13.
「ハーッハッハッハッハーッ! サイッコーだなぁ! ええ? おい!」
一番地区を駆け抜ける高級車の後部座席から身を乗り出し、女が高らかに笑っている。
車内は冷静さを崩しもしない運転手である執事と、恐怖に凍りついた警官と少年、それから一人呵々大笑している女だった。
飛行船が高層ビルを破壊していったのは、いま車が走っている場所からもう十ブロックほど背後でのことだ。だが、それでもそこかしこから悲鳴が上がり、あらゆる建物から我先にと人々が路上へと駆け出してくる。
「おいおい、ディミトリ。平気か?」
「少々揺れます……が、目的地までは必ず」
人をうまく避けながらも、執事は更にアクセルを踏む。
泡を食ったのは警官だ。
「ディ……ディミトリ殿! 本当にだいじょ……危ない!」
パニックで路上に出てきた人々は、避け続けられるほど少ないわけがなかった。
背後から高級車が爆走していることになど気づきもしない中年女性が、車の進路上に進入してきていた。
警官が声を上げたにも関わらず……執事はアクセルを更に踏み込んで加速する。
ガガン、と衝撃が連続し、中年女性の腰あたりがフロントバンパーの右角に、そのまま浮き上がった背中から後頭部がフロントガラスの右側に命中。フロントガラスの端にひび割れを付けながら、助手席に座る警官の正面で勢いよく撥ね飛ばされて歩道に吹き飛んでいった。
その一瞬の光景に、女が口笛を吹く。
「ありゃあ痛そうだ」
「なんて事を! ディミトリ殿! 貴方は――」
「私もニードルスピア家に……ミセス・リンに仕える者です。ブラック・ウィドウの執事が、荒事の出来ない者だとお思いだったのですか、ギレンホール殿?」
目を白黒させる警官の横で、中年女性を撥ね飛ばしたばかりの執事は涼しい顔でそう言ってのける。
「それは――」
「カカカカッ! 流石は我が執事なり、ディミトリ!」
「一人を見せしめにしたお陰で、車道に飛び出す愚か者も少なくなりましょう」
執事の平素と変わらぬ声音の示す通り、我先に逃げ出していた人々は、爆走する高級車に怯えた顔をして通りすぎるのを横目に見ていた。
「よしよし。五番地区まではあとどれくらいだ?」
「あと……五分もあればたどり着きましょう」
「じゃ、そろそろだな」
女は身を乗り出すのを止めて、窓を閉めると後部座席に深く座り込む。
手には先ほど飛行船を墜落させた起爆装置。
女が手の平の中でもてあそぶそれには、先程の赤いボタンとは別に引き金がついている事に、少年はようやく気付く。
「……マム。まさか……」
「ああ、そうさヨハン。このトリガーはこっちのボタンの安全装置じゃあねぇ。それぞれが別の起爆装置になってんのさ」
「あれだけじゃ……な、い?」
震える少年に、女は笑う。
「たりめーだろ。あの程度で終わりだったら期待ハズレもいいとこだぜ」
そう言ってから、女は引き金を引く。
「ディミトリ、頭上に気を付けろよ!」
「もちろんでございます」
「マム。今度は何が――」
背後を振り返った少年が、言葉を失う。
リアガラスの向こうで、崩れ落ちた高層ビル群の土煙の上で制御を失っていた飛行船が――破裂する。
同時に何かが飛行船から上空へと射出。
それが何だったのか理解している余裕もないまま、数瞬後に、遅れて凄まじい破裂音が鳴り響き、衝撃波に車体が揺れる。
「へへへ。いよぉーし。ここまで届くハズだぜ。伏せてろよ!」
「マム!」
「針降る都市。それを、文字通りの意味にさせる特殊炸薬さ! これで一番地区全域は――」
話し終わらないうちに、車の屋根、フロントガラス、ボンネットに無数の針が降り注ぎ、豪雨かのような騒音が車内に反響する。
屋根はへこみ、何本かが貫いて先端が車内に顔を出し、ボンネットには刺さった針が垂直に突き立つ。フロントガラスはあっという間に網目状のひび割れだらけになる。
「ふぃー。もっと太くしてたらこの車じゃ助からなかったな」
針が降り終わってからしばらくして、女が乾いた笑いを上げる。
「……ギレンホール殿。手伝っていただけますか?」
「え? あ、ああ……」
怒涛のような事態に呆けていた警官が、執事の言葉にハッとする。
警官は上着を脱いでそれを拳に巻き付けると、思い切りフロントガラスを殴り付ける。
流石に割れているだけあってたわみはするが、一撃ではびくともしない。警官は二度三度とフロントガラスを殴り、ようやくフロントガラスを破砕した。
そのほとんどは外に散乱したが、一部のガラス片を執事の警官の二人は浴びてしまう。が、執事はそれを払いもせず、冷静さを失わなかった。
「ありがとうございます。視界が悪かったもので」
「……どう、いたしまして」
平然としている執事に、警官はまるで自分の態度の方がおかしいのだろうか、と疑問に思わずにいられないようだった。
