6.
マスターの元にやって来てから、ずいぶん時が経った。
季節は何度も巡り、わたしはマスターの手に引かれてこの都市の酸いも甘いも見てきた。
色んな約束をした。
ゆびきりげんまんもした。
マスターに拾われるまで、わたしにはなんの価値もなかった。
けれど、今は違う気がする。
マスターの手助けがわたしにはできる。
初めはなかなか上手くいかなかった。
けれど、少しずつできるようになってきた。
わたしには、今なら少しくらいの価値があるかもしれない。そう……思えるようになった。
けれど、まだまだだ。
もっと色んなことができるようにならなければならない。
マスターの隣は居心地が良かった。赤い模様が印された手が、わたしの頭をくしゃくしゃと撫でると、わたしは必要とされているんだって感じる。
価値なんてなかったはずのわたしに、マスターが価値を与えてくれたんだっていう感覚が、そこにはある。
そんなマスターが、仕事からの帰り道に不意に弱音をこぼした。
「ふー。オレは弱い人間だ。……こんなんじゃダメだな」
今までそんなことは一度もなかった。
急に恐ろしい気持ちがふくらむ。
「急になにが……大丈夫ですか?」
「いや……すまない。オレは――」
そう言いかけ、マスターが路地裏を抜けて通りの道へと出る。
瞬間、黒い影が現れる。
「マスター!」
「死ね! 市長の手先め!」
そいつは黒光りするなにか――普通よりずいぶん大きい拳銃を腰だめに構え、ためらうことなく引き金を引いた。
破裂音――連続する銃声。
舞い散る赤の花弁――鮮血。
ゆらぐ影――崩れ落ちる身体。
「思い知れ! これが革命の鉄槌だ! アレックス・ニードルスピア、庶民の苦痛を思い知れ!」
そしてそのままわたしにも狂気の視線を向けて拳銃を構える。
「やめろ!」
マスターが力を振り絞って立ち上がり、わたしをかばう。
再度、マスターの身体に紅の花が咲く。
「ッ!」
「コイツに……手ェ出すんじゃねぇ!」
「ヒ、ヒィィ!」
マスターの姿に黒い影は怯え、走り去っていってしまう。
でもそんなこと気にもしなかった。
ただ、目の前のマスターの安否しか気にしていられなかった。
「マスター!」
黒い影が走り去ったのを見て崩れ落ちるマスターに駆けよって、上半身を抱き上げる。
「……無事……、か?」
「はい! わたしは、わたしは……」
突然のことに混乱してまともに返事ができなかったけれど、そんなわたしを見てマスターは安心したように笑った。
「ククク……カカカッ。よかった。……けど、こんなんで……終わり、とはよぉ」
「やめて下さい。しゃべらないで――」
わたしの言葉を、マスターはただわたしの肩に手をおいてさえぎる。
「“リン”。お前は……利口な子だ」
咳き込み、口から血が溢れてあごを伝う。それでもマスターは口を閉じようとしなかった。
「……はい」
涙を流すしかなくて、わたしはマスターの話にうなずくだけで精いっぱいだった。
でも、抱いたマスターの身体から失われていく熱と、ドクドクとわたしの全身を濡らすほどに溢れる赤い血が、今から医者を呼んでも無駄だという事実を容赦なくわたしに突きつけてくる。
マスターがわたしの襟をつかんでくる。
「オレの……跡を継げ」
「わかりました」
わかりません。
まだ、生きていてください。
わたしの行く先には……マスターがいないといけないのに。
マスターの血の臭いがすでに気持ち悪い。
抱き寄せて離したくないのに、その初めての悪臭に離れたいと思ってしまっている自分に嫌悪感を抱く。
「オレにゃあ……跡継ぎは、いねぇ。だからお前、が……ニードルスピアの全てを……継げ」
「はい」
いやです。
それはもっと先の話です。
ずっとずっと一緒にいて、貴方がおじいちゃんになって寝たきりになった後のことです。
そのすぐとなりで、わたしがずっと見守り続けた後の話のはずです。
「お前ならできる。この都市を……幸福に」
「わかりました。成し遂げます」
絶対にいやです。
貴方を奪ったこの都市には、できる限りの高い対価を支払わせます。
幸福になんて、させません。
絶対に。
……絶対に。
「ディミトリに、任せれば……相続は何とかなる。後は……市長を頼れ」
「はい」
わたしは誰も信じません。
全てが、この都市が敵で、貴方の仇です。
絶対に許しません。
ディミトリはともかく……誰が市長のことなど。
「どうして? 嫌だよ、どうして?」
「ハハ……どの道……、こうなる運命だったさ。レオナルド・アロンソが……ここまで手強いとはな」
憎しみはどこまでも増えていき、像として形を成していく。
わたしがなにを成し遂げるべきか。
そのためにはなにをやるべきか。
マスターの、アレックス・ニードルスピアの命を奪ったこの都市に対して、リン・ニードルスピアがどのような復讐をするのか。
わたしの腕の中で熱を失っていくマスターを抱き締めながら、ものすごいスピードでプランを構築していく。
「リン。オレは――」
そこまで言って、マスターはなにごとか音にならない言葉を口にする。そしてこと切れ、とうとう力を失ってしまう。
「……」
わたしは絶望感と無力感にさいなまれながら、彼の身体を強く抱き締める。
「わたしも愛しています。……アレックス」
世界が色を失っていく。
アレックスの死と共に、わたしの世界がモノクロになっていく。
全身を赤く染める血すら、グレーになってしまう。
アレックス……すみません。
貴方の望みは、叶えてあげられません。
わたしは……この都市の全てに復讐します。
けれど念入りに。愛を捧げるようにそこにはわたしの全てをかけます。
この都市の終焉が、わたしの生きた証となるように。
わたしは絶対に許さない。
アレックスを奪った針降る都市を。
熱を失っていく彼の身体を抱き締めたまま、わたしはそんな固い決意を抱いたのだ。
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