…漣・一…
「……っっ――!!!」
自分の悲鳴が鼓膜を内側から振るわせた気がして、思わず眼を見開く。
それから、そこが自分が書生として暮らしている屋敷の自室だとわかり、漣はほっと息を吐き出した。
「…夢…か……」
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
僅かに開いた窓の隙間から吹き込んでくる風が、譜面を床に広げてしまっている。
まだ瞼の裏に張り付いた睡魔を拭い取ろうと、乱暴に眼を擦る。瞬きの間だけ歪んだ視界は、十六夜の月の光にぼんやりと照らし出された部屋をすぐに取り戻した。
必要最低限の家具と、勉強道具。そして、部屋のあちらこちらに広がったままの五線譜。
もう何年も、漣の世界はこの部屋を中心に回っている。
彼は、幸福といえば幸福な人生を歩んでいた。
確かに、漣はかつての大災害により肉親も何もかも全て失った災害孤児でる。両親に連れられて行った、雲を見下ろすと歌われた展望台にて災害に襲われ、そこで彼は全てを失ったのだ。
…そう、全て。
彼だけは、奇跡的に命は助かったものの、身体に傷を負い、そして精神的にはもっと大きな傷を背負った。両親との幸せな記憶はもちろん、それまで彼が歩んできた人生の全てに封をし、災害後数年は声すら失っていたのだ。
記憶も声も、そして感情さえも無くした彼を救ったのは、災害孤児たちを支援する金持ちたちの協会で、漣はそこで新しい名前を貰い、彼を書生として養ってくれる家までも見つける事が出来た。
災害後、道端で命を落とす子どもが数多くいた中、自分は本当に幸福な道を歩んだに違いない。
災害前の幼い頃の記憶はなかなか戻らなかったが、少しずつ声を取り戻し、感情を表に出せるようになったが、こうして時々まだ夢を見る。
瓦礫に囲まれた、絶望の底で幾多の命が消えていった恐怖。次は自分の番だと思うと、声は枯れ、感情は擦り減った。
「…っ……」
そんな感情、思い出すものではない。
今度は大きく頭を振って、漣は感情を抑えた。
そして、膝の上に置いたままにしていた飴色の楽器にそっと手を添える。
それは、バイオリン。
考えてみれば、この楽器のおかげで、自分はこの家に書生として迎えられたといっても過言ではないかもしれない。
漣は、あの大災害で全てを失った。しかし、彼には一つだけ残されていたものがあった。
それが、バイオリンである。
災害孤児ばかりを集めた施設で、偶然に手にしたバイオリンを、彼は見事に奏でて見せたのだ。
それは、上流階級意識の強い金持ちたちには、非常に魅力的に見えたに違いない。そこから、自分を書生や養子として迎えたいという声が上がり、その中でも漣は一番信用のある家に引き取られる事になったのだ。
なぜ、自分がバイオリンとい楽器を扱えるのか分らない。ただ、手にした瞬間、自然と楽器を構え、右手に持った弓が弦の上を走った。
自分が奏でた曲の名前すら覚えていないのに、指も身体もバイオリンを覚えていた。
そして、全てを弾き終った時の充足感。
自分を引き取ってくれる家が決まった事よりも、それまでは全く記憶にすら無かったバイオリンが、これからも弾く事が出来ると知った時の事の方が喜びが大きかった。
あれから、もう早数年。
書生として学校に通いつつ、バイオリンの練習も続けさせてもらっている。最近では、自分の身体が覚えている音を拾い集め、五線譜に書き留める事が日課になっていた。
そうすれば、失ったままである記憶に、何か良い刺激があるかもしれない。
今となっては、思い出してもしょうがないと思う記憶であはあるのだが、確かに自分が生きた証が、やはり欲しいと感じる時があった。
その日の為にも、漣は毎日、音を探しているのだ。
しかし、今日はその途中でどうやら眠ってしまっていたらしい。そして、あの大災害の時の悪夢……。
「……最悪だ…」
書きかけの楽譜を拾い上げ、溜息をつく。
最後の音符は、音符の形すら成していないのを見て、漣は自嘲した。
それから、窓の外を見て、時計を確認する。
