5.
この都市は運河の河口に位置し、元々は運河と海路を使った交易で発展した都市だった。
産業が発展するまでは漁業も盛んだったが、産業の発展に伴い漁港は次々と貿易港へと作り替えられていき、あっという間に漁業は衰退した。
この都市――針降る都市は、運河で分けられた東西、そして貿易港や工場の密集する湾岸の三つにエリア分けできる。
運河から東側は、工場の建ち並ぶ湾岸エリアの境目となる南側から順に、高層オフィスビルの並ぶ一番地区、富裕層居住区画である二番地区、そして一般市民居住区画の三番と四番地区と色を変えていく。
二番地区の住民は、都市全体の一パーセントにも満たないほんの一握りの富裕層だ。
彼らは何も心配しなくても高額の収入があり、相応の税金も何の苦もなく――場合によっては金額すら把握せずに――払い、この都市のメリットを思う存分甘受している。自らよりも下の者達を蔑み、嘲り……思いやる者などいない。そんな事をしようものなら簡単にその地位を蹴落とされ、すぐに一般市民の仲間入りとなってしまうからだ。
そこから北部へ進んで三番地区に入ると建ち並ぶ住宅も急に質素になり、ガクッと所得金額も縮小する。そこからが一般市民の住まうエリアだ。
仕事の収入の多くが税金に吸いとられ、その残った絞りカス程度の日銭で生活に追われる人々。それでも納税できているだけ、彼らはマシと言える。
都市の南部は湾岸部になっていて、運河の東側が五番地区で西側が六番地区だ。ここには幾多の工場と倉庫がある。
多くの過重労働と表には出されない児童労働に支えられた工場群は、幾多の煙突から白煙をもくもくと煙らせ、海に工業排水を吐き出している。中身すら判然としない物品を取引する業者は無数におり、貿易港付近に広がる倉庫街の中は、三割が違法品だという噂さえある。
三世代ほど昔であれば、それなりに澄んだ色合いだった空と海は、今や常に白く煙り、また名状し難い色に濁り、淀んでいる。
そして運河の西側には、税金も払えないような低所得者達の住むスラム街が広がっている。スラム街ではギャングが幅を効かせ、富裕層はもちろん、一般市民も近づく事はほとんど無い。エリアによっては警察ですら近寄れないほどだ。
つまり、あらゆる犯罪が表に出ないまま見過ごされている危険なエリアなのである。
そんなスラムの路地裏の一角で、断罪の声が響く。
「キャロル・クーパー・コンラッド。我、ニードルスピアの名に置いて汝の罪を裁かん。己が罪を数えよ」
告げるのはヴェールで表情を隠した漆黒の未亡人。
相手は――年端もいかない少女だった。
「なんで……アタシ、アタシは!」
「一つ。自らの赤子を遺棄した罪」
「……ッ!」
まだ二十に満たないであろう少女が、女の託宣にひゅっと音を立てて息を呑む。明らかに“誰も知らないハズなのに”と思っていた顔だった。
「一つ。オレの商売領域で不特定多数の人物と金銭の見返りとして姦淫せしめ、オレが得るはずの売上を奪った罪」
「そんなの……」
まだ動揺が解けていない少女に畳み掛けるように、女は厳然と告げる。
「一つ。赤子の父親であるトッド・ステインを、姦淫した男どもを利用して運河に沈めた罪」
「……」
少女は完全に圧倒され、黙りこんでしまった。
そんな少女を前に女は煙管を深く吸い、紫煙を吐きながら隣の少年に告げる。
「ヨハン、やれ」
うなずいて懐からデリンジャーを取り出す少年に、少女が泡を食って叫ぶ。
「ちょっと待って、お願いよ! アタシまだ死にたくない!」
その言葉に少年が動きを止めて少女を見る。その苦悩めいた視線にチャンスがあると思ったのだろう。少女はここぞとばかりに言葉を紡ぐ。
「助けてくれたら何でもするわ。アタシ、あんたを気持ちよくさせる方法なら何だって知ってるもの。それにほら、そこの年増なんかよりアタシの方が若くて綺麗でしょ? オバサンに遊ばれるよりもアタシとシた方が絶対良いって! だからお願い。助けて!」
それが本当に少年を引き留める為の言葉になると信じて疑わなかったのだろう。
少年の視線が苦悩から諦めに変化した事にすら、少女は気付かなかった。
「ククク、ハハハッ! これは傑作だ!」
「なにを――」
本当に分からなかったのだろう。嗤う女に反論しようとしたが……少年がデリンジャーでしっかりと少女に狙いをつけたのを見て押し黙った。
「な、んで……」
「ククク、そんな言説でヨハンを止められると本気で思ったのか? 今まではずっとそれで何とかなったというわけだ。実に哀れだな」
「……」
「キャロル・クーパー・コンラッド。汝の罪を追加する。一つ。正しい教育も受けられず、適切な言葉を選ぶ知識も無い罪」
煙管の灰を捨て、女は煙管で少女を指す。
「安心しな。トッド・ステインを沈めた奴等もすぐにあんたの後を追ってくる。地獄でも犬みたいに盛ってりゃ幸せかもな。キャロル」
「アタシは――」
「――辞世の句はそこまでだ。これ以上オレを笑わせるんじゃねぇよ」
容赦の無い女の言葉に、少女は尚更怒りを滲ませる。
「アタシを殺したって何も変わんないわ。あんたの愚かさが――」
――銃声。
