神威はそれ以上をリンに聞くことはなく、自分の身の回りの些細な出来事や、廓に来るまでに見たという大衆について語った。
そして結局、その日も二人は、前回と同じようにただ話をして眠ったのだった。



「よく捉まえたもんだね」



見送りに出た楼主が、去っていく神威の後姿に向かったまま言う。
――先日はすぐに他の客の見送りにと行ってしまっていたが、それでも客の顔は覚えているのか。
「いえ、あの方は…」
もう二度来ているのだし、神威を客として捉まえたという意味で言われているのは分かる。
しかしリンには、彼をただの“客”と同じように扱われるのは不快だった。
「情でも引いたのか…いや、リンの方が湧いたのか」
否定しようとしたリンに、楼主はくつりと喉の奥で笑って軽口のように言う。
自分自身でもよく理解出来てはいないリンの心情に彼女よりも気付き、本心から言っているのか。それともただの戯れなのか。
男の顔を見上げたところでリンには判断など出来ないが、楼主はリンの方を見ないまま話を続ける。

「まあ、何にせよ。あのヒトは少し厄介かもしれないな」

「え?」

表情は変わらなかったが、楼主の声が一段低くなったような気がして、リンは思わず声をあげた。
リン自身今までにも何度か客を取ってきたし、また他の姐が客を取るのも楼主と共に見送るのも見てきた筈であった。
しかし、楼主が客について自身の意見を口にしたことなど、見たことがない。
どういう意味かと見つめるが、男はリンの視線に返すことはなく門の中に消えてしまった。





楼主の言葉の意味を考えるとなかなか寝付けずにいたが、いつの間にやら眠っていたらしい。
目が覚めると、廊下には複数の足音が聞こえる。
久々に寝坊をしたかと、眠った筈が冴えない頭で起き上がり湯浴みに行く。
湯殿への途中で知り合いに時刻を聞けば、まだ朝四ツ時の鐘が鳴ったばかりらしい。寝過ぎてはいないようだ。
欠伸を噛み殺しながら湯に入り、どうせ暇な昼見世の間に今日は部屋で本でも読もうかと考える。
すると丁度、中郎と出会って手紙を渡された。
――馴染みの客ともまだ文の交換などしていなければ、リンに手紙を出すような人間は一人しかいない。
そう思えば起き抜けから思考に沈んでいた心も晴れるもので、急ぎ礼を言って受け取り差出人を見れば、やはりどれくらいの間か音信不通だった相手から。
それまでの考え事など忘れ、部屋に帰って封を開ける。
『リン
 長い間返事を書けなくて悪かった。』
読んでみてもやはり、書き口や筆跡も、リンにとってたった一人の肉親であるレンのもの。
懐かしさに頬を緩ませながらも読み進め、最後の一文に目を留めた。

『近々そっちに会いに行くと思う。』

手紙の内容はこれまでと同様、レンのことは心配しなくてもよいということや、リンは元気にしているか、無理はしていないかと無難な内容だった。
しかし、これまでに見たことのない言葉。
「レンが、会いに来る…?」
有り得ない。
レン今がいるのは、陰間茶屋である。
男であろうと茶屋ですることなどリンと同じ、待遇とて変わらない筈だ。
廓にとって遊女は財産であり、店を出るには病か死、あるいは借金の完済しかない。
リンとレンに掛かる借金はそうそう返済の出来る額ではなく、そうでなければ生きているレンがリンと会うことなどある筈がない――仮に病で倒れたのだとしても、茶屋から逃れ自由の身になることなどないのだから。
だとしたら、と考えてリンの顔は青ざめる。
これまで音信不通にしていたレンが、わざわざリンに手紙を寄越すということは。
文を持つ手が震え、リンは祈るように額を紙に押しつけた。

まさか、レンが茶屋から逃げたのではないか。

それ以外に、レンが茶屋から出てあまつリンに会いに来る手段など思い浮かばなかった。
詳細が書かれていない為レンがリンに会う理由も方法も分からなかったが、それが真っ当な手段を以てされるとは考え難い。
連絡もない弟について、もう他人だと思っているのではないかとリン自身も遠ざけようとしていたが、それでもたった一人の肉親である。情がない訳がない。

「どう、しよう…姐さんに」

けれどリン一人にその事実はあまりに重く、どうすべきかなど思い付く筈もない。
唯一浮かんだ姐の姿に、とにかく伝えてみたいと腰を上げる。
しかしそれと同時に鐘の音を聞き、リンは我に返って座り込んだ。
――本当に、姐に知らせるのが最良なのだろうか。
鐘の音に何を思った訳ではなく取り乱していた気持ちが少し落ち着いたというだけであるが、それでも今のリンには十分な間だった。
狼狽している場合ではない、考え直すのだ。
ミクは今この廓においてリンにとって最も信頼出来る人間であるが、所詮は女郎。
また、リンは彼女を信頼しているが、ミクはリンよりも楼主を信頼していることもリンは知っていた――ミク自身が、楼主に命を拾われて此処にいるのだから。
ならばこの一大事、喩えリンが止めたとしても彼女が楼主に相談をしてしまうなどという可能性もあるのではないか。
信頼する姐を疑うのは心が痛むが、リンにとってはミクよりもレンの方が優先される。
そうして、気付くのだ。
「か」
思い付いたままに紙から顔を上げて、声に出していた。
姐よりも信頼出来る人間が、いたのだと。
ふいに気付くと、リンにはまるで彼こそが相談すべき最良の相手であるかのように感じられた。
誰よりも情に厚く、この世でただ一人、リンを人として見てくれるお節介な人物。

「かむい、さん」

その名を口に出してから、同時に自分自身の浅ましい考えにも気付きリンは嗤った。
――あれだけ拒絶をしておいて、汚したくはないと思い考えて、だのに結局、彼の優しさに頼ろうというのか。
人としての矜持だけはと考えながら、今リンが考えたのはまさに彼を利用すること。
なんて浅ましいのだろう。
たった二度憐れみを掛けてもらっただけで、彼に頼ろうというのか。
はは、と乾いた笑い声が自分の口から漏れているのに気付いた時、リンはふいに頬に熱を感じた。
何故だろうか。
たった二晩の出来事だったが、それでも十分だった。
水揚げの時でさえ、寝て起きれば相手のことなど忘れようとし、忘れ、それを繰り返して今まで仕事をしてきた筈だったというのに。
彼はこんなにも簡単に、体さえ繋げずリンに入ってしまった。
「神威さん…」
情を惹く目的以外に男の名を呼ぶなど、今まで一度たりともなかった筈が。
「神威さん」
不安で仕方のない今、あのヒトに傍にいて、笑っていて欲しいと望むなど――それが遊女の役目だというのに――どうかしている。
けれど、どうかしていると思いつつもリンは自身の衝動を止めることが出来なかった。
分かっているにも関わらず、である。

「神威さん、レン…」

初会から日も忘れた頃にやって来た彼が、今朝別れて。
そう、直ぐに会うことなど出来る訳がないのだと。

この作品にはライセンスが付与されていません。この作品を複製・頒布したいときは、作者に連絡して許諾を得て下さい。

夜明けの夢 【第二章】 肆:あらゆる転機 (がくリン)

『夢みることり(黒糖ポッキーP)』インスパイアの、がくぽ×リン小説です。
明治期・遊郭もの。

※注意:この小説は、私・モルが自サイトで更新しているもののバックアップです。
あしからず、ご了承ください。

閲覧数:276

投稿日:2010/10/27 17:10:45

文字数:2,874文字

カテゴリ:小説

オススメ作品

クリップボードにコピーしました