(前編からの続きです)
☆
深夜二時。ベッドでリンがふと目を覚ました。
枕がぐっしょりしている。
(…そっか、泣きながら眠っちゃったんだ…)
パエリアと四葉Pのことを思い出して、胸がチクリとした。
…喉渇いた。
リンはもそもそとベッドから起き上がった。
常夜灯だけがついた薄暗いキッチン。
食器棚からコップを取り、冷えた麦茶を取り出す。
冷蔵庫のドアから漏れる光が眩しくて、目を細めた。
トポトポと麦茶を注ぎ、喉を潤す。
「…リン…」
暗がりから突然名を呼ばれてリンはビックリした。
振り向くと廊下にミクが幽霊のように立っていた。
「ミ、ミク姉! ビックリさせないでよ!」
ミクは出掛ける時に来ていた服のままだ。
「…今帰ったの? 遅かったのね…」
「リン、この前、四葉Pさんとこで新曲録音してきたでしょ」
ひどく声が嗄れている。喋るのもつらそうだ。
「ミク姉! どうしたの、その声!?」
「今日のお仕事ね、その曲のコーラスだったよ。四葉Pさんね、リンの声大好きだって」
ミクはそれだけ言うとよろめきながら自分の部屋に行き、着替えもせずベッドに倒れこんだ。
リンが慌てて後を追い、ベッドのそばに膝をついてミクに話しかける。
「ミク姉、どうしちゃったの? こんなフラフラになっちゃって…声も…」
ミクはうつ伏せで枕に顔をうずめている。
「…リンのキーに合わせないといけないから、音が高くて高くて…」
枕越しに聞こえる嗄れた声。聞いているだけで痛々しくなってくる。
「…四葉Pさんは『それじゃリンの声が生きない』って、何回でもやり直しするし…妥協を許さない人なのね、あの人…」
「そうだったの…」
リンがミクの背中をさする。
「…ミク姉、ゴメンね…あたし、一人で落ち込んじゃって…」
いいの、とミクは言った。
「お姉ちゃん、何か欲しいのある? 飲み物は?」
「…お腹は空いてるんだけど、食べたいような食べたくないような…」
「疲れてるからだよ。おかゆ作ろうか?」
身体がピクッと反応した。
「食べたいのね? 鰹ダシがいい?」
「…白かゆの方がいい…でもネギは入れて」
「分かった。ちょっと待っててね」
☆
湯気が立つおかゆをトレイに乗せ、リンがミクの部屋に戻った。
ミクは自力で服を脱ぎ、タンクトップとショーツ姿で寝ていた。
「お待たせ」
ネギの臭いを嗅ぎつけ、むくっと起き上がる。
ミクは髪止めも外している。
ツインテールをほどいたミクは普通の女の子みたいで、また別の可愛いらしさがあるとリンは思う。
リンがベッドに腰掛け、マットレスの上にトレイを置く。
おかゆとネギの良い香りが部屋に広がるが、ミクはなぜか手を付けない。
しばらくの間、二人は無言でおかゆをじっと見つめていた。
「…ミク姉」
「何?」
「ここはやっぱり、『ふー、ふー、あーん』しなきゃだめかな」
ミクが腕を組む。
「そうよね、ラノベでおかゆときて『ふー、ふー、あーん』しなかったら、ラノベの神様から天罰が下るわよね」
「ラノベの神様っているの?」
「いるわよ、日本は八百万の神の国だから。三途の川を渡るとラノベの神様がいて、お前は『ふー、ふー、あーん』をしなかったから、来世はオキアミだって言うの」
「嫌よ! そんな地味な生き物! 来世もボカロか人間がいい!」
「人間でもいいけど、職業はテープ起こしよ」
「うわあ、それも嫌…職業を卑下するわけじゃないけど、絶対あたしには向いてない…ミク姉、『ふー、ふー、あーん』してあげるから、食べて」
リンはスプーンでおかゆを掬うと、息を吹いて冷ました。
「はい、あーん」
リンがミクの口元にスプーンを寄せる。
ミクが照れて笑う。
「きゃあ、リン、これ恥ずいよ、結構」
「食べないとミク姉の来世、フジツボだよ」
「フジツボは嫌。食べる」
