音を生み、胴から離れた首が廊下に落下した。
父の首が転がり、常磐緑の髪が赤の斑に染まる。鉄臭い液体がじわじわと床に広がっていく。
凄惨な光景に絶叫してへたり込み、リリィは恐怖に歯を鳴らす。弟が助けを求めているのが聞こえた。
守らなきゃ……。何とか手を伸ばした向こうで、剣を持った人間が現れる。父を殺めたらしき鎧兜の男は、震えるリュウトを撫で斬りにした。ただの作業であるかのように、躊躇の欠片も無く。
弟の小さな体が崩れ落ちる。首を大きく切り裂かれていて、溢れ出る血が服に染み込んでいった。
「う、あ……」
リリィの口が掠れた呻きを発する。父も弟も動かない。呆気無い程に、拍子抜けする程に、二人が簡単に死んだ。殺された。昨日まで当たり前に話をしていて、ついさっきまで生きていたのに。
血に濡れた剣を持つ男は笑っていた。おぞましい笑顔にリリィは身の毛がよだつ。今見ているのは人間じゃない。人の皮を被った悪魔だ。
「何だ。まだいるのか」
おののくリリィに気付いた男が面倒臭そうに呟く。しかし獲物を見つけたと言わんばかりの表情だった。返り血を浴びた鎧兜を鳴らして通路を曲がる。
ひ、と息を呑み、リリィは座ったまま後退する。腰が抜けてしまっていた。父と弟を殺した男が距離を縮めていく。さっきの光景が頭をよぎる。
「やだ……」
怖い。誰か、助けて。
目の前が霞む。鎧兜が立てる音がやけに大きい。間もなくして正面に影が出来た。
男が剣を振り上げる。リリィは反射的に腕を上げて目を瞑った。
「やだ……。助けて父様、母様!」
固い物で金属を叩く音。続けて重量感のある物が落ちた時の音。閉ざされた視界で床が振動するのが伝わり、すぐに治まった。
リリィはおずおずと目を開く。涙に潤む視界に入ったのは菜の花色の髪。稽古でしか使わない棍も映り、間一髪で助けられたのだと直感する。
「母様……」
安堵したのも束の間。倒れ込んだ男へ何気なく視線を送った瞬間、リリィの顔が強張った。
男の頭から兜が外れ、覆われていた髪が露わになっている。その色は国の名前と同じ緑色。西側の人間を証明する緑髪だ。
「何で、なんで?」
どうして味方が、緑の国の兵士がこんな事をするの?
激しい衝撃の連続に耐えられず、リリィは力なく項垂れた。虚ろに見開かれた目は焦点を結んでいない。放心状態で床に座る様子は、飾られた人形のようだった。
「父様、リュウト……」
リリィはうわ言を呟き、立ち上がる気配が無い。茫然自失とした娘を母が担ぎ上げ、緑髪の三人を廊下に置いて走り出した。
景色が変わっている。ふと横目を使うと、生い茂る木々が後ろへ流れていた。森の獣道で我に返ったリリィは、誰かに担がれている事を認識する。
「え、えっ?」
思わず足をばたつかせてしまう。それは意識を取り戻したのを相手に教えた。
「気が付いた? リリィ」
「母様?」
「そうよ」
揺れて流れていた景色が止まり、地面に降ろされる。足を付けたリリィは辺りを落ち着き無く見回した。そして、何があったのかを急速に思い出す。
「……あ……あ……」
震えて頭を抱える。父の首が飛んだ瞬間が、弟が斬り捨てられる様子が鮮明に浮かび、リリィは蒼白になった顔で泣き叫ぶ。溢れた涙が頬を伝って雫になる前に、母がリリィを抱き寄せた。
「怖かったわね。遅れてごめんね」
リリィは母に縋りつく。ひたすらに泣いている内に喉が枯れ、号泣は嗚咽に変わっていった。一頻り暴れていた感情が治まって母から離れる。
「なん、で、緑の兵士、が……」
