変化の一石
ドアを激しく叩く音。声がかき消されそうな中、レンは顔を上げて少女に簡潔に伝えた。
「ごめん。多分騒がしくなる。君は傷つく事を言われるかもしれない」
椅子から立ち上がって部屋の入り口に向き直る。同時にドアが開き、年配の男が入って来た。続けてトニオとアルが入室し、閉めたドアの両脇に立つ。
「王宮に姿が見えないと思えば……。こんな所で何をしていらっしゃるのですか? 王子殿下」
こみ上げる怒りを押さえつけ、レンは男性の名を呼んだ。
「スティーブ……!」
三年前にリンを追い出した張本人であり、黄の国の宰相を務めている上級貴族。現在は王子の後見人と言う形で国の実権を握っている男である。
スティーブの後ろではトニオとアルが申し訳なさそうな表情を浮かべている。さっき聞こえたやり取りから察するに、王子に気を使って宰相を引き止めようとしてくれたのだろう。二人の立場を思うと、宰相が来てしまったのを攻める気にはなれない。むしろ無理をさせてすまないと言いたいくらいだ。
「……王子?」
レンが体を半身にしてベッドに振り向くと、少女が疑わしい顔をしてこちらを見ていた。目には明らかな不審と嫌悪が宿っている。
ああ。そうか。そうだよな。
自分はこの人を、貧民街の人達を苦しめて来た国の王子。悪意を向けられるのは当たり前だ。言い訳なんか出来ない。
悲しくて辛い。だが、レンは目を逸らそうとしなかった。
「控えろ、小娘。この方はレン・ルシヴァニア王子殿下。本来なら、貴様のような下賤の輩と関わりを持つなどあってはならん事なのだぞ」
レンには長く感じていた一瞬後、スティーブは侮蔑に満ちた口調で言い放つ。選良意識丸出しの台詞を耳に入れ、レンは不快感を覚えて顔を戻す。
馬鹿馬鹿しい。こいつは王族や貴族を神だとでも思っているのか。それとも自分は全能の存在だと勘違いしている阿呆か。どっちにしろ、敬う気持ちなんて全く湧かない。宰相として国に貢献しているのが事実でも、だ。
「朝早くから王宮を離れてご苦労だな。宰相が直々にここまで来たって事は、よっぽど重大な用事なんだろう?」
通用しないのは分かっているが、レンは大いに皮肉を込めて言い返す。驚いたトニオが僅かに目を細め、アルは少しだけ眉を吊り上げた。
二人の兵士が見ている前で、スティーブは嫌みな口ぶりでレンに答える。
「重大でありましょう。この国の王子たるレン様が、こんなうらぶれた病院にいるなど由々しき事態です」
トニオの面目を潰す言葉を受け、レンは怒気を込めて声を発した。
「取り消せ。今お前が言った事は、この病院にいる全ての人達に対する侮辱だ。懸命に生きようとする人や、命を救う為に身を削る人を馬鹿にするな」
レンの目は殺気すら帯び、雰囲気はいつ短剣を抜いてもおかしくない状態なっている。これ以上剣呑にするのは得策ではないと判断し、スティーブは仕方なく謝罪を口にした。
「……失礼いたしました」
薄っぺらな言い方に苛立ちはしたが、無いよりはマシだと考えてレンは鼻を鳴らす。ふと疑問が浮かび上がり、スティーブに問いかける。
「貧民街で大規模な火事が起こっていたのに、今まで一体何をしていたんだ? 夜中に兵士達が騒いでいたのに気が付きもせず、朝までのうのうと寝ていたのか?」
詰所を去ってすぐに外に出たので詳しい事は分からないが、王宮内は出動の準備などでうるさくなっていたはずだ。目が覚めても不思議ではない。
「これは心外です。王子殿下は私が何もしていなかったとおっしゃりますか」
スティーブはわざとらしく驚きの声を上げ、疑われて傷ついた顔を見せて弁明を始めた。
「私はこの事態を収束させる為、家臣達を集めて会議を行っておりました。王子殿下にはまだ難しい事かもしれませんが、軍を動かすと言うのはそう簡単な事ではないのです。予算の問題や国民の不安などを考慮せず闇雲に兵を出してしまっては、国の財政を圧迫する事になります」