フロントガラスが無くなり、開けた視界の向こうでは、歩道で逃げ回っていたはずの人々が倒れ伏していた。彼らの肩に、頭部に、背中に、長さ二十センチメートルほどの長い針が突き立っていて、先程この車を襲ったものが周囲にも被害をもたらしているのだと伝えてくる。
「“針降る都市”か。……これまでは単なる異名だったが、これからは単なる事実を示す呼び名になる。レオナルド・アロンソがいなきゃ、こんな方法とろうとも思わなかったんだが……皮肉なもんだな」
歩道に倒れる人々を眺める女の視線は、可哀想な物を見る憐れみの視線だった。
「ニ、ニードルスピア卿……。貴女はなぜこの様な……。この、様な無差別殺戮など……」
「馬鹿言うなよスコット。無差別なんかじゃねぇだろ。ちゃんとこの都市の住人を狙ってるんだからな」
「それは……え?」
後部座席を振り返る警官は、酷く冷たい笑みを浮かべた女に言葉を失う。
「ミセス。まもなく封鎖線に到着します」
「おお。やっとか」
女が顔を上げ、金色の瞳をまた輝かせると窓を開けて身を乗り出す。
未だ速度を落とさない高級車の前方に、封鎖線が出来ていた。
とは言っても、それは軍が作る様なしっかりしたバリケードではない。通学バスや何処かから引っこ抜いてきた金網なんかを使った、即席のバリケードだ。
その周囲に集まって気勢を上げるのは、お世辞にも身なりの整っているとは言いがたい者達だ。
服が擦りきれ、身体も汚れっぱなしの人々。
そのほとんどがスラム出身で、場合によってはホームレスだ。この都市の大部分を占めているはずなのに、この都市のつま弾き者として扱われ、一握りの富裕層のみならず一般市民からさえも憎悪の対象とされ、怒りを募らせた集団。
彼らはエドワードの影響力の届かなかった、スパイカーズの末端達だ。
彼らは女が車から身体を出していても気付きはしない。バリケードを崩すはずがなかった。
「ディミトリ。手前で停まれ」
「承知しました」
「それは……」
危険すぎる、と警官は続けようとしたものの、最早自らの言葉に何も意味を見い出せなくなり、続きを諦めてしまう。
それからさほどもせずにたどり着き、バリケードから十メートル程の距離をとり、執事が車を停める。
「じゃーここで一丁カッコつけなきゃあな」
そううそぶきながら女が車から降りる。
バリケードからはざわざわとざわめきが聞こえてくる。誰も女が何者か知らないのだ。
「よっ……と、とと」
女は少しバランスを崩しながらも車のボンネットに乗り、ボンネットに突き立った針を幾本か蹴り飛ばすと、バリケードに並ぶ面々をまっすぐに見返す。そして、その身体からは想像も出来ないほどに大きな声で、彼らに語りかける。
「スパイカーズ! そしてそれに連なる者達! オレの指示通り封鎖を実行してくれて感謝するぜ!」
その言葉で群衆のざわめきがぴたりと止み、女の言葉を聞き逃すまいと耳を澄ます。
「オレの名は、テメェらは知ってるな? ……そう、オレこそが“ブラック・ウィドウ”だ」
爆発と見紛うような、大歓声が上がる。
女が話を再開するのにずいぶんと時間を要した。
「オレは小物だろうと大物だろうと分け隔てなく罪を償わせてきたが……教えておこう。最新のオレの犠牲者は、十分前まではギュスターヴ市長だったんだが……もう今は違う。この、一番地区の住人どもだ」
再度の歓声。が、手を上げて女はそれを遮る。
「自慢したい訳じゃねえ。それは成果というより……その程度しかできなかったって事だからだ」
再度静まり返る。
「バリケードを開けろ。……いや、封鎖した中から人を逃がせって訳じゃねぇ。お前らが中に入るためだ。お前ら全員が、“ブラック・ウィドウ”の代理としてここでのうのうと生きているヤツらの罪を裁き、罪を数えさせる為だ」
女の言葉に、彼らはめいめいに動きだし、通学バスを動かし金網をどかしてバリケードを開けると、ぞろぞろと一番地区の中へと入ってくる。
「針降る都市よ! 我、ニードルスピアの名に置いて汝の罪を裁かん。己が罪を数えよ!」
同時に『応!』という鬨の声が大地を揺るがすほどの大音響を鳴らし、高層ビル群に反響する。
「一つ! 都市の半数に達する我らをさげすみ、排除し、適切な生活環境を与えなかった罪!」
『応!』
「一つ! 格差拡大を増長させ、貧しい者達を更なる貧困に叩き落とした罪!」
『応!』
「一つ! その格差と不平等によって、我らの大事な人々を容赦なく奪った罪!」
『応!』
叫びながら、女は涙を流していた。
「行け! 全て奪え! オレたちに還元しろ! 何もかもを蹂躙するんだ! 燃やし尽くせ! 滅茶苦茶にしろ!」
大歓声を上げながら、バリケードに集まっていた人々が一番地区の奥へと一斉に駆け出していく。
「終わらせろ。この都市の全てを……終わらせるんだ」
その女の嘆きは、群衆の雄叫びに紛れて誰の耳にも届く事は無かった。
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