少年の握るデリンジャーからは、一筋の硝煙。
胸を赤く染め、力を失う少女。
「……」
「……」
女はまだ暖かい“少女だったもの”に近づき、見開いたままの瞳を閉じさせる。
「……何も変わんねぇこたぁねぇよ。オレにはやり遂げなきゃならねぇ事がある。これはそれに向けての小さな前進さ」
どこか悲しそうにそう言うと、女は自らの手を見る。
手の甲の深紅の紋様と、手の平の少女の鮮血。どちらも赤いそれを一瞥し、女は手を振ってため息をつく。
「マム。何故わざわざこんな人物の処理に出向くのです? ブラック・ウィドウの名に傷が付きませんか?」
女の背中を見て、デリンジャーにセーフティをかけて懐に仕舞いながら少年が尋ねる。
少年の顔には少女を殺した事に対する罪悪感は見られない。女に引き取られてから数年、少年は何度も約束と指切りを交わした。彼はすでに女の手法を把握している。分からないのは、その理由だけだ。
「……これで良いんだよ、ヨハン。雑魚も大物も選り好みしない。だからこそブラック・ウィドウの名に価値が出てくる」
「どういう事でしょうか?」
少年には理解出来ないようだった。
「ブラック・ウィドウってぇ名は、要するに抑止力なのさ」
「抑止力……?」
女は立ち上がり、少年の元へ帰ってくる。
少年がハンカチーフを差し出す。女はそれを受け取り、手の平の鮮血をぬぐう。
「オレは何かを数えるのが得意でね。統計をとってんだよ」
「統計、ですか」
手の平の代わりに赤く染まったハンカチーフをどこか不思議そうに眺めながら、女が続ける。
「オレがブラック・ウィドウなんていう大層な名前を使うようになってからもう何年も経つが、それからバカをやる奴ぁ劇的に減ったんだ。この数年、針降る都市は……他の都市と比べりゃ犯罪は少ない方なんだぜ」
「……何かと犯罪は起きている気がしますけれど」
腑に落ちない少年に笑みを見せ、女は控えていたゴロツキどもにアゴをしゃくり、彼らに死体の処理を任せる。
「それでも、だよ。結局の所、警察どもも危なっかしくて都市の西側にはほとんど来やしねぇ。七番地区はまだしも、この八番地区なんざ近寄る事すら無い」
「警察が近付かないのは……マムの組織の影響力もあるでしょうけれど」
「スパイカーズか? ありゃあオレのじゃねぇ。エド……エドワードのもんさ。アイツがスパイカーズのヘッドだからな」
「しかし……エドワードはマムの配下なのでしょう? それなら、マムの組織とどう違うのでしょう」
少年の指摘に女は楽しそうに笑う。
「カカカッ、違ぇねぇ!」
「スパイカーズは……ギャングです。彼らの統率はエドワードだとしても、ほころびが出る」
「オレはスパイカーズの一員だ。だから好き勝手できる……って勘違いするヤツが出てくるわけだ」
「そこで“ブラック・ウィドウ”の出番というわけですか」
「そうだ。オレが警察の代わりに治安維持してるってワケだ」
「マムが……“ブラック・ウィドウ”が、たとえ小者相手であろうとも容赦なく殺すなら、これくらいならバレない、と思って犯罪を犯す者も減る、という事ですか」
「ヨハン、よく理解したな。お前は本当に利口な子だ」
女は正解を誉めるように少年の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「とはいえ……これは本番前のちょっとした摘まみ食いだ。メインディッシュを美味しく頂くにゃ、摘まみ食いし過ぎないようにしなきゃな」
「……?」
少年は女の言葉に顔を覗き込むが、ヴェールに隠されたその顔は微笑んでいるようだが……その機微までは読み取れない。
「“ブラック・ウィドウ”という存在をつくり、恐怖で支配する……効率的ではありますし、実際効果があるのでしょうけれど……。それを、僕が継げるでしょうか」
「心配すんな。お前の役割はオレを継ぐ事じゃない。全てを終わらせる事だ。それはきっと、お前なら上手くやれる」
「……?」
その真意を図りかね、少年は女を見上げる。が、当の女は遠目に死体を片付けるゴロツキどもを眺めていて、答えてくれそうな雰囲気ではなかった。
「……。帰ろう。車でディミトリが待ってるし、キャロルに唆された男どもにも落とし前を付けてやらなきゃならんしな」
「……はい。そうですね」
二人はきびすを返し、凄惨なその場を離れる。
針降る都市の最も粗野なエリアの路地裏は、漆黒の喪服に身を包んだ女と身なりの整った少年が歩くには少々場違い感が漂う。
……が、二人にそんな事を気にする様子は無い。
「ヨハン」
女が深紅の紋様が刻まれた手を少年に伸ばす。
少年は女の顔を見上げ、その表情に困惑しながらも手を取る。
「……マム?」
「ふー。オレは弱い人間だ。……こんなんじゃダメだな」
「急になにが……大丈夫ですか?」
「いや……すまない。オレは――」
そう言いかけ、女が路地裏を抜けて通りの道へと出る。
瞬間、黒い影が現れる。
「マム!」
少年が叫ぶが、間に合わない。
そして、黒い影が――。
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