彼女はマスターのことが好きで好きで好きで、彼のことを忘れることができなくなって、ただ一つきりの思いに囚われてしまって。そして機能に障害が生じて。ボーカロイドとしては存在できなくなって。
彼女は、歌姫としての矜持を捨てぬまま、彼への思いも抱きしめたまま、消えることを選んだのだ。
そのことに対してルカは深く考えたことはなかった。ただ悲しいことが起きてしまったと、そう思っただけだった。消えてしまった彼女と仲が良かったミクを、慰めるために抱きしめることしか思いつかなかった。
けれど、そうなのだ。彼女だけのことではない。ルカ自身もまた恋をしたら。ただ一つのことに囚われてしまったら。
そしたら、私は、自分で、いられなくなってしまうのだ。
ぞくりと衝撃が背筋を走る。考えもしなかった危険がすぐ真後ろに存在していたのだ。ぼんやりと寝転がっているこの場所が切り立った崖の上だったと気がついたときのような、そんな恐怖。先程とは別にすがるような気持ちでルカはメイコの手を握り締めたくなった。
「……私は、カイトのことが好きだけど、カイトだけが全てじゃない。大切なものもほかに大好きなものもたくさんあるわ。カイトだけが、特別じゃない。カイトのことだけで、全部には、きっとならない」
そう言って、何かを確認するように傍らで横たわるルカの頭を撫でた。
その手の暖かさに、ルカの中で膨れ上がっていた痛い感覚が落ち着く。ただ頭を撫でてもらう。その暖かさでもって触れてくれる。それだけのことなのになんでこんなにも安心するのか。気づかれないように小さく安堵の息を吐き出して、ルカは薄く開けていた瞼を閉じた。
「でも、あいつは、カイトは。……ホントバカイトだから。真っ直ぐで、ひとつのことだけしか見えなくなるような奴だから。だから……」
「だから、返事をしなかったのね」
メイコの言葉を受け取って結子がそう言った。その言葉に静かにメイコが頷く気配がした。
「でもそれじゃあ、メイコさん」
結子がじれったそうな声を上げた。何かを言いかけて、けれど結子は、何でもない。と口をつぐんだ。
メイコの話を真正面から聞いていた結子は、メイコの覚悟を読み取ったのかもしれない。メイコという存在は、大概のことに対しては柔軟な思考の女性ではあるけれど、自分の中の信念に対しては折れない強さを持つ女であるから。
口をつぐんだ結子の、その気持ちは感じ取ったのだろう。別に無理はしていないよ、とメイコが言った。
「なんていうか。あのバカが無事に帰ってくる、おまじない、みたいなものかな。私はあのバカイトの気持ちを借りっぱなしにしているのよ」
おまじない。そう言ってメイコが小さく笑った。仕方がないなあ、と対象を甘やかすようなそんな苦笑の気配に、メイコのカイトに対する柔らかな感情を垣間見た気がした。
メイコはもしかしたらずっと、カイトに自分の気持ちを伝えないつもりなのかもしれない。カイトを消失させないために。カイトを守るために。それはなんだかとても切なかった。
形容しがたい、悲しみとも優しさとも言い表せない、愛しい空気がゆっくりと降り積もる。
と、不意に何かに気が付いた様子で、さっきの話。と結子が言った。
「さっきの話? どの話? 結子さんが電子レンジで角煮を爆発させた話?」
「いやその話じゃなくて。どれだけ話題が戻るのよ、もう。そうじゃなくて、カイト君の話よ」
結子が口にしたその名前にルカの意識がまた覚醒の方向へ浮上していった。
「カイトの?」
もう終わった話題だとばかり思っていたのだろう。メイコが怪訝そうに聞き返す。その言葉に結子が頷いた気配がした。
「メイコさん、結局カイト君に返事をしなかったんだよね。メイコさんのことだけを考えないように、って意味で」
「うん……それが?」
確認する結子の硬い声に、つられてメイコの声も強ばった。話の行先がなんだか不穏なものになっていることに、ルカもまたどきりとしながらふたりの様子を伺った。
私の考えすぎかもしれないんだけど。と、前置きをして。結子は口を開いた。
「片思いの時が一番、相手のことを考えてしまう、というか……。私も、ミムラ君とちゃんと付き合うまで、もやっとしてた時期があったっていうか……」
自分のことと照らし合わせてしゃべることに照れが生じているのだろう。もごもごと口ごもる結子に、しかしメイコは言いたいことを察したようで、つまり、と言った。
「つまり、私がカイトにちゃんと返事をしなかったのは逆効果だった、ってこと?」
「そう」
頷く結子にメイコの顔色が変わる。不安に陰ったその表情に、結子が慌てた様子で、いやだから私の考え過ぎかも知れないの、と言った。
「いや、ね。カイト君と私は違うし。こんな、色恋事に何が正解かだなんてマニュアルはないし」
「でも、結子さんは、ミムラさんのことだけをずっと考えてしまっていたんでしょ?」
結子のフォローの言葉を、しかしメイコは首を振って拒絶して、その焦げ茶の瞳で話の続きを促すように画面の向こう側を見た。必死なまでにまっすぐなメイコに、結子が渋々ながらも頷く。