夜も深くなりつつある時刻。決して遅く感じる時間帯ではないのだが、この家の年老いた当主はすでに眠りについているだろう。それでなくとも、そろそろ家督を全て息子に譲り、自分は病気療養のために空気の良い場所に引っ越そうかという話が進んでいるくらいだ。
自分をあの施設の中で見つけ、誠実に熱心に書生として迎える準備をしてくれた恩人の眠りの邪魔をするわけにはいかない。
しかし、眠るにはまだ惜しい。机に向かい勉学に励むべきかもしれないが、今日は無償にバイオリンが弾きたかった。
「……よし」
しばらく考え込んでいた漣は、何か思いつくと立ち上がった。
バイオリンをケースにしまい、散らばった楽譜を無造作にかき集めて鞄に放り込む。
春とはいえ、まだ夜は冷え込む。
壁に掛けてあった学生服の上着を羽織ると、漣はバイオリンケースと鞄を抱え部屋を出た。
こうして、夜遅くに屋敷を抜け出す事は珍しい事ではなかった。
どうしてもバイオリンが弾きたくなったら、我慢できずに外に出て演奏出来る場所を探した。
声が出なかった一時期は、自分の声の替わりをしてくれていたバイオリンは、もうすでに自分の身体の一部といっても過言ではなかったのだ。
そんな漣を、屋敷の人間もちゃんと把握していて、もう幼い子どもではないのだから、とあまり時刻が遅くならない程度で黙認してくれている。
いつものように、使用人用の専用通路と玄関を出て、小さな門から敷地内から出る。
そこで、もう一度懐中時計を取り出して時間を確認した。
いつも屋敷を抜け出す時刻よりは、ずっと早い。今日は、どこか遠くまで弾けに行けそうだ。
漣はいつもとは違う道を選び、足早に歩き出した。
さすが裕福な家ばかりが立ち並ぶこの一画は、ぽつりぽつりと街灯も並び、十六夜の月の明かりも手伝って、随分明るく見える。
そんな中を通り過ぎると、少しずつ街灯も少なくなり、柔らかな月の光が溢れて来る。
こういう中を歩くのも大好きだった。
何も考えず、月の光に伸びる自分の影を眺めながら歩き続けていると、自分が間違いなく生きている事が実感出来た。
毎日、自分を引き取ってくれた家に恥じない学生であるよう努め、まだ上手く声が出ず言葉を並べられない事で起こる誤解が無いよう気を遣い、緊張感を持って日々を過ごしているが、それが生きている実感になる事は無かった。
気が付けば全てが終っており、日中は一体何をしていたのかと思う事がある。
そんな中で、自分を取り戻すのがバイオリンの演奏と、バイオリンを奏でるために歩き回る事なのだ。
だから、どれだけ歩いても苦ではない。幸い方向感覚は鋭く、一度通った道は間違えないので、その日の気分により色々な場所へ行った。
もちろん、他人の邪魔になったりしないように、バイオリンを奏でる場所には細心の注意を払う。それでも、同じ所で何度も演奏するのは良くないと思うので、こうして色々と歩き回るのだ。
漣は大きな屋敷の並ぶ一画を通り過ぎ、それから橋を渡って、日中ならば多くの店が扉を開いている辺りも通り過ぎて、ほぼ自分の住む屋敷とは正反対の場所へと向かっていた。
自分の通う学校をも過ぎると、山の手に向かう坂道が長く左に伸びている。この先は、一度も行った事無い場所だ。それもそのはず。この先にあるのは、この辺りで一番有名な女学校である。別に何やら禁止事項があるわけではないが、街の住人であっても、この坂道の入り口にすら近づこうとしない。裕福な家庭のお嬢様たちばかりが通う花園は、関係無い人間にとって触れてはならない聖域のように感じるのかもしれない。
漣も、一度だけ坂道の方を見たけれど、すぐに視線を戻して右側の道を下って行った。
その道は、やがて少し開けた場所に漣を導いた。
大きく広いわけではないが、ほっとゆとりを感じさせるだけの広さを持つ芝生。その向こう側には煉瓦造りの立派な建物が建っている。そして、その二つを囲むようにして桜の木が等間隔に並んでいた。
