仄暗い水槽に、鈍い銀の円盤がぼんやりと揺れていた。直径二メートルはある体躯は、自律的に動く気配は微塵もない。長い背鰭も、円形の瞳も、ぴくりともしない。
「……これ、生きてるよな?」
思わず呟いたレンの言葉が聞き取れなかったのか、隣で水槽を眺めていたリンがこちらに向き直る。
「どしたの?」
白いワンピースの裾がそよぐ。たっぷりとした布地から僅かにレースが覗き、ウェストに結ばれた青い幅広のリボンが蝶のようにひらりと揺れた。
髪にはトレードマークの大きなリボンの代わりに、小さな花のピンを差している。
何時もの活動的なショートパンツに比べ少女趣味な服装の為か、リンは良いところのお嬢さんのように見えた。
見慣れた筈の片割れに一瞬覚えた違和感を封じ込め、レンは苦笑してみせた。
「いや、これ本当に生きてるマンボウかなって思ってさ」
「うん、マンボウって書いてあるよ。前に見た絵とも同じだし!」
自信満々の顔をしたリンの人差し指の先には、確かにマンボウと書かれた立て看板がある。勿論、レンも本気でマンボウの生死を疑っていたわけではないが、微妙にずれた回答には少々頭痛を覚えた。
「いや、そうじゃなくてさ」
「何?」
リンが、小首を傾げる。揺れた金の髪に咲く薄紫の花が、奇妙な存在感をもってレンの目に映った。
「……そうじゃなくて」
質問の意図を改めて言うつもりだったが、気が変わった。
レンは相変わらず水槽の中で固まっているマンボウに目をやってから、首を捻った。
「まあ、マンボウ展に来たんだから、これはマンボウなんだろけど。それより、本当に生きてんのか? さっきから動かないだろ」
「え、これ死んでるの!?」
大きな瞳を瞠ったリンに、レンは深刻な表情で頷く。
「ああ、実は死んでいるのかもしれない……。生きているか死んでいるかわからない顔をしているし、誰も気付かないうちにひっそりと殺された可能性も否定できないな」
「ええっ」
リンは焦った表情でキョロキョロと周囲を見回し、唐突に大きく息を吸い込んだ。
「係員さん、大変ですっ。マンボウが――」
「叫ぶな、バカ!」
咄嗟に手を伸ばしてリンの口を塞いだ。だが、ボーカロイドの声量は生半可なものではない。
周囲にいた親子連れやカップルの視線が、四方八方から突き刺さる。振り返った係員に何でもないと手を振って頭を下げたが、注目が消えることはない。
「い、行くぞっ」
「ええっ、なんで!?」
まるでわかっていない様子の片割れに、頭をかきむしりたくなる。ボーカロイドである以上注目を浴びることに耐性はあるが、普段からさらし者になりたいわけでは勿論ない。
「いいからっ」
レンは強引にリンの手を引くと、その場を逃げ去った。
土産売り場は、煌々とライトに照らされていた。
巨大なマンボウのぬいぐるみや、ポスター、タペストリーが壁には飾られている。海中に浮かぶマンボウというそれらしいポスターの隣に、極彩色の浮世絵じみたポスターが貼られているのはここが歌舞伎座だろうか。
数年前にリニューアルし、複合商業施設となった歌舞伎座にはデパートだけでなく映画館や、小規模の水族館まで組み込まれている。
水族館に併設された土産売り場には、雑多な品物が売られていた。
クッキーや煎餅、チョコレートに饅頭といった定番商品以外には、この水族館の目玉であるマンボウの木彫りに、歌舞伎役者のお面。キャラクター物の携帯ストラップがじゃらじゃらと並ぶ下には、ボールペンやシャープペンシルといった歌舞伎座の名前入り筆記用具が売られていた。姉である初音ミクのCDまでも置かれている事に気付き、レンは目を瞠った。マンボウの名称がタイトルに入っているから置いたのかもしれないが、裏庭で死んでいるという設定なのにいいのだろうか、と内心疑問に思わないでもない。
「もう、レンのバカ。なんで走らなくちゃいけないのよぅ」
すぐ傍で聞こえた抗議に、レンは我に返った。
肩で息をしているリンがこちらを睨んでいる。掴んだままの腕に気付き、レンはさりげなく指を開いた。
「お前があんなところで大声だすからだろう」
「だって、マンボウが死んでたら大変じゃない」
真顔で主張したリンに、思わずたじろぐ。レンの表情に何かを感じたのか、片割れである少女は愕然と目を見開いた。
「だましたの!?」
「……いや、本気で引っ掛かるとは思わなかった」
「ひどい! レンのバカッ」
真っ赤になってリンが拳を振り上げる。華奢な腕だが、ボーカロイドの腕力は外見に依らない。その事実は、身にしみていた。
「お、落ち着けって」
反射的に避けたが、結果として余計にリンを怒らせたらしい。頬を河豚みたいに膨らませた片割れに睨まれ、レンは白旗を上げた。
「わかった、俺が悪かったよ。詫びに、ジュースでも奢るからさ」
リンは少し黙ってこちらをじっと見ていたが、拗ねたような声で主張した。
「……ジュースより、アイスがいい」
「了解、アイスな」
