文庫本の頁をめくる。
誤って数頁、まとめてめくれてしまわないように、ゆっくりと丁寧に。
片手で本を読むのにも、いつの間にかすっかり慣れていた。膝の上に本を置いて、撫でるようにして頁をめくっていく。読み始めと読み終わり、本の最初か最後にまだ頁がたくさん残っている間は要注意。ちょっと膝を動かすだけで、意地悪な本はパタンと慌てて閉じてしまうから。
最初は、何度も何度も本が勝手に閉じてしまってちっとも先に進めなかったし、それで脹れるたびに笑われた。けれど、今では本を読む合い間に、テレビと隣の様子をうかがうくらいには余裕を作れるようになっていた。
私が腰掛けるソファ。その前に大きなテレビ。
私は殆ど見ないのに、ずっと電源が点けられていて、延々と大して変化のない画像が映し出されている。それを、私は読書の合い間にちらりと眺める。
数分前、もしかしたら数十分前と殆ど変わっていない画面を、私の隣に座る彼は飽きる様子もなく眺めている。何が楽しいのか分からないけれど、じっと黙ってそれを見ているということは、彼にとっては何かの楽しみがあるということなのだろうと思い、私は何も声を掛けないまま手元の本に視線を落とす。そうして、たちまちの間に、私はその中の物語に溶け込んでいく。
目も、鼻も、耳も、口も、全てが全て本の中に吸い込まれ引き込まれていく。
けど、右手だけ残ってる。
本を押さえもしなければ頁もめくらない右手は、ソファにただ置かれている。
その上に、そっと重なっているのは彼の手。
それだけが、私を現実に繋ぎとめている。
たぶん、その小指には糸が絡まっていた。
見るも鮮やかな真っ赤な糸が。
文庫本の頁をめくる手が、いつの間にか止まっている。
目の前のテレビをじっと見つめる。延々と同じ映像を流し続けているそれから、私は目を離せずにいる。
どうしてこんなものを見ているのか分からない。背中合わせの椅子をずっと映し出しているこの画面に一体何の意味があるのか、あるいはこれを見続けることに何の意味があるのか、私には一切分からない。
けど、彼はいつもいつでもいつだってこのテレビを見ていた。
私が本を読み始め、終えるまでの間、もしかしたらそれ以上の時間を、このテレビを見て過ごし続けていた。
ぽつんと置いた私の手に、自分の手を重ねて、ずっと。
あのときの彼は一体何を考えていたのだろう。
今更、知りたいと思っている私がいる。
けれど、いつかのように私にはこれの何が楽しいのか分からなくて、いつかの彼がこれの何を楽しんでいたのかも分からなくて、本に逃げることを許されなかった私の前でテレビはその内無数のノイズを走らせ、やがてそれすらも消えていく。
結局、何も分からないまま一日が終わる。
結局、頁をめくれないまま本を閉じる。
結局、彼が何を考えていたのか私には分からないまま。
じゃあ、彼は。
黙々と頁をめくり続けていた私が何を考えていたのか、分かっていたのだろうか。
電気を消して真っ暗な部屋の中、独りベッドにもぐりこんで小指をじぃっと見つめてみる。
かつて確かに見えた気がした糸は、その色すら面影が浮かばない。
文庫本の頁をまためくり始める。
テレビの電源は消したまま。時々、思い出したようにテレビに目をやってみるけれど、そこには真っ暗な画面が待ち構えているだけで、何も映っていない。強いて言えば、有り得ない希望に縋り付いて点いてもいないテレビを覗き込む滑稽な私が独り、映っている。
そうよね、と一体何がそうなのか、一体何を期待していたのか、考えることもせずに頁をめくる。
一頁、また一頁。
ゆっくりと遅々たる速度で本を読み進めて行く。
目は、テレビを覗き込む。
鼻は、覚えのある匂いを探す。
耳は、ドアがノックされるのを待っている。
口は、勝手に名前を呟いている。
右手だけは、いつもの場所に残っている。
嗚咽を抑えもしなければ涙もぬぐわない右手は、ソファにただ置かれている。
その上に、そっと重なっていたのは彼の手。
それだけが、私が求めていた全て。
じっと待っているのに。
彼の手が再び触れることはない。
文庫本の頁にぽつりと落ちた雨が染みを作る。
ゆらゆらと揺れる視界の中に浮かぶ鍵括弧は、まるで私の気持ちを代弁しているかのようだった。
こんなこと考えるなんて馬鹿みたいだね、と笑おうとして、笑い飛ばそうとして、涙がまた落ちた。
自分の気持ちに気付いたら、それに気付いてしまったら、まるで蛇口が壊れたみたいにぽろぽろとぽろぽろと涙が止まらなくなってしまった。
嗚咽が自然とこぼれ出して、呼吸するように彼の名前を呼んでいる。
何度も何十も何百も呼び続けた名前。
何千も何万も何億も呼び続けたかった名前。
なのに、今はたった一度呼ぶだけでこんなにも胸が痛くなる。
――右手に、温もり。
はっと仰ぎ見るけれど、それは幻。
残ってる。
まだ彼の手の感触が、その温もりが、思い出そうとしなくても蘇る。
なのに、もう一度握ってくれる彼の手は、どこにもない。
手を握って。
目を見ないように顔を伏せて。
声が微かに震えているのを隠すように平静を装って。
呟くように囁くように静かに、ただただ。
さよならを告げられた。
文庫本の頁をめくる。
一頁一頁、丁寧にゆっくりとめくっていく。
右手はソファに置かれたまま。左手で頁を押さえ、目が言葉の上を滑るようになぞっていく。
やがて姿を見せた鍵括弧の中身を、知らず知らず唇が紡いでいる。
「友達になんて、なれないよ」
だって、まだ、好き。
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