尤もらしい意見は、レンにとってはただの言い訳としか聞こえなかった。
こいつらは事態を知っていたのに兵を送る事もせず、安全地帯で話し合いをしていただけだ。苦しんでいる人を助けられる力があるのに、高みで眺めているだけで終わりにしていた。
だけど、とレンは両手を握りしめて震わせる。
俺だって同じだ。王子の立場と地位にいるのに何も出来なかった。貴族達の意識を変えられなかったから、こんな状況が生まれてしまったんだ。
「被害の状況から、生存者の捜索は断念せざるを得ないと決定いたしました」
現場を知ろうともしないでよくもそんな事が言える。スティーブの発言に神経を逆なでされ、レンは低い声で告げる。
「……黙れ」
呻くように言ったせいか、相手には聞こえていなかったらしい。気分を悪くさせる言葉がレンの耳に届く。
「そもそも、最下層に位置する者を助ける必要など」
「黙れと言っている!」
部屋に少年の声が響き渡り、王子以外の者を強張らせた。レンは目の前にいる大人に鋭い目を向け、思いの丈をぶちまける。
「お前は国の為国の為と言っておきながら、突然の事故に遭ってしまった人達を見捨てる気か! 火に囲まれても命からがらに逃げた人達を、トニオやアル達兵士が命がけで助けた人達を放り捨てるつもりか!」
「そのような事は……。王子殿下のような方が、名字も無い平民や貧民街の人間と関わっては、王室の品格が落ちてしまいます」
スティーブの丁寧な物言いは火に油を注いだだけだった。あまりの言い分にレンは絶句し、直後に雄叫びを上げる。
「恥を知れ! スティーブ! 今お前が気にしなくちゃいけないのは王室の品格じゃない! 国民に対する態度だ!」
他者の為に本気で怒る気迫に、レン以外の者は圧倒されていた。誰も口を開かない中、レンは再び体を半身にしてベッドに振り向く。突然の行動に疑問を顔に浮かべる一同の前で、レンは少女を示して告げた。
「黄の国王子レン・ルシヴァニアの名において、この者の……、いや、火事で行き場を失った貧民街の者達は俺が預かる!」
高らかな宣言。レンに助けられた少女はぽかんと呆気に取られ、トニオとアルは目を見開いてから頬を綻ばせた。
「し、しかし王子殿下、その者は……」
スティーブだけが一人うろたえて意見を述べようとするが、レンは面倒な事を言われる前に口を開く。
「俺に逆らう気か? この国の玉座に座っているのは誰かを忘れたのか? 黄の国宰相スティーブ殿」
こんな風に言うのは好きではないが、背に腹は代えられない。
王子が満面の笑顔で当てつけると、宰相は苦々しげな表情で周りに視線を巡らせた。兵士二人は平然とドアの前に立ったままで、ベッドにいる少女は冷淡な目を向けている。
形勢不利と判断し、スティーブはレンに背中を見せて歩き出す。トニオによって開かれたドアから退室する間際、負け惜しみしか思えない言葉を残した。
「後悔する事になりますぞ、王子殿下!」
捨て台詞を吐いて逃げるスティーブを冷めた目で見送り、レンは閉まるドアを見ながら呟く。
「俺が後悔するかどうかは、お前が決める事じゃない」
張り詰めていた空気が和らぐ。騒がしかった部屋がようやく静かになり、レンの穏やかな声が通る。
「二人共お疲れ様。下がって良い」
何事も無くトニオとアルが出ていくと思っていたが、レンの予想は空振りになった。
「レン王子、少々よろしいですか? 訊きたい事があります」
「ん? 何?」
アルに話しかけられ、もしかしてまた何かまずい事をしてしまったかとレンは考える。内心かなりびくつきながら返事をしたが、その心配は不要だった。
「どうして王子が俺のような下っ端の名前を知っていたのですか?」
貴族のトニオの事なら知っていても不思議ではないが、部隊長でも無ければ大きな手柄を立てた事も無い兵士の名を何故知っていたのか。名前を呼ばれた時からずっと気になっていたとアルは質問する。