頷くと、それで納得したらしい。先程までの膨れっ面は嘘みたいに消え、無邪気な笑みが浮かぶ。
「それじゃ、こっち行こう! 食べてみたいアイスがあるの」
当たり前のように、小さな手がレンの手をとる。くるりと身を翻して駆け出した自分より小さな背中に、レンはそっと詰めた息を吐いた。
薄い黄色の皮に、たっぷりとアイスクリームと餡子が挟まれていく。
リンに連れて来られたのは、土産売り場隣のアイスクリームのスタンドだった。クリーム色の壁紙を背景に、白いエプソンをつけた店員がアイスクリームをすくいとっている。歌舞伎座のマークである鳳凰丸が染め抜かれたのぼり以外は、これといって特徴もないありきたりの店だ。
アイスクリームは抹茶とバニラの二種類で、その場でモナカの皮に挟んでくれるのが特色のようだ。
アイスモナカはコンビニでも売っているが、出来立てを食べられるのは確かに珍しいかもしれない。しかし、兄ならともかくリンはそこまでアイス好きだっただろうか。
「はい、レン。レンはバニラだよね」
満面の笑みで差し出されたモナカには、歌舞伎座アイス最中とご丁寧に焼き印されている。
「サンキュ、金払ったの俺だけどな」
「固いこと言わないの、食べよっ」
リンはご機嫌でアイスモナカにかぶりつく。レンも自分のモナカを一口かじった。
サクッと皮が割れ、バニラの香りと上品な餡子の甘さが口に広がる。サイズの割にいい値段だと思ったが、それ相応の味だと認識を改める。
「確かに美味いな、兄貴にでも聞いたのかこの店?」
リンの頬にぱっと赤みがさした。ふるふると小刻みに頭を左右に揺らし、俯く。
分かりやす過ぎる反応に、何かが軋む。リンがこういう反応をする相手は、一人だけだ。リンの髪に飾られている花をくれた男。続きを聞くまでもなかったが、止める前に小さな声がその名を紡いだ。
「が、がくぽさんに、聞いたの。歌舞伎座に行くって言ったら、ここのアイス美味しいって」
「……そっか。だから、抹茶を選んだんだな」
苦いものは不得手なリンにしては珍しいと思ったが、理由がわかってしまえばなんということもない。神威がくぽは、いかにも抹茶味を好みそうだ。
実にリンらしい行動。素直でわかりやすい。
「あ、あのね、抹茶味がおすすめだって。あ、もしかしてレンもおすすめが食べたかった? 交換する?」
正直アイスの味はどうでも良かったが、上気した頬を見ていると何か言ってはならない台詞をぶつけてしまいそうだった。モナカを勢いよくかじり、バニラアイスと共に飲み下す。甘く冷たい物体が喉を滑り落ちていく感覚。それは、自身の熱を自覚させる。
レンは少しだけ冷えた頭で、何時ものようにからかう表情を浮かべた。
「そんなこと言って、リンが苦いのダメだったんじゃないか?」
「そんなことないもん! そ、そりゃちょっと思ったより苦かったけど、バニラも美味しそうだなって」
本音が駄々漏れの主張に、レンは苦笑してみせた。
「要するに、俺の為じゃなくてリンが両方食べたいんだな」
「うっ……そ、そんなことはないよ? 可愛い弟の為ですよ?」
「……弟、ね」
血の繋がりは、ない。そもそも自分たちは人間ですらない。歌を歌う機械人形だと、わかっているのに。
白く柔らかな頬の線、空を映したような色の瞳、癖のない金糸の髪をかきあげる細い指先。腕も足も、体つきも、ほっそりとしているのに触れればやわらかい。
自分と似ているようで決定的に違う片割れを見つめるだけで、胸の奥で何かが軋む理由がわからない。わかりたくも、ない。
「あれ、怒った?」
不安そうにこちらを覗きこむ空色の瞳の持ち主に、レンは自分のアイスモナカを差し出した。
「兄貴じゃないんだから、アイスくらいで怒るかよ。ほら、交換」
「やった、ありがと!」
早速モナカを頬張って、リンは幸せそうな笑みを浮かべた。
「んーっ、やっぱりバニラ美味しい!」
「良かったな、残り全部食べていいぜ」
「いいの? レンだって、バニラの方が好きじゃない?」
「いいって、俺はそんなこだわりないからさ。リンよりは、苦いのも得意だし?」
「に、苦手じゃないもん。ちょっと、慣れてないだけで」
「でも、バニラの方が美味しいだろ?」
リンは迷うようにこちらの様子を伺ったが、レンが笑ってみせるとぱっと表情を明るくした。
「うん、ありがとう!」
蕩けそうな笑顔に、息が止まる。誰よりも近い筈の存在を、見ているだけで苦しいなんて馬鹿馬鹿しいにも程がある。
レンは交換したモナカにそっと口をつけた。抹茶のアイスクリームは甘くほろ苦い。
リンには、この味はまだ早い。甘く優しいバニラの方が、余程似合うだろう。
「レン」
名前を呼ばれて視線をあげる。
まっすぐに、空色の瞳がレンだけを見ていた。
「また、一緒に来ようね」
向けられる信頼に満ちた笑顔。胸に溶けるものは、甘くて苦くて苦いのに、どうしようもなく甘かった。
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