ミクがあーん、と口を開けた。
きれいに並んだ歯と、ピンク色の舌がちらりと覗く。
ちょっとドキッとした。
いつも一緒に食事しているのに、なんだかエッチな感じがする。
距離が近すぎるのだ。
ミクがはむ、とスプーンを咥える。
スプーンを通して柔らかな舌の感触と、コツリと歯が当る感触が伝わる。
赤ちゃんに食べさせてるみたい――とリンは思った。
唇に挟まれたスプーンをゆっくりと引き抜く。
おかゆのとろみで艶っている唇を、ミクがぺロッと舐める。
「美味しい」
もぐもぐとおかゆを食むミク。
あまりの可愛らしさにリンが身悶えする。
「リン、どうしたの? クネクネして?」
「…ミ、ミク姉…か、可愛すぎ…」
「え? そう?」
ミクが赤くなる。
リンはドキドキする胸を押さえている。
「あー、やばやば。惚れるとこだった。すごいわね、おかゆパワー」
「そんなに?」
「食べるときの顔も可愛いけどさ、スプーンから伝わってくる感触が何とも…」
「へー、自分じゃ分かんない」
「じゃあさ、あたしに『あーん』やってみて」
リンがスプーンをミクに差し出す。
「いいけど、もろ間接キスだよ、いい?」
「いいよ」
今度はミクがおかゆを吹いて冷ます。
「あーん」
リンがスプーンにぱくりと食らいつく。
幼いリンの仕草は、ミクに輪をかけて可愛らしい。
ミクの顔がボッと赤くなる。
「…リン、結婚して」
「ね、そうなっちゃうでしょ」
「あー、びっくりした。なるほど、これは悩殺ね」
火照った顔をパタパタと手で扇ぐ。
「面白いけど、こんなことしてたらおかゆ冷めちゃう。ミク姉、お椀とスプーンちょうだい。食べさせてあげる」
☆
二、三回も「あーん」してあげればラノベの神様への義理は果たせると思われるのだが、結局リンは全部「あーん」でミクに食べさせた。
「あー、美味しかった。喉も良くなったみたい」
好物のネギのおかげか、ミクはすっかり元気になった。
「良かった、ミク姉が元気になって」
「ありがとう、リン」
ミクがにっこり微笑む。
天使と呼ばれているだけあって、ミクの笑顔は天下一品だ。
おかゆパワーが持続しているのか、胸がキュンとしてしまう。
「…ねえ、ミク姉、聞きたいことあるんだけどさ…」
もじもじしながらリンが言った。
「なあに?」
「…ルカ姉とキスしたとき、どんな感じだった…?」
ミクが決まり悪そうな顔になる。
「やあね、まだ気にしてたの? その話」
「教えてよ どんな感じなの? キスって」
声が切実だ。
あたしもこんな感じでルカに迫ったのかな。
「どうって…気持ちよかったけど…」
リンがちょっと怒った顔になる。
「そんだけじゃ分かんないよ。どんな風に気持ちいいの?」
困り顔のミク。
「…溶けちゃいそうな感じ…って言ったら分かる?」
「分かんない」
「もう、言葉で説明できないよ」
あ、言っちゃいけないこと言っちゃったかな、とミクは思った。
リンの顔がふわっと赤くなる。
「…あたし、知りたいな…」
ベッドの上でミクににじり寄る。
ミクは焦って後ずさった。
「ちょ、ちょっと、リン。大切にとっとくって言ったでしょ」
「ミク姉だけ知ってて、ずるい」
潤んだ瞳でミクを見つめる。
甘えるリンは抱きしめたくなるほど可愛い。
「…いつもはあたしに突っかかってくるくせに。ルカじゃなくていいの?」
「あたし、ミク姉がいい。ねえ、教えて、あたしにも…」
多分この世にこれ以上可愛い生物はいないだろうと思える表情でリンは言った。
ミクの中で何かがぷちっと切れた。
「…もう、一度だけよ」
「…うん」
「…目を、閉じて…」
そっと唇を寄せ合うミクとリン。
このとき、二人は気付いていなかった。
ドアが少しだけ開いていて、部屋の灯りが廊下に漏れていたこと、
夜中に目を覚ましたルカが、灯りに気付いてミクの様子を見にきたことに。
