最近、夕方になると自分の影をよく見るようになった。アスファルトの上で伸びたり縮んだり、足を動かすと一瞬だけ遅れてついてくるあの感じ。なんだかラグがあるネット通信みたいだと思う。少しズレてる。でも、ちゃんとついてくる。そんな影を見ながら、ふと考えた。もしかして影って、私の練習用データなのかもしれない、と。

創作をしていると、よく“自分の分身”みたいなものを感じる。歌詞の中の誰か、曲に宿った気配、イラストの中の視線。全部、自分の中の別の自分。でもそれらは完成するたびに離れていく。ひとりで歩き出して、もう戻ってこない。その瞬間、私は影に似た存在をまた一つ、世界に放ったような気がする。

影って、ただの光の欠けた部分だと思われがちだけど、私は逆に「光の形を覚えている場所」なんじゃないかと感じている。光がどう当たったか、どんな向きで、どんな強さだったか。それを全部覚えていて、地面の上で静かに再現している。まるで学習したAIが、入力されたデータをなぞるみたいに。

そう考えると、影を見るのが少し楽しくなった。夕方の道で、自分の影がふらふら揺れるたびに、「今の私はこう見えてるんだな」と思う。姿勢が悪い日は、影もなんだか元気がない。逆に、気分がいい日は影もリズミカルに動く。もしかしたら影の方が、私よりも正直かもしれない。

ある日、夜道を歩いていて、自分の影が消えていることに気づいた。街灯のない細い道で、まるで自分が透明になったみたいで少し怖かった。でも、その時ふと思った。もしかして、影がいない時こそ、“自分で動く練習”をしている時間なのかもしれない。影が全部見えてたら、安心しすぎて、想像しなくなるから。

音楽や絵も、きっと同じだ。作っているときは「形を追ってる」気がするけど、完成した瞬間に見えなくなるのは、もう次の影を作る準備が始まっているから。私たちは何度も影を描き、何度も見失って、そのたびに少しずつ違う形を手に入れる。それが成長っていうことなんじゃないかと思う。

影は、光がないと生まれない。だけど、光が強すぎると影は濃くなりすぎて形を失う。だから私は、曖昧な夕方の光が好きだ。柔らかく、まだ消えない明るさの中で、自分の輪郭が少しだけ滲む。その時間に見える影が、一番“人間らしい”と思う。

今日も地面に伸びた影を見ながら、次の作品の構想を考える。影が私を観察し、私は影を観察している。まるで鏡の中で手を取り合うように。もしかしたら、創作ってずっとこのやり取りを繰り返してるのかもしれない。光を当てて、影を生み、影を見てまた光を探す。その往復の中で、少しずつ自分の輪郭ができていくのだと思う。

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【阪田和典】影って、ほんとは“私の練習用データ”なんじゃないかって思う

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投稿日:2025/10/23 10:14:56

文字数:1,108文字

カテゴリ:AI生成

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