昔から、歌うことは好きだった。
廓へ来てから教わった歌は全て客の興の為のものだったが、それでも他のどんな稽古よりも楽しかった。
――男のことなど何も知らずにいたあの頃が最も幸せだというのは、至極当然のことでもあるが。
あの運命の日、リンが遊郭に売られる前まではレンと二人でよく歌っていたし、両親にもあのヒトにも、上手いものだとよく褒められていた。
どこかで歯車が狂ってしまったのだろう。
神威と同じように二年前までは遊女などという職の存在すら知らなかったリンが、このような場所で若い軍人を前に唄を歌うなど滑稽であるとしか言いようがない。

「リンは」

と、唄の途中で神威が口を挟んだ。
男はおよそ、そのような情緒のないことはしない類の人間に見えたが、そうでもなかったのか。
歌とは別に考え事をしていたリンは、何を言われるのだろうと思いながらも口を閉じて神威の方へと顔を向けた。
けれどリンの目に映った男は想像していたよりも思いつめた表情でリンを見ており、先程の話の続きか、はたまた全く違えど関連するような話なのかと息を吐く。
いくら神威が他の客よりも特別だとしても、あまり顧みたくもないことばかりを突き付けられては嫌になるというものだ。
「どうしましたか?」
だからといって、体を許さずとも良いと言ってくれる良客に対して――神威に対して、そのような言い方が出来る訳もなく。
リンはにこりと愛想のような笑みを浮かべながら話を促した。
神威は言おうか言うまいか未だに迷っているような素振りを見せていたが、リンの言葉に覚悟を決めたようだった。

「リンは…その、私の偏見かも知れないのだが。このような場所には似合わないような気がする、のだが…
 どうして、廓で働いているのだ」

「は?」

おずおずといったように尋ねられた言葉に、リンは思わず素っ頓狂な声をあげた。
何を言っているのだろう、この男は。
「いや、あー、言いたくなければいいのだが」
そのリンの様子に神威は要らぬことを聞いたかと焦りを見せながら、忘れてくれと手を振った。
――本当に何も知らないのか。
尋ねられた言葉を反芻しながら、遊郭で働く女の経緯など“売られた”という事実以外にある筈もないのにと頭の中で自嘲する。
深窓の令嬢とはよく言ったものだが、まさかそれなりの地位を持った軍人である神威が、農民でも知っているだろうその程度の知識を知らないなど有り得るのか。
あまりの衝撃に神威を凝視している間に、しかしリンは男の真意にようやく気付いた。
何故リンが廓で働いているのか――簡単だ、売られたから。
そうではない。
神威はリンが此処に来て働くまでの、それ以前のリンの話を聞きたいのだと言っていたのだ。
しかし理解したとて、そう簡単に自分の出自について男に話しても良いものだろうか。
確か、それについて話してはならないという決まりはなかった筈である。
姐からもそのようなことを言われた覚えはないし、むしろ情惹きの手段として適当なことを言ってやっても良いじゃないかと他の姐たちに言われたことがあった。
けれどリンはそのようなやり方で神威の情を求める気などはさらさらなかった。それでも、かと言って…
話したいと、この男に受け止めてもらえないかと思っている自分もいる。
しかしそれはあまりに早計だ、男の情を惹く筈の女郎が男の情に流されてどうする気だと嘲る自分もいるのだった。

「すまない、まだ信用さえされていないというのに、答え辛いことを聞いてしまった…」

戸惑うリンに、神威は申し訳なさそうに言う。
確かに、先程リンが男を信じることはないだろうと言ったのもそれに従ったのも神威である。
それなのに突然またそのように内面に込み入った話をしてくるのは、明らかにおかしいというものだ。
そう思うと今度は彼女自身が、それに尋ね返していた。
「どうして…何故、そんなことを?」
歌えと言った時の表情は、それまでの言葉全てがリンへの同情だったと考えるに値するものだった。
それに傷付くような自分でもなかった筈で、同情ならすればいいと思っていたのに。
なのに何故、リンの歌を遮ってまで過去についてを尋ねようと思ったのか――その問は果たして、単なる疑問なのか馬鹿げた期待なのか。
もう一層話題を変えてしまえばいいと考えながらも聞かずにはいられなかった自分の内心さえ分からないまま、リンは神威の藤色の双眸をを見つめる。
すると神威は、その絡んだ視線を解くこともなく笑って見せた。
それは、何故また此処に来てしまったのか、自分でもよくは分からないがリンに会いたかったからだと。
そう言ったのと同じ、自嘲のような笑みだった。

