昼休み。僕は体育教師に会うために体育館へと向かっていた。その体育教師というのが、たとえ一分遅れただけでもしつこく問い質すねちっこい性格で、所謂嫌われ者だった。休んだりしようものなら直接出向いて説明しなくてはならないし、勿論それだけで終わるはずもなく嫌みったらしい小言も付属してくる。今日は一時間目から体育という地獄の軍隊さながらの強行軍だったため、気は進まないながらも弁明に行く他なかった。
「昼ごはん、食べれないかも……」
自分が悪いのは承知しているものの、頭ごなしに怒鳴られる程のことでもないのに。それでも、絶対に昼休みいっぱいを使って説教責めにあう。それが確信できるだけに億劫だ。
『行くことないって。どうせ大した理由もなく嫌味言われるだけなんだからさ』
体育教師の所に行くと言った時、クラスメイトの多くが僕を止めた。皆、体育教師が嫌いだから、休んでも報告なんて行かない人が多い。僕も正直あの先生は気に食わないけど、そこで無視するのも気が重くなる性分だからしょうがない。
「……はぁ。今日はついてないなぁ」
目覚ましをセットし忘れたのもそうだが、思えば寝坊の一助となったこの積雪が、今日の不幸の大きな要因だ。朝ごはんをゆっくり食べたといっても、大して時間はかからない。それなのに二時間目からしか出席できなかったのは、思いがけない降雪でスリップした車の横転事故が起こり、道路が封鎖されたせいで随分と遠回りをさせられたからだ。昼になって雪は止んだものの寒さは相変わらずで、校庭や通路の端に積もった雪を見ていると、日差しが更に弱々しく感じられる。
「こうして見てる分には、綺麗なんだけどな……」
そうして景色を何となく見やりながら、体育館へ繋がる一階の渡り廊下に足を踏み入れた時。少し先を歩く女子が目に入った。青い縁取りの上履きは二年生だ。色素の薄い髪は肩に軽くかかる程度だが、黒いリボンでカチューシャのようにして髪を留めている。この学校はそこまで校則がきつくない。余程派手なものでなければ髪留めは何でも自由だし、軽い化粧も容認されているらしい。そんな学校だから、リボンを付けていても何もおかしくはない。そのはずだ。それなのに、まるで喪章のように揺れるそのリボンを見た瞬間。何かが頭の中で再生され、気付けば僕はその女子に向かって声を張り上げていた。
「っリン……!!」
叫んだ瞬間、しまったと思ったが時はすでに遅い。いきなりの大声に驚いたのか、目の前の女子はびくっとしてこちらを振り向いた。そして僕は二度目の後悔に苛まれることになった。
“彼女”はいつも白いリボンだった。今更ながらに思い出したその情報もそうだが、失礼とは思いながらも目の前の彼女に軽く失望していたのだ。小柄な体躯は痩せ気味で、少し強い風が吹いただけでもよろけてしまいそうな儚さだ。僕の方を見つめる瞳も、どこか物思わしげで沈んでいる。顔立ちは面影があるようにも見えるものの――僕の中にいる“彼女”とはやはり似ても似つかない。
「ごめん、人違いだったみたい――。……えっと、もしかして転入生の人、かな?今日、僕ちょっと遅刻しちゃって、学年集会に出られなくて……」
どうにか気まずさを払拭しようと話しかけてみても、こちらを見つめる女子は何も話そうとしない。それが何ともいたたまれず、もう一度謝ってから、出直そうと踵を返した。こんな心理状態で体育教師の小言を聞く気分にはとても――……。
「……レン……」
「え……?」
聞き違いだと思った。それでも反射的に振り向くと、転入生らしき女子は仄かに微笑っていた。今にも消え入りそう――というよりも、瞬いた瞬間に存在ごとなかったことにされてしまいそうな、そんなぎりぎりの危うさが取り巻いている。
「レン……まさかこんな所で会えるなんて、思ってもみなかった」
さっきよりははっきりした口調で、彼女は言葉を続けた。校庭側から差し込む日差しが、彼女の髪を金色に照らしている。……僕のそれと同じように。そのことに、今気が付いた。
「……本当に、リン……なの?」
信じられない思いで、僕は確認した。たまたま同じ名前だったということもあるかもしれない。それで僕の呼びかけに反応したのかも。でも、それならどうして向こうは僕の名前を――。
逡巡する僕の方へ、彼女は近付いてくる。そうして金縛りにあったみたいに動けない僕のすぐ前に立ち、顔を上げて真っ直ぐその眼差しを据えた。
そこでようやく僕は認めた。目の前にいる彼女こそが、“彼女”なのだと。容姿は変わっても、瞳の奥はまるで変わっていない。昔のままだ。吸い込まれそうな深い双眸から、いつも目が離せなくなる。
「元気だった?会えなくなってから、もう十一年も経っちゃった」
懐かしい。もどかしい。心臓が早鐘を打つ。言葉が出てこない。こんなに近くにいるのに、随分と遠くに感じるのは、あまりに長く空き過ぎた時間のせいなのだろうか。
「レン……私……――ごめんね」
どうして謝るんだろう。そんなことを考える余裕はなく、ただ僕は胸に顔を埋めてきた彼女を抱きしめていた。もう離さない。離れない。こうして会えたのは、魂が呼び合ったからだ。そんな自然の摂理に、誰が逆らえるというのか。
「ずっと……会いたかった」
僕がやっと言葉を発すると、彼女は再び顔を上げた。そのまなじりから、すぅっと涙が流れ落ちる。そんな彼女の顔は、かつて泣き虫と呼ばれていた頃の僕にどこか似ていた。泣きじゃくっていた僕よりも、大分綺麗な泣き方ではあったけど。
僕の掛け替えのない――この世でただ一人の双子の姉が、目の前にいた。
(続く)
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