しかし、漣の視線を釘付けにしたのは、その建物のすぐ傍らに立つ大きな桜の古木であった。他の桜に比べ、明らかに年月を経た深い色の幹に、柔らかく桜色が溶けている。
「……すごい…」
思わず声に出すと、それに答えるかのように桜の枝がザワリと風に揺れた。
一瞬、何も考えずに敷地内に脚を踏み入れようとして、慌てて左右を見回す。もし、どこかのお屋敷の庭であったら、不法侵入になってしまう。
しかし、その心配も、すぐ傍らの門扉に重厚に掲げられた図書館の文字を見つけると、すぐに消えてしまう。
そして、漣は今度こそ迷い無く芝生に脚を踏み入れて、真っ直ぐに桜の古木へと近づいた。
両手を広げてもまだ太い幹には、長い間風雨に晒された痛みこそあれ、満開に咲き誇る桜と相俟った生命力が痛い程伝わって来る。
思わず息を飲み、それから漣は急いでそこでバイオリンを取り出した。
弓を張るのも煩わしい程に、準備を済ませると、バイオリンを左肩に乗せ弓を構える。
途端に張り詰める空気。そして、時間さえも止まる感覚。この第一音が出るまでの独特の緊張感に、桜の花びら一つ一つまでもが凍りついているように感じた。
「………」
すぅっ、と息を吸い込み、弓を引く。
春の闇の中、微かに空気を共鳴させて、弦の擦れる音が儚く広がる。
それは、相変わらずどんな曲なのか知らない。
だが、身体と耳が覚えている。心を振るわせる旋律……。
漣は、ただ心が感じるままに、無心に弦の上で弓を踊らせた。
◆ ◆ ◆
綸は不意に顔を上げた。
ついうたた寝をしてしまいかけたのだが、結局眠り込んでしまう事は出来ず、中途半端に瞼の奥に睡魔を残して起きてしまったのだ。おかげで、眼の奥が変に痛む。
それをおして立ち上がったはいいものの、やはり早く眠ってしまおうと改めて鏡台の前に座った時だった。
西洋風にまとめられた綸の部屋は、父親が可愛い一人娘の為に渡来の家具で揃えられている。なので、鏡台も大きな鏡が眼の前に据え付けられ、細かな細工のされた椅子に座る形のものだ。寝台やちょっとした引き出しも、全て緩やかな曲線が目立つ外国製のものばかりで、その中で着物と袴姿の自分は随分滑稽に見える。自分の部屋なのにも関わらず、まるで無理矢理外国に連れてこられた日本人形のようだ。
そんな自分を鏡に映していた時、突然階下から声が聞こえて来た。
どうやら父親が帰って来たらしい。そして、母親ともう一人…きっと、先程綸の身体を採寸した女性だろう。
『……着物だけ……』
『それは………あちらの……も……』
『それじゃぁ………』
『……でも、お洋服は………』
『…なら、もう一度………』
「……!!」
綸は、慌てて立ち上がった。
途切れ途切れで聞こえてきた会話であったが、どうやらもう一度身体の採寸をされるようだと察した。
着物を新調する時はもちろんなのだが、洋服を作る時もまた採寸が必要だ。そして、着物と洋服では採寸が異なるらしい事も、過去の経験から綸は知っている。
きっと、あの会話はもう一度…洋服を作る為の採寸をするような会話……。
「……ぁっ……」
何故か、身体が震え出して、綸は両手で自分を抱き締めた。
結納のための新しい着物の採寸。そしてまた、新しい洋服の採寸……。
まるで、自分が小さく切り刻まれていくような痛み。
次の瞬間、綸は小走りに自室の扉にとりついて、そして音を立てないようにそっとそれを開いた。
僅かに聞こえ漏れてくるのは、居間から人が出て来る音と気配。
綸は自室の扉を閉じると、居間とは反対側の階段がある方へ走りだした。
幸いにも、毛足の長い絨毯の敷き詰められた廊下は、少し走ったくらいでは足音一つ響かせない。
階段も静かに、でも急いで駆け下り、それから綸は足元が足袋のままである事も厭わずに外に飛び出した。
―――コワイ……
ただ、その思いが綸を突き動かす。
自分が少しずつ奪われて行く感覚。少しずつ、自分が自分のものでは無くなる感覚。
春霞の漂う中、綸の姿は幻のように宵闇の中へと消えて行った。
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