男には。
 男には、決して曲げちゃいけねぇ信念がある。
 男には、身を盾にして護らにゃならねぇ女がいる。
 男には、死んでも守る、友との約束がある。
 父さんの口癖だ。
 男の三箇条。これを聞きながら僕は育った。

 考えてみると、今の僕にはどれも当てはまる。
 信念。女。友との約束。
 男の三箇条。男が男であるために。
 だから僕は、走る。
 それが僕の信念で、それが護るということで、そして死んでも守るべき約束だから。
 照りつける太陽。ほとばしる汗。身体は限界。
 道はどこまでも長く、人はこんなにも小さく。
 それでも僕は走り続ける。彼女の待つ、その地を目指して。
 これが男だ。これこそ男だ。
 そんなわけで僕はいま、田んぼも干上がる炎天下、閑静な住宅街でランドセルを振り乱し、鬼神のごとく激走中。

 ほんの十分前のことだ。
 帰り道。赤いランドセルをぴこぴこさせながら歩いていた佳奈ちゃんが、近くの神社を指さして言った。
「ねートシくん、あつーい。あそこ寄ってこー」
 本名はトシヤだけど、佳奈ちゃんはトシくんと呼ぶ。幼なじみで家が近いから、帰り道だっていつも一緒だ。
「う、うんいいよ」
 僕は間髪いれずにそう答える。でも実のところ、心の中は穏やかではなかった。
 それというのも、今日は放課後に僕たち二年生の学年集会があったから、二時からの『紅茶戦隊チャバレンジャー』に間に合うか微妙だったのだ。今日は堂々の最終回で、組織の黒幕マッチャ帝王をチャバレンジャーの愛と香りと友情が迎えうつという、ファン必見の戦いが予告されていた。
 見逃すわけにはいかない。たとえ地球が滅んでも!(決め台詞)
 だから僕は今すぐ家に帰りたい。いや、帰らなくてはならない。これこそが男の信念。
 湧きたつ激情を視線にこめて、僕は神社の入口でふりかえった佳奈ちゃんを強く見つめる。さあ今すぐ帰ろう。帰る帰る帰る帰れ。帰れ!
「トシくんなにしてんのー?」
「……なんでもない」
 テレパシー断念。

 だがしかしこの状況でさえ、佳奈ちゃんを置いて帰るという選択肢は存在しないのだ。このような陰気な場所(神社)に彼女を一人にさせておくわけにはいかない。僕は命に代えても彼女を連れて帰ると約束したのだ(おばさんに)。それもまた、男の信念!
 青い空を見据えて誓う。燃えさかる太陽。巨人のような入道雲。セミの声。握りこぶし。焦げるアスファルト。丸く小さな僕の影。
 …………。
 そそくさと佳奈ちゃんのいる木陰に入る。ふー涼しー。
 と、僕がTシャツをパタパタやりながらそうだ早く帰らなきゃと思い出した頃だった。
 ここで佳奈ちゃんが漏らした一言を、僕は生涯忘れない。
 彼女は、そう、暑さにバテた顔を少しうつむかせて、こう言ったんだ。
「アイス食べたい……」
 ドドドドドドドドドドドド。
 僕の中で意味の分からないBGMが鳴り響いた。いや、それは一瞬で限界まで回転数の上がった僕の思考の激しさを表す音だったのかもしれない。でもそんなことはどうでもいい。重要なのは、彼女が、今、何を言ったかだ。
 アイス? アイス食べたい? それはどういう意味だ? これから今すぐに帰って食べたいという意味か? それならいいさ。大歓迎だ。イェスアイウィルサー。だが待てよトシオ。そりゃあちょっと都合が良すぎるってもんだぜ。ミス佳奈の家にアイスがあると何故わかる? 少なくともうちにアイスは無いぞ、俺が朝たしかめたからな。ということはなんだ? 彼女の家にアイスが無いのならアレか? 学校の近くにあるコンビニのアイスが食べたいということか? そういう意味か? オイオイオイ待てよ。まあちょっと待てよ。今まで何分歩いてきたと思ってるんだ? 十五分だぞ十五分。このクソ暑いなかその道を今すぐ全力疾走してコンビニでアイス買ってきてくださいってことか? お前ちょっとそれはシャレになら
「トシくん」
「なに」
 極限の回転数を保った思考を無理やり止めて平静を装う。不自然なほど抑揚の無い疑問形とは正反対に、僕の心臓はクレイジーなほどダンシング。
 どうか聞き間違いであってくれと切実に願うその哀れな奴隷を前に、にっこりと天使の微笑みを浮かべたまま。
 ただ一片の慈悲をも残さず、佳奈ちゃんは死神の鎌を振り下ろした。
「アイス、買ってきて?」
 確認だ。現在時刻、十三時五十分(推定)。トシヤ五十メートル走タイム十秒フラット。学校まで距離一キロ強。推定所要時間(えーと)二百十秒として三分半。往復七分。現在地から自宅までの所要時間、約四分。結論、オープニングは鑑賞不可。しかし本編開始まで約二分間の余裕をもって本任務は遂行可能と判断とか言ってるうちにもう十秒くらい経っ――
 僕は駆け出していた。
 胸には男の三箇条。
 ちくしょう。

