十枚目の楽譜を暗譜し終えた蓮は、はたと、海草が生い茂っているところを睨んだ。
「海九央(ミクオ)! そこで、何やっているんだよ」
守り帯を下げて、蓮が叫ぶと、海草の密集したところが、サワサワと掻き分けられて、その海草と同じ色の髪と瞳の少年、海九央が現れた。
「あ。神子蓮。いいもの、巻いているね」
「お前こそ、撒いて来たんだろ。そこで、澪音(レオン)に逢ったぜ」
蓮の質問に答えるでもなく、棒読みで、宣った海九央に、蓮は、ため息をついて、そう言った。
「うん。撒いちゃった。やる気、出ないんだもん」
「お前、いつも、それじゃん。いつなら、やる気があるんだよ?」
「さぁ……」
怒り、通り越して、呆れた声の蓮に、海九央は、波に揺れる海草のように、そう答えた。
「澪音たちには、悪いことしていると思っているよ」
今まで、何の色もなかった、海九央の声が、ふっと、陰った。
「でも、僕は、澪音みたいに、頑張れる人間でもないし、海渡みたいな、守りたいモノもないし、神子蓮みたいな使命感もないし……何か、海草みたいに、ふらふらーって、なっちゃうんだよね」
その声も、海草のように、かすかに、揺らいでいるようだった。そして、そこには、確かに、泡のように淡い、悲しみや、嫌悪感があった。
「……せっかく、良い声だし、実力だって、本当は、あるのに、もったいないな」
「ねー。でも、僕って、からっぽなんだ。みんなみたいに、一生懸命、生きている男のきらきらがないよ」
「きらきらぁ?」
唐突に、似合わない擬音語を使われて、蓮は、思わず、間の抜けた声で、その言葉をなぞっていた。そんな、楽しげな擬音語が似合うのは、海九央でも、蓮でもない。
「うん。きらきら。三人とも、すごく、きらきらしているよ。僕は、きらきらしていないから、隠れやすいんだ」
浮かび上がった存在に、酔いそうになっていた蓮は、海九央の言葉に、どこか、重く、定まったものを感じて、海九央の声に、意識を集中させた。
「神子蓮は、一番、きらきらしているよ。それこそ、燃え上がるほど」
その言葉と、反対に、蓮の顔は、凍り付いた。白い顔が、今や、青白かった。
「それは、神子蓮の良いところだからね。良いところだから、隠せないんだよ」
海九央にしては、強い言葉が、海に響いた。それは、歌のように、自然で、優しい音色だった。
「でも、神子蓮の気持ちもわかるよ。始終、かくれんぼしている僕だからね」
蓮は、海九央を見た。いつもと変わらない無表情が、少し、柔らかくて、微笑んでいるようだった。
蓮が、彼の名を口にしようとした時だった。
「みぃくぅおぉ!!!」
別の声が、さきに、その名を叫んだのは。
「うわぁ。澪音。悪鬼のような顔だね」
整った顔を、怒りに歪めて、登場した澪音に、海九央は、無表情に、そう言った。
「ふざけんなっ!! 今日は、徹夜で、働くはめになると思えよ」
「じゃ、そういうことで。またね、神子蓮」
あっけにとられて、見ていた蓮に、手を振ると、海九央は、澪音に背を向けた。いつの間にか、海九央の身体に、しっかりと、水母(くらげ)の足が、絡んでいる。
「“そういうことで”じゃないっ!!!」
澪音が叫びながら、海九央に向かって、縄を振り上げた。
「海九央!」
蓮の声に、海九央も、水母も、澪音も、動きを止めた。
「ありがとう」
蓮の声が波に乗る。海に響く。それは、ほんの束の間のことだったけど、でも、止まった時間が、ゆっくりと、解けたのだ。
「ど~いたし~まして~これ~ぽ~っちの~こと~です~♪」
どこか、柔らかい声が、やはり、柔らかい節に乗って、響いた。そして、それは、たちまち、効果を表わし、海九央の周りで、海草が踊り始めた。
「うおっ!! 何なんだよっ!! その滅茶苦茶な歌詞は!! 馬鹿にしてんのかっ!!」
海草の踊りに、巻き込まれそうになって、澪音が、高く飛び上がる。
「してな~いよ~♪ た~だの~ど、く、そ~でしょ~♪」
「こうなったら、こっちも、この気だ!! 光り輝く水しぶき~黄金の嵐となり~彼の者を滅ぼせ~」
飛び上がって、激突してくる海草をよけながら、澪音が歌うと、金色に輝く水しぶきが、うねりながら、海九央に襲い掛かろうとする。
「滅ぼ~すな~んて~野蛮です~♪」
その水しぶきに、たくさんの水母がかぶりつく。
「お前なんて、滅ぼそうたって、死なないだろうがっ!! 黙って、つかまれっ!!」
「や~だ~よ~♪」
「あはははっ。二人とも、頑張れよ!!」
歌術を使いながらも、じゃれ合いのような二人に、蓮は、笑った。笑い声は、陽の踊る海のように、軽やかで、気分も、声も、また、同じくらい、軽やかに、踊っていた。
「蓮!! それ、平行しないだろっ!!」
「公平なのも、神子蓮のいいところだよね~」
澪音と海九央の声も、どこか、楽しそうで、蓮は、二人が、見えなくなるまで、大きく、手を振った。
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