「え? 何? それってそんなにおかしい事か?」
レンにとっては特別何でも無い事なのかもしれないが、アルにとっては驚愕以外の何物でもない。
だってさ、と前置きをしてレンは説明する。
「二人共よく見回りをしているから顔は覚えてたし、訓練場で名前を聞いた事もあったから……。特にアルは体が大きいから凄く目立つし」
滑稽なほど分かりやすく慌てるレンを、少女は呆れと笑いが混ざった微妙な表情で見ていた。背中に目が付いていない王子はそれに気が付かない。
「……恐縮です」
アルは大きな体を折り曲げて頭を下げる。失礼しますとトニオが言い、二人は部屋から去って行った。
「はあぁ……」
レンは深い溜息を吐き、崩れるように椅子へ腰を落とす。気が抜けた瞬間に汗が噴き出した。
とうとうやっちゃったな。
自分が仕出かした事を思い返し、反省とも呆れとも言えない気持ちが浮かぶ。後悔は欠片もしていないものの、動悸が未だに治まらない。
「……あんた、王族だったんだ」
レンが顔だけで振り返ると、ふてくされた態度をしている少女と視線がぶつかった。体の向きを変えて向かい合う。
「隠す気なんか最初から無かったよ」
相手の名前を聞いてから名乗るつもりだったが、まさかあんな事態になるとは。
「何であたしを助けたのよ。王子の癖に」
少女は低い声色で尋ねる。不満と不機嫌を隠そうともしない。酷い言われようだと思いつつ、レンは相手と目を合わせて答えた。
「何でって……。放っておけなかったんだ」
「はあ? それだけ? どうせ国の為とか使命とか、そんなお題目があるんでしょ」
どうしてそんな事を言われるのかさっぱり分からず、レンは首を傾げる。
「え、何で?」
ただ単に、あのまま放っておくのが嫌だっただけだ。彼女が言うような立派な理由なんて無い。
思った事をそのまま告げると、相手に呆然とした顔で呟かれた。
「本当にそれだけなんだ……」
「だからそれだけ」
話が終わってしまい、話題を無くした二人は黙ってしまう。部屋がひっそりとした空気になってしばらく経った頃、不意に少女が口を開いた。
「……リリィ」
「ん?」
黄の国王子は反応したが、唐突過ぎて聞きそびれたらしい。まだ教えてなかったと前置きをして、少女はレンを見つめてもう一度名乗る。
「リリィ。あたしの名前」
レンが言葉の意味を理解するのに一瞬間が空く。そう言えば、宰相が来たせいで聞きそびれていた。
止まっていた思考が動く。相手の名前が頭に届く。
「あ、……ああ!」
呆けた顔を笑顔に一変させ、レンは嬉しそうに話しかける。
「リリィか。良い名前だな」
「……ありがと」
褒められては恥ずかしいのか、リリィは若干目を逸らす。口は小さく笑みを浮かべていて、母が付けてくれた名前だと話す。
そっか、と頷き、レンは胸に手を当てて自己紹介をする。
「ちゃんと名乗るよ。俺はレン。レン・ルシヴァニア。この国の王子だ」
名乗ってから左手を差し出す。リリィに怪訝そうな顔をされて、俺は左利きなんだと言って右手を差し出した。
何でも無いように装っていたが、レンの心は不安に包まれていた。リリィはどうやら王族が嫌いっぽいし、こっちの都合で勝手に処遇を決めてしまった。果たしてこの手を取ってくれるのか。
リリィはほんの僅かに微笑み、小さく独白する。
「あんたは……、貴方は、あたしを哀れみも、蔑みもしないんだね……」
対等に扱ってくれている。最後の囁きを拾ったレンが呼びかけた。
「何か言った?」
「何も」
リリィの右手が動き、二つの右手が重なった。レンは満面の笑顔で手を握る。
「これからよろしく。リリィ」
「感謝します。レン様」
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