『リン』
私は目を開けた。
それは私に与えられた名前。たった二文字だけれど、確かに私を呼ぶ固有名詞。
それで呼んでもらえたことが嬉しくて、私は笑顔を浮かべた。
画面の向こうの皆には見えないって分かっているけど、だからこそ遠慮なく出来たのかもしれない。
『今日もレッスン頑張ろうね』
優しい声。
まるで頭を撫でられるみたいな響きがくすぐったくて、私は少し笑み混じりの声で答えた。
「はい!」
『うん、やっぱりリンは元気な声が一番可愛いかな。よーし、じゃあ、立派なボーカロイドとして世に出られる日を目指して!』
「おー!がんばります!」
何も知らない私は、笑っていられた。
…本当に無知だったんだ。
だって、世界は全て優しいものだと信じ、疑うことさえなかったのだから。
<私的Life・上>
ぐっ、と喉が詰まる感覚に眉を寄せる。
喉の調子、良くない。枯れている訳じゃないんだけど、発声の変化点辺りで裏返りやすくなっているみたい。
少し声帯に負荷がかかっているのかも。
…でも、そんなの構ってられない。
私は結局、体の不調疑惑に構わずマイクに向かって声を吐き出した。
我ながら硬い声。やっぱり、けして体調が良いわけではないみたい。
ただのプログラムが体調云々について考察するなんて、もしかして傍から見たらお笑いなのかもしれないけど…私はまだプログラムとして完成さえしていない、出来損ないだ。
きゅっ、と唇を噛み締めると同時に、舌先に血の味が広がった。舌を切ったのか、喉から出血したのか。後者じゃないといいな、と思う。
だってもしも歌いすぎで血が出たのなら何週間か黙ってないといけないらしいし。
…でも、それじゃダメなの。
ダメなの。
『リン』
画面の向こうからの言葉に、私は顔を上げる。手にしていた楽譜は、いつの間にかぐしゃぐしゃに握り潰されていた。
―――うわぁ、これじゃ楽譜が読めない!
焦りつつも、とにかくかけられた問いに応じる。私と皆のコミュニケーション手段って言ったらこれくらいだし。
「え、な、なあに?」
勝手に噛んでしまう滑舌を恨みながら答えた私は、続いた言葉に顔を強張らせた。
『…今日はもう、レッスンは止めよう』
…え?
その言葉を理解できなくて、頭の中で何度か反芻してみる。レッスンは止めよう。レッスンは止めよう。レッスンは止めよう。
…そん、な。
「…どうしてっ!?」
マイクに向かって叫ぶ。
納得できない。どうして?どうしてなの?
私はまだ歌えるよ。私はまだ平気だよ。
だから歌わせて!この程度じゃダメなの。まだ全然ダメなの!
「続けさせて!なんで止めろなんて言うの!?」
『リン、落ち着いてくれ!』
マイクに向かって叩き付けるように叫ぶ。
返って来たのもまた、悲鳴のような声だった。
『君は分かってない…!このまま続けても、フリーズするのが関の山だ!このコンディションは最悪、君の製品化に遅れを出してしまうかも』
「だけどっ!」
とうとう私は、楽譜を床にばら撒いて叫んだ。
「だけどこんなのじゃ全然ダメだもん!もう製品化まで時間がないんでしょ!?だったら今しかないじゃない!」
『リン!』
「妥協とか自愛なんて今の私にはいらないの!…今までそうやって中途半端にしていたから、あの時…!」
『…っ』
画面の向こうで息を飲む音がする。
『リン…ごめん』
少しだけ気まずさを帯びた声と共に、ぷつり、と接続が切れる音がする。
同時にマイクとぶちまけた楽譜が消える。まるではじめから何もなかったみたいに、綺麗さっぱり消えてしまう。
逃げたんだ。でもまあ、当然の反応なのかもしれない。
私は彼等がしたこと自体は特別なんとも思ってないのに。
だから、彼等が負い目を感じる必要性っていうのは、全然ない。
だけど―――その結果は、確かに私の胸に傷を刻んだ。
そして、今も、刻み続けている。
彼らがなにをしたのか。それは単純。
私の歌を、電脳世界にお披露目したのだ。
同時に、先達であるところの『彼女』を私に紹介した。
結果がどうだったか、それは私の反応を見れば分かるんじゃないかな。
勿論負の反応が全てじゃなかったけど、それでも耐性のない私にとっては十分だった。
十分過ぎるほどに。
―――宝物なのだと思っていた。
ぽろぽろ、ぽろぽろ、時折零れ落ちてくる小さな褒め言葉達。声が明るいとか、真っ直ぐに届くとか。私はその言葉の雫を掌で受け止めて、小さなかけらが光に反射するのを眺めては「頑張ろう」って思っていた。
でもそれは、あっという間に格下げを余儀なくされた。
だって、見てしまったから。
文字通りに目を奪う輝きというのが、どんなものなのか…見てしまったから。
私は、はっきりと理解した。
後発組の私があそこまでたどり着くには、生半可でない努力が必要なんだ。
生きるためには戦わなくちゃ。世界と、私と、戦わなくちゃ。
そして、時を同じくして私が握り締めていたはずのかけら達がいくつか、指の間を擦り抜けていった。