 五十メートル走でなく持久走で考えるべきだった、と気づいたのはコンビニに着いた頃だ。膝はもうガクガクゲラゲラと爆笑しており、ふらつく足で佳奈ちゃんの好きなチョコミントのカップアイスを選んでエアコンの効いた店内を一歩出たとき、僕は右手に握っている袋の中身がアイスという名の時限爆弾であることを認識した。
 外気温、推定三十五度、摂氏。なんて確認はもちろんしない。
 カップアイスは三十五度の条件下で何分間その命を永らえるのか、なんて阿呆な計算もしない。
「ああああああああっ!」
 僕は小学二年生にして、人類の限界というものに挑戦していた。
 コンビニで時間を確認しわすれたことは後悔しても仕方がない。
 いつだってそうだ。人は今を生きるしかないのだ。

「おそーいー」
 姫はご立腹だった。
 僕のほうは両脚の痙攣と眩暈(めまい)を覚えながらも、任務達成の喜びに顔をほころばせていた。手渡したアイスは、まだ冷たいと思える温度だった。
 これで帰れる。
 そう思った。
 待っていろ、チャバレンジャー。僕はお前たちを見逃しはしない!(決め台詞)
 熱い。熱い。
 猛る、炎が。
 体じゅうの疲労さえ、一息に焼き尽くしてしまいそうだ。
 その炎が、情熱の炎が、再び僕の中で燃え上がる。
 そのときだった。
「トシくんも、いっしょに食べよ?」
 すべてが凍りついた。
「ね?」
 ……あー。緊急招集。緊急招集。誰か彼女を傷つけずに俺をこの場から解放させられる者、いたらすぐ実行しろ。手段は問わん。すぐだ。今すぐだ。早く。ほら早くしろよ。早くしないと佳奈ちゃんが変な目で見てんじゃねえか早くしろよ早くなんか言えよ俺――
「う……うん、そうだね」
 敗けた。
 天使の微笑。くそぅ、かわいい。
 はにかみ笑顔ではしゃぐ彼女に、いろんな涙が止まらなかった。
 ――――が。
 それでも、それでも屈するわけにはいかないのだ。
 ついに僕は最終手段をとることにした。できることなら使いたくなかった手だ。
「あ、あのさ、佳奈ちゃん」
「んー?」
 僕はブラックアウト寸前の視界で、最後の勇気をふりしぼる。
「ごめん、ちょっと僕、おなかの調子が……」
 彼女が見てる。
 僕は今、世界で一番かっこ悪い男だと思う。
「だからさ、今日はこれで帰っても……いい、かな……?」
「…………」
 彼女はアイスのフタに視線を落としたまま、じーっと考える。じー。
 正直、その時間も惜しいのだけど、もちろん口には出さない。
 そうして、気ばかりが焦る静寂ののち。
「ん、だいじょうぶ? 無理しないでね」
 そう言って、佳奈ちゃんは寂しそうに笑った。
 僕はどうやら解放されたようだった。

 うわーい! ヒャッホーイ!
 ――と跳びはねるわけにはいかなかったけれど、僕の心臓が今度はとっても健康的に高鳴りだした。今すぐチャバミサイルよろしく自宅に突入したい気持ちを抑えて、僕は別れのあいさつをする。すまなそうな顔を作るのを忘れない。
「うん、ごめんね。それじゃ」
「……またあしたね」
 別れぎわ、彼女は僕の手を握る。いつもの日課。今日はアイスのせいか、指先がちょっと冷たい。
 そして、その手が名残り惜しそうに離れ。
 とうに限界を超えた両脚に鞭打って、僕が彼女に背を向けたときだった。
「あっ!」
 空耳ということにすればよかった。
 でも、聞こえてしまった。
 走り出そうとした姿勢のまま、僕は一瞬だけ硬直した。
 壊れた機械のように首だけで振り返る。佳奈ちゃんはアイスのフタを開けたところ。鼓動が冷たく響く。
 まさか。
 まさか、まさか、まさか。
 そんなはずはない。溶けているはずがない。だってあれはまだ冷たかった。それにほんの少しくらい溶けていたって、彼女はそこまでわがままじゃ………………ない、と思う。……きっと。
 そんな僕の思いとは裏腹に、佳奈ちゃんはきれいな顔を悲痛にゆがませて、ゆっくりと僕を見て。
 溶けていたとしてもそれは不可抗力だ、その時はこのまま逃げよう、と腹を決めた僕がおそるおそるそれを覗きこむと、意外にも中身はアイスのままで。
 それでも彼女の表情が冴えないのには、もっと絶望的にどうしようもない理由があった。
「トシくん……」
 ドドドドドドドドドドドド。
「……ど……どうしたの……?」
 ドドドドドドドドドドドド。

「スプーンが……ない……」

 走るのが楽しくなった。







 

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
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【小説】ハードボイルド・ハードル

10年くらい前、小説を書き始めた頃の作品です。
今見ると本当に勢いだけですね。。。

読んでやっていただければありがたいです。

閲覧数:208

投稿日:2016/04/17 12:29:20

文字数:3,852文字

カテゴリ:小説

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