リリィはしゃくり上げながら問う。緑の国と黄の国が戦争中なのは当然知っていた。どっちが勝っているのか負けているのかはっきりしていない事も。
敵は東側。だけど父と弟を殺したのは西側の人。全然意味が分からない。
「リリィ、良く聞いて」
凛とした声に自然と背筋が伸びる。棍術の稽古の時と同じ雰囲気で母は語った。
西側の兵士が町を襲った事。緑の国にいるのは危険な事。千年樹の森を越えて黄の国へ逃げれば、金髪のリリィは東側に溶け込める事。
「ここにも兵がやって来るわ。だから」
母が説明を区切り、怪訝に思ったリリィは耳を澄ます。怒声が微かに聞き取れた。
早すぎる、と、母は呟き、娘の肩に手を乗せて告げる。
「私が兵士達を引き付ける。その間に少しでも遠くに逃げなさい」
有無を言わさぬ口調に体の芯が冷えた。つまり、母を残して一人で森を抜けろと言う事だ。
「やだ。嫌だよ。母様も一緒に逃げようよ」
リリィは首を振ってしがみつく。自分だけで黄の国に行くなんて出来ない。独りぼっちになりたくない。
駄々を捏ねる娘に、母が毅然と言い付ける。
「貴女はティグレイの娘。強い虎の子どもよ。早く行きなさい」
父の名前はこの地方の古い言葉で『虎』を意味するらしい。それを瞬時に思い起こしたリリィだが、納得せずに涙声で訴える。
「母様と一緒じゃなきゃ嫌だ!」
肩に乗っていた手が頬を叩く。撲たれた事の無かったリリィは、唖然と母を見上げた。
「リリィ。貴女には黄の国と緑の国、両方の血が入っている」
西側民族の父と東側民族の母との間に生まれた子。リリィとリュウトには二国の血が流れている。物心付いた時からしばしば聞かされていた話だ。
「今は黄と緑で喧嘩をしているけれど、いつか仲良くなれる時が来る。そんな時代に必要なのは、両方の立場で大陸を見られる人なのよ。貴女ならそれが出来るわ」
母が再び娘を抱き寄せる。赤くなった頬を押さえていたリリィは、優しく柔らかい感覚に不安を忘れた。
「生きて、リリィ。愛してるわ」
言い終わると同時に肩を引っ張られる。母の後方へ押しやられたリリィがよろめきつつ振り返った。
「母様……」
「早く行きなさい! 千年樹は貴女を見捨てない!」
叱咤を飛ばされたリリィは戸惑い、それでも母に背を向けた。緩慢に一歩目を進んで、以降は前を見てがむしゃらに走る。
走り出してさほど経たない内に、落ちた枝葉を踏みしだく音に混ざって声が届いた。森の中で、しかも秒ごとに距離を広げているはずなのに、リリィの聴覚は声を拾い上げた。
「我が名はソレイユ・アーシェ! 同胞を殺めし下郎共よ、貴様らに千年樹の加護は無いと思え!」
転んで擦りむいた脚。木にぶつけて痣の出来た腕。傷だらけの体を動かして、リリィは道なき道を歩いていた。
「父様。母様。リュウト……」
息も切れ切れに勾配を登る。森が徐々に開けて、やがて見晴らしの良い崖へと出た。立ち止まったリリィは眼下に広がる大地を眺め、そして言葉を失った。
黒い煙が空へ伸びている。その真下に火の塊があった。地図があるでもない。今自分がどこにいるか分かる訳もない。しかし勘付いてしまった。
町が燃えている。生まれ育った町が焼かれている。
もう立ってすらいられない。リリィは膝を落として俯き、無意識に地面を引っ掻く。蒼と黒に彩られた目が涙を零す。
「うああぁぁぁ!」
生き残った少女の悲痛な叫びが、王都の外れで響き渡った。
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