「ミク、遅かったのね」
あと一センチで唇が触れ合うというところで、ルカがドアを開けた。
ビクッとして硬直する二人。
ルカは一瞬訳が分からず呆然としたが、状況を呑み込むとピンク色の髪がざわざわと逆立ちはじめた。
「ル、ルカ! 違うの、これは…」
違うのと言いつつ、うーん、見たまんまよね、とミクは思った。
「ミクー!!! あんた、リンに何してんの―!!」
ルカが飛びかかり、両の拳でミクの頭をグリグリする。
「痛ーい!! 痛い痛い痛いー!!」
スタイルを維持するため筋力トレーニングを欠かさないルカは、四人の中で一番腕力がある。
リンはこそこそと壁づたいに部屋を出て、そーっとドアを閉めた。
ドア越しにミクの悲鳴が漏れ聞こえてくる。
「ミク姉、ごめんなさい」
そうつぶやくと、リンは自分の部屋に避難した。
「あー、恐かった。あ、雨止んでるみたい…」
☆
夜が明けると雨はすっかり止んでいた。
鬱陶しく覆いかぶさっていた雨雲はきれいに姿を消し、
清々しい朝日がリビングに差し込んでいる。
「…ルカ姉、機嫌悪いの?」
朝食のハムエッグを食べながらレンが聞いた。
ルカはツンとして、起きてからほとんど口をきいていない。
ボクには覚えがないから、矛先はミク姉かリンだろう。
何か二人とも縮こまってるし。
「この二人ね、昨日キスしようとしてたのよ」
ルカがぷりぷりしながら言った。
「ルカ姉、アレはおかゆ効果だってば」
「なんだよ、おかゆ効果って?」
眉をひそめレンが聞く。
「ラノベにおけるおかゆの惚れ薬効果のことよ。アレのせいでフラフラ~とそんな気になっちゃっただけなんだから。いま別にミク姉とキスしたくないもん」
そう言ってリンはトーストを齧った。
レンはますます意味不明といった顔になる。
「ひど、リン、あたしあんたのせいでグリグリされたんだからね」
「何にせよ、ミクが自重しなきゃいけないでしょ!」
また怒られてミクがしゅんとなっていると、携帯の着信音が鳴った。
「あたしだ」
リンが走って取りに行き、電話を受ける。
話し声が聞こえる。声が明るい。
通話を切ると上機嫌で戻ってきた。
「四葉P様から」
「あなた『様』付けて呼んでたっけ?」
ミクがあきれ顔になる。
「この前収録した曲ね、録り直したいとこがあるから、ミク姉も一緒に来てって」
「あ、あたし、まだ喉の調子が…」
昨日のスパルタ調教を思い出して、ミクはわざとらしく咳払いした。
「そう? 録音終わったらランチご馳走するって言ってたけど、無理ならあたしだけ行って来るね」
「♪あ~。うん、もう大丈夫みたい」
「調子いいんだから」
みんなで声をあげて笑う。
「リン、新曲って、どんな歌?」
レンが聞いた。
「素敵な曲よ。こんな感じ」
リンがアカペラで歌う。
アップテンポの、思わず身体が動いてしまうような曲だ。
ルカとレンがリズムに合わせて手を叩く。
「初恋の歌なのね。メロディー可愛い」
サビになるとミクがコーラスを合わせた。
心から楽しそうに歌うリン。
リビングが、二人の明るい声に包まれる。
おわり
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今日はホットケーキだ。
「レン、出てきた? ウミウシ婆ばあ」
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朝から雨が降っていた。
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空は均一な灰色の雲に覆われ、当分やむ気配はない。
朝食のテーブル。
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