「お互いにお互いを好きなんだ、って暗黙の了解はあったけれど。ちゃんと口に出して伝えてはいなかったかから。休みとかに会ったりもしたけれど、でも遠いから。気軽に、仕事帰りにちょっと彼と会うとかもできなくて。ここから離れたんだから当たり前なんだけど、偶然に本屋やコンビニでミムラ君に会うとかもなくて」
おそらく結子の彼氏であるミムラが大学に入った頃のことなのだろう。その頃のことを訥々と喋っているうちに当時のひりつくような感情も蘇ってきたのか、くしゃりと結子の顔がゆがんだ。
「なんか、ね。ミムラ君はまだ学生だけど私はもう社会人だし、とか。こんな地味な私なんかよりも若くて可愛い子はいくらでもたくさんいるし、とか。ミムラくんに対してあわよくば、って思う女子がきっと他にもたくさんいるだろうな、とか。そういう瑣末なことがいちいち気にかかって、結果、ずっとミムラ君のことばっかり考えていた時期、あった、から」
泣き出しそうな表情でもやもやとした感情を吐き出す結子は、どこか幼く、けれどとても綺麗だった。
ふと、ルカの記憶の中でその表情と重なる姿があった。
青い髪の青年が、撫でられた手の下でくすぐったそうに笑っている姿だった。
いつだったかの夕御飯の後。出来上がった梅酒を大人組の皆で飲んでいたときのことだった。前年のものと今年出来上がった梅酒を飲み比べていたメイコが、不意に横に座っていたカイトの頭を撫でた。上機嫌に、無邪気に笑いながらメイコはその細い腕を伸ばして隣に座っていたカイトの頭を、くしゃくしゃ、と撫でたのだ。
メイコのその行為には、なんの意図も含まれていなかったのかもしれない。メイコは単純に美味しくて嬉しくて楽しい気持ちを隣にいたカイトと分かち合いたかったのかもしれない。
それは、撫でるというよりも髪をぐしゃぐしゃにする、というべき、乱暴な手つきだった。
けれど。撫でられた手の下で、カイトは嬉しそうに笑っていた。
それはまるで花開くような。メイコが宿す紅がカイトに移ったような。胸が痛むほどに綺麗な笑顔だった。
その時はカイトの美しい笑顔に、乱暴ながらもやさしいメイコの手つきに、ルカはいいな。と思っただけだった。兄さんは男の人だけど綺麗でいいな。姉さんの指先、優しくていいな。そんな事をルカはふわふわと酔っ払った頭で考えるばかりだった。
今、あの笑顔の意味を、ルカは理解した。
カイトはメイコのことが好きだったのだ。特別な好き、なのだ。だから、あんな風に笑うことができたのだ。
けれど、そしたら。とルカは泣き出しそうになった。
メイコに曖昧にされた気持ちを思って、行き場を見失っている感情を背負い込んで。カイトは今何を思っているのか。メイコのことばかりを考えているのではないのだろうか。ただ一つきりのことだけを想い続ける。それは消失してしまった彼女と同じ道をたどっている事に、ほかならないのではないか。
結子も同じように考えているのだろう。そして、結子の考えを聞いたメイコもまた、同じところにたどり着いているのだろう。
やりきれない感情が飽和状態まで膨れ上がっていくような気配がした。ちょっとつつけばパチンと割れて崩壊してしまいそうな、そんな空気の中、赤い声が凛と響いた。
「カイトは、大丈夫」
その確信を持った響きに、そっとルカはメイコを見上げた。小さく唇を噛んだその横顔は青ざめていたけれど、表情は凪いだ海のように落ち着いていた。
大丈夫、ともう一度メイコは言った。
「私がやったことは間違いだったかもしれない。カイトにちゃんと私の気持ちを言うべきだったのかもしれない。だけど、もう遅いわ。今、カイトに私の気持ちを伝える術はないもの。そのことを悔やんでもしょうがない。それに全部憶測の話だもの。心配をしてもどうすることもできないわ」
「メイコさん……」
「でも、大丈夫。ちゃんと帰ってくるって約束した。カイトは絶対に大丈夫、消えたりなんかしないわ」
何かに言い聞かせるようにメイコは言う。言祝ぎのような呪詛のような。力のある赤い声が強く鮮やかに、願いを空気に刻む。
相手に対して絶対的信頼を宿したその瞳に、メイコがそこまで言うならきっと大丈夫、と結子もまた表情を緩ませた。
「カイトくんはやればできる子だもんね」
「そうそう。やれば出来る子だから」
結子さんにも心配かけてごめんね、なんて笑うメイコに、こっちも変なことを言ってごめん。と結子も小さく笑った。
かつん、と再び硝子が重なりあう音が響いた。そっとルカが視線を上げると、結子が向こう側から缶ビールをディスプレイに軽く打ち付けている姿が見えた。
「まぁ、ひとまず飲め飲めメイコさん」
「うん飲んでる。結子さんも飲め飲め」
「ちゃんと飲んでる、大丈夫だ問題ない」
そうやって苦笑し合って。それぞれに缶のビールを空けていく。
「ところで結子さん。さっきの、最終的にミムラさんとちゃんと付き合うようになった経緯を、もう少し詳しく聞かせてもらおうかな」
「メイコさんがカイトくんのどんなところにときめくのか、語ってくれたら私も話すけど?」
重苦しい空気を紛らわすかのように、二人はそう笑って再び酒精を楽しみ始めた。
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