朝餉(あさげ)の席へと、足早に歩む蓮は、ふと、足を止めて、ため息をついた。
海渡が、白いひげを蓄えた、上官なのだろう、男に、何やら、言われている。叱責でも、受けているのだろう。もっとも、叱責とは名ばかりの、言いがかりなのだが。
蓮は、小さく息を付くと、男のもとに、歩み寄った。
「海斗は、神子直属の守り手だから、何か、問題があるのなら、主である、僕に、言ってほしいのだけど………何か、問題が?」
「い、いえ………神子様に、お聞かせするようなことでは……」
「それなら、朝餉が、まだだから。海渡。行くぞ」
「はっ」
蓮は、血の気の引いた顔の男を一瞥すると、踵を返して、歩き出した。その後ろに、海渡が続く。
「何やっているんだよ。鈍亀海渡」
しばらく、歩いてから、蓮は、海渡にしか、聴こえない声で、そう言った。
「いやぁ、捕まっちゃってねぇ…………あはははは。やっぱ、悪いじゃん」
「何が、悪いんだよ。勝手に、陰口、叩かせてれば、良いだろう」
顔をしかめたまま、そう言って、