「あれ、本当ですか」
「んー?」
間延びした返事をしながら店主は、紅茶の葉を取り換える。
ああ、随分濃くなっちゃったね。と言いながらまるで何でもないように装って見せる。
「本当だよ。さて、3分待たないとね」
店主の燕尾服の胸元から出てきた銀鎖の懐中時計。
ずっと、探していたようなものが見つかったようなそんな焦燥感がノシュを駆け巡る。
「それ」
「君の、だね。まだ要るの?」
まだ、その言葉の意味が分からないでノシュは一度伸ばしかけた手を止める。
おかしい。懐かしい。そんな気がするのにどうしてだか分からない。
ただ、何故だかあの時計はどうしても自分の物で「取り返さなければいけない」気がする。
「それとも、もう要るの?」
「まだ、とかもう、とか何なんですか・・・・・」
手がかり一つなしに、深い森に投げ出されたような。
焦燥感と脱力感と期待感が、サイクルを繰り返す。
「それは、君にはわかってるはずだよ。」
紅茶を蒸らしながら店主は椅子を引く。
「君には、この時計を取り戻す義務と自由がある。」
「義務と、自由は反対です。」
哲学の授業で習った事を、頭の中でめくりながら思い出す。
「本当にそうかな?義務を課されることは仕方がないけれど、それを果たすかどうかは君の自由意思だろう?」
「義務は果たすべき事でしょう。」
「違うね。それはあくまで組織の決めた規律に従う場合だ。ここには組織も規律もない。
まさしく無法地帯で、純粋に義務だけが存在する。」
ようやく出てきた「義務」の定義を必死に確かにしていく。
多分、そうだったはずだ。
「義務は、従うべき事、でしょう。」
「だがしかし、突き詰めれば結局それを行うべきとされる根拠は君自身の中にある物ばかりだ。
慣習・道徳・常識。ここは別の次元で動いている。君は今、何者からの圧力も受けていない。
ここでは完全に、君自身が世界から独立して自由意思を背負っている。」
哲学の授業でも、こんなのに対処する理論も思想も習っちゃいない。
店主は猫のように目を細めて、にやりと笑う。
「ここでは、君の世界の秩序も論理も道徳も価値観も、全てが役に立たない。
けれど、ここだって入口に過ぎないんだよ。」
金鎖を指先でつまんで、懐中時計をぷらんとノシュの目の前に振り子のように揺らす。
店主の目は、相変わらず細く三日月でノシュをじっとのぞきこむ。
長い爪でそっと抑えられた金鎖は時計の重さに耐えかねて、段々と爪先に滑っていく。
「要るかい?」
三日月は、細くなっている。
「君には、自由がある。」
ノシュは息を殺して、揺れる時計を見つめる。
表側に彫りこまれた蝶はゆらゆらと頼りなく揺れる。
何故だかわからないけれど、その時計は確かにノシュの物だった。
ノシュが生まれる前から、彼の物だった。
店主の指が、ふっと緩む。
捕まえようと、とっさにノシュが手を伸ばした瞬間に、時計は音もなく滑り落ちて、消えた。
「どこへ、行ったんですか」
間に合わなかった、自分の大切な宝物がわけもなく他人の手で壊された。
そうとしか思えないような理不尽な怒りがノシュを支配した。
店主を睨みつけて、椅子から半分立ち上がりながらノシュは消えた懐中時計を探していた。
「君、あれが必要だと思ったんだろう?」
「どこに行ったんですか!」
あれは、自分の物だった。取り戻さなきゃいけない。
どうしてだとか関係ない。あれが絶対に要るんだ。
「君が必要だと思ったから、あの時計は送られたんだ。アリスみたいなもんかな。」
「アリス イン ワンダーワンド」
ルイス・キャロル著の名作。少女アリスが白ウサギを追ってナンセンスな世界に飛び込む物語。
どうでもいい常識がふっと出てくる。
「君は、あの時計を探しに行かなきゃいけないよ。」
店主は何でもないように、目を上手に逸らしながらカチャカチャと軽い陶器の音をさせて、ポッドを覗きこんだ。
空いたふたから、深い紅茶の香りがした。
「何の葉か、分かるかい?」
「・・・・・プリンス・オブ・ウェールズ」
「の、等級は・・・・・」
「ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコ」
「凄いねえ!」
わざとらしくパチパチと店主は手を叩く。
「君は、本当に目が良いんだね。」
ぎゅっと手を握りしめる。真意の分からない質問が繰り返されてる間にも、あの時計は
「さて、そんな君に問題だ」
店主の奥に一刻も乱れない時計たちの隙間に備え付けられた棚が見える。
棚にはずらりと紅茶の缶並んでいた。
全て品種は「プリンス・オブ・ウェールズ」。
金色の缶に反射した光が、ノシュの目に差し込む。
光、一体どこから?そして、何時から?
「時計はいま、どこにあるでしょう。」
店主は目を伏せて手元に神経を集中させながら、紅茶を注ぐ。
光源が分からない金色の反射光が、店主の眼鏡にノシュの顔を映し出す。
「あなたが、知ってるんじゃないんですか?」
「んー。場所は分かるけど、位置は分からないなあ。で、君はあれが欲しいかい?」
蘭の香りの紅茶をいれたカップが差し出される。
そもそも、何でこんな所でこんな風になったんだ。
一体、何が起きようとしているんだ?
これは、正しい選択なのか。
自分が選ぼうとしてる選択肢なんて、分かりすぎるほど知っていた。
それでも、一瞬危機が迫った人に対してのみ訪れるようなあの第六感と形容されるような感覚が、ノシュに語りかける。
”行くな”
「欲しいとかじゃなくて、あれは」
「そう、君のだよ。まあ、君にとってはあれは必要だけど要らないんだけどね。要るって言うならしょうがないな。」
声を振り切って、ノシュは店主の手招く店の奥へ足を進めた。
店主は作業台に繋がっているらしい黒の重い、舞台の幕のようなカーテンを引いてノシュを無言で呼んだ。
マネキンのような違和感と、張り付いた笑顔のまま。
足を進めた先に、この店の中で最も大きく、そして古い時計がノシュを待っていた。
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