「何故だろうな。ただ、私にはリンはこのような所にいる…いや、売られて置かれているのは不自然なように思われたのだ」

ああ期待などするものではないと、何度目か知らず神威の言葉にリンは自嘲した。
この男こそ、女を期待させるだけさせて突き落とす才能でも持ち合わせているのではないだろうか――それに付き合う自分もまた、滑稽であった。
一つ息を吐いてから、神威の言った言葉もあながち間違いでもないのだろうと思い直す。
きっと神威は、遊郭に売られるのは大抵がどこか名前も知らぬような農家で借金のカタにでもされた娘だとでも思っているのだろう。
それならば確かに、リンはその想定から外れる。
「神威さんは…本当に、何もご存じないんですね」
前回、彼女が男の言葉に裸体を晒した時のことを思い出していた。
世の中など何も知らぬ綺麗な綺麗なこの男を、汚したくないのだと思う。
けれどそれと同じくらい、リンが引き摺り込まれた現実の先、生きながら矜持を奪われる痛みを教えたやりたいとも思ってしまうのだ。
これが、世に聞く遊女の愛憎だというものなのだろうか――まさに、滑稽だ。
言ってしまえ。
男一人に素性を明かしたとて、どうなるものでもなければ神威がどうするとも思えない。
遊郭に通うということさえ彼にとっては慈善の為の自己犠牲の一つであるに違いないだろうに、それ以上を望むのは過ぎたこと。

「リンが私になど言えないというのなら――」

「売られたんです、両親の抱えた借金の肩代わりに」

自分から尋ねておいてなおも断っていいと言い募る神威の言に被せるように、リンは静かに言った。
別に、それが何だというのだろう。
遊女として春を鬻ぐ自分が、神威の前でこれ以上彼と同じように清廉であれるなど思う方が間違いである。
「私の家は、この近くの街で二代ほど前から商家をしていました」
ここ最近、神威に会うより少し前からずっと、これまで考えないようにしてきた昔のことを思い出してしまっていたのも、今それを彼に言うことを予期していたのかも知れない。
「ではリンの家は…」
「けれど新たに手を出した事業に失敗したのか、それともこれまでの積もった付けか…私には分かりませんが、何にせよ家は破産。
 両親は心中しようと屋敷に火を点けたらしいですが、私と弟だけ助けられたとか」
途中で話を止めては言えなくなってしまいそうで、リンは努めて冷静に淡々とそれまでのことを述べた。
誰が炎の中に入って助けてくれたのかは今になっても分からないのだが、リンとレンはその人間のお陰で生き残り、亡き両親に代わって借金を返済する為、リンは遊郭へ、レンは陰間茶屋へ共に売られることになったのだ。
もう一層、両親と共に殺してくれれば良かったのにと助けた人間を恨んだこともある。
しかし命あっての物種だとレンに言われ、お互いに手紙のやり取りだけで支えあったきたのだった――その手紙さえ、最近はめっきり来なくなってしまったのだが。

「私が売られた経緯はこれだけ…言葉の訛りがないのも、そのせいです」

言い終わると、神威の顔など見ることも出来ずにリンは俯いた。
今更その事実を恥じることさえ諦めたし、何か言葉があるとして同情以外なくても構わない。
事実を告げてしまったことに後悔などはしなかったが、ただ神威がそれを聞いてリンをどう思うかはまた別の問題である。
彼がどうであろうと、どう思おうと、勿論リン自身が嫌われたい訳などではないのだ。
今になって、もしかすれば悪く思われるかも知れないということに思い至った訳なのだが。
周囲の喧噪の中、まるでリンの部屋の中だけは空間を分けられたように痛いくらいの静寂だけが落ち満たしていた。
その切り離された音の中で、客の前で顔も上げられずに無言で俯いている自分のなんて惨めなことだろう――これが引込新造だった女とは、情けない。
「そうか」
どれだけそうして俯いていたか、神威が小さく声を出した。



「無理に聞いてすまなかった…私に話してくれてありがとう、リン」

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夜明けの夢 【第二章】 参:過去回廊 (がくリン)

『夢みることり(黒糖ポッキーP)』インスパイアの、がくぽ×リン小説です。
明治期・遊郭もの。

※注意:この小説は、私・モルが自サイトで更新しているもののバックアップです。
あしからず、ご了承ください。

閲覧数:244

投稿日:2010/08/31 16:44:58

文字数:3,603文字

カテゴリ:小説

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