俺の肩にもたれて眠っていた巡音さんが、不意に身動きした。……あ、目が覚めたのかな? 見守っていると、巡音さんが目を開けて身体を起こした。二、三度まばたきをして、ぼんやりと辺りを見ている。寝起きで頭がはっきりしていないらしい。
「あ……巡音さん、起きた?」
声をかけると、向こうは弾かれたみたいにこっちを見た。あ……真っ赤になっちゃってる。
「ああああの、わたし……」
「俺の肩を枕にして気持ち良さそうに寝てたから、起こすのもなんかかわいそうで……」
そう言うと、巡音さんは今まで以上に真っ赤になってうろたえた。無防備に寝てたよ、なんて言ったら、パニックになりかねないな。やめておこう。というか……既にパニックを起こしかけている。……話を変えるか。
「ところで巡音さん、昼食はどうする? 今日はお弁当用意してないみたいだけど」
バッグの類を持っていないところからすると、弁当を持ってきてはいないようだ。まあ俺も手ぶらだけどね。この手の公園なら、公園内に売店ぐらいあるだろう。
「あ、あの……今何時?」
訊かれて、俺は自分の時計を見た。そろそろ一時だ。
「一時になるとこ。で、俺、ここは初めて来たんだけど、売店とかある?」
「ええ、ボート乗り場の近くに」
「じゃ、そこで何か買おうか」
俺の目の前で、巡音さんがしまったと言いたげな表情になった。
「どうしたの?」
「お財布……忘れて来ちゃった……」
財布忘れたって……どれだけ慌てたんだ。思わず笑い出しそうになり、俺は必死でそれを押さえ込んだ。ここで笑うのはまずい。
巡音さんはまた恥ずかしそうな表情で下を向いている。自分でもドジ踏んだと思っているんだろう。……結構可愛かったりするんだが。
「じゃ、俺がおごるよ」
だからって昼を抜くのは健康によろしくない。
「え……そんな……」
予想どおりの返事が返って来た。……やれやれ。
「あのね巡音さん、俺、空腹の人間前にして、自分だけ食事できるほど神経太くないんだけど」
巡音さんがきょとんとした表情になる。言われた意味がよくわからなかったようだ。
「だからね、俺が代金払うから一緒に何か食べるか、それとも二人して昼飯抜くか、どっちかってこと。で、俺としては腹減ってるからちゃんと食べたいの」
言いたいことは伝わったようだが、今度は俺の目の前で悩み始めた。ああもう。結論が出るまで待ってられない。
「そういうわけだから、食べるもの買いに行こうね」
俺はそう言うと、巡音さんの手をつかんで立ち上がった。当然、引っ張られる格好になった向こうも立ち上がる。俺はそのまま、手を引いて歩き出した。
売店まで移動すると、俺は適当にサンドイッチやら飲み物やらをまとめて購入した。巡音さんは終始申し訳無さそうにしている。
売店の近くには、椅子とテーブルが幾つか置いてあった。暖かい日の昼食時ということでほとんど埋まっていたが、幸運なことに、目の前で一つテーブルが空いたので、そこに向かう。椅子に座ると、俺はビニール袋の中からサンドイッチと紅茶を取り出して、巡音さんの前に置いた。
「あの……本当にごめんなさい」
「それもういいから、食べなよ」
巡音さんはしばらく迷っていたが、俺が食べずに見守っていると、おずおずとサンドイッチを手に取った。包みを開けるのにしばらく手間取っていたが――食べたことないのか、もしかして――やがてなんとか包みを開けて、サンドイッチを食べ始めた。……じゃあ俺も食うか。
「……そう言えば巡音さん、『ピグマリオン』のことだけど」
無言で食事をするのも淋しいので、俺は話を始めた。というか、もともと『ピグマリオン』の話をする為に会ったんだよな。
俺の言葉を聞いた巡音さんの表情が、例によってすまなそうなものになる。俺は気づかなかったふりをして、話を続けることにした。こういう時は、なんでもない態度の方が良さそうだ。
「あの中で、イライザが着物を着るシーンがあったじゃない? あれ、どう思った?」
巡音さんは思案する表情になった。
「作者は時代性とか、異国情緒とか、そういう雰囲気を出したかったんだろうとは思うの。もしかしたらあの時代のイギリスでは、日本のことが流行の話題だったのかもしれないし。でも、わたしからすると、ちょっとついていけなかったわ」
あ、やっぱり、そう思うわけね。
「着物って、着るのすごく大変だもの。わたしもお母さんに手伝ってもらわないと着ることなんてできないし……外国の人がいきなり見ても、そもそもの着方がわからないと思うわ。それなのに『見事に着付けした』なんて、どう考えても無理だと思うの。羽織って出てくるのならわかるけれど」
へえ、そうなんだ。そういや姉貴も着物着たのなんて成人式の時ぐらいだよな。帰って来るやいなや「あ~苦しい! 私結婚する時は絶対洋装にする! こんなにギューギューに締め付けられるなんて、耐えられないわ!」って絶叫してたっけ。
「巡音さんって、着物着たりするの?」
「ええ、お正月にね」
……ちょっと見てみたいかもなあ。どんな感じなんだろう。
「着物って、そんなに苦しいの? 成人式の時に姉貴が悲鳴あげてたんだけど」
「基本紐で締めて着る衣服だから……しっかり着付けないと緩んできてしまうの。慣れもあると思うけど、お正月ぐらいしか着ないから、どうしても慣れなくって……」
だから和服って廃れたんだろうか。いや、廃れたって言うと悪いけど。でも、誰だって楽に着られる方がいいだろう。
「上演する時、ここのシーンを変えようかなと思うんだよね。うちの部員に着物を着ろって言うのは無理があるし」
「変えちゃったりしていいの?」
「いいんだよ。高校の演劇部で全部を完璧にやるなんて無理があるし、柔軟に対応しないと。『ロボット』の時も、回りくどい台詞とかは結構削ったんだ」
使ったのはネットで見つけた抄訳版なんだが、それでも長すぎる台詞とかがあったので縮めたりした。もちろん削った奴をみんなに見せてチェックはしてもらったぞ。
「でも、着物を着ないとしたら、どうするの?」
「何か適当に服を着せることにしようと思っているけど……何なら自然だと思う? 独身男の家に若い女性用の衣類があるっての、変だと思うんだよね」
だから作者は「日本土産の着物」ってことにしたんだろうが……。日本人の感覚からすると、着るのは無理だよ。今、巡音さんもこう言ったし。
「家政婦のピアス夫人の若い時の服とかは? あの人って住み込みよね?」
巡音さんはそんな提案をしてきた。なるほどね……使えそうだ。
「それなら良さそうだ。巡音さんってやっぱり頭いいね」
俺の目の前で、巡音さんは頬を赤らめて俯いてしまった。……照れているらしい。
「台詞の変更とかに関しても、一緒に考えてほしいんだけど、いいかな?」
俺が一人で考えるより、巡音さんと一緒に考えた方がいいものになるだろう。
「あ……ええ」
赤くなったままで、巡音さんは頷いた。あ……良かった。
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