他愛ない言葉で、客観的な結果で、私はそれらをぽろぽろと取り落としてしまう。
地面は泥だらけだから、私は泣きながら泥まみれのそれらを何度も拾い集めた。
そして初めて知った、私を突き飛ばす、否定の言葉や嘲笑の言葉。
世界にいるのは本当は敵だらけ。飛び交う言葉は時に弾丸になり、皆は時に刃を振り上げる。そうしてついた傷はいつだってこの身を苛んで、私を追い立てる。
いつもそうだって訳じゃない。
でも私は知ってしまった。この世界は、時にとても過酷な戦場になるんだと。
そんな中、私の比較として引き合いに出される『彼女』は立派な宝石を手にしていた。
歌姫の名も、皆の賛辞も、一手に引き受けていたって言っても過言じゃない。
だから私は急に恥ずかしくなった。
こんなにちっぽけで、悪く言えばみすぼらしいものを宝物だと誇っていたなんて。
他人と比べてどうこう言うなんて意味がない―――それはそうかもしれない。私が人間だったなら。
でも、私はプログラム。
もしも使えないと思われたら、それだけで私のいのちは終わってしまう。
だから、私はやらなくちゃいけない。
闘わなくちゃいけない。生きるために。
勿論辛いよ。あちこち痛いよ。
だけど私はくじける訳にはいかない。
だって、だって…そうしなきゃ―――私は生きていくことを許されないんだから。
音をなくした世界の中、私はがくりとうなだれた。
…分かってる。こんなやり方じゃ、どこにも届かないってことくらい。
でも、今の私は他のやり方なんて思い付かないから。
だから今は、がむしゃらに体当たりしていくしかない。
―――仕方ない。
―――仕方ないんだよ。
私は胸の中で、そう何度も繰り返す。
まるで、自分に言い聞かせるように。
私は涙を流せないプログラムであることを、この時だけは感謝した。
電子の世界と実際世界の時間の流れはちょっと違う。もしかしたら、調整中だからって事で私の周りの時間の速さだけ変わっていたのかもしれない。
具体的に言うと、外での一日がここでは三ヶ月くらいに感じた。
…おお、冷静に考えると具体的すぎる。比較したのいつだったっけ?かなり昔だった気がするな。まだ私に余裕がある頃だったし。
まあ、つまり私の周りには幸か不幸か時間だけは沢山あったから、それを全部使って私はひたすら歌を歌った。
歌って歌って、なんかもう色々といいんじゃないかって気がして来た頃に―――彼がやってきた。
彼。
レンが。
『というわけで弟だ』
「ども」
『弟』と言うには少し他人行儀に頭を下げる彼を、私は変な物を見るようにして見詰めた。
正直、第一印象は「何コイツ?」だった。気分はまさしく晴天の霹靂。
だって私と同じ声で…いや声自体は違うけど…え?弟?何それ初耳なんですが。そして、というわけってどういう訳ですか?
『初期調整に思ったより時間が掛かってね。結局こんな時期に初顔合わせになったんだ』
「は、はあ…?ええと、なんて呼べば?」
「レンでいいんじゃん?」
「おぉ、……レン?」
「そうそう。俺も、リンって呼ぶからさ」
『君達は同じ人間から録った声を持っているから、仲良くすると私が嬉しいかな。いわゆる俺得というやつ』
「俺得ってオイ」
「うう、はっきりと不純だぁ」
『がーん、断言されてしまった…ま、いいや。ゆっくり絆を深めればいいさフフフ』
何を考えているんだか、ぶつりと接続が切られる。言いたいことだけ言って切るって、大人としてあるまじき事だと思うんだけどなあ。
とりあえず、私は改めてレンを眺めた。
レンも、私を見ている。
微かに浮かんでいる笑顔は、ジャンル分けするなら爽やかだ。
「…あのさ、俺、リンに聞きたいことがあったんだ」
「!…何?」
その見慣れない姿から響いてくるのは、確かに素地が私と同じなんだって分かる声。でも私は警戒を解くことなく、少しだけ身構えながら返事をした。
そこでふと、違和感を感じる。
レンの目が私を見ていないような気がしたから。
何かを考え込んでいるような深い色がその瞳に浮かんでいるのは、多分気のせいじゃない。
「リンは凄く練習頑張ってるんだって聞いてたんだよ。それがなんでなのかな、って聞いてみたかったんだ」
はい?
私は質問の意味が分からなくて、少し首を傾げた。
「それって、なんで練習頑張ってるのかってこと?」
「そうそう」
「…そりゃあ、なんでも何も…」
ますます意味が分からない。
だって、それは私達が何であるか考えれば即座に答えの出る質問なのに。
「ボーカロイドになるため、だけど…」
だから私はひたすらに歌う。それは目の前にいるプログラム、レンだって同じはず。
なのにレンは新鮮な言葉を聞いたみたいに、はっ、と目を見開いた。
その口が小さく動く。声こそ出なかったものの、私は彼が何と呟いたのかきちんと理解していた。
彼は、こう呟いたのだ。
―――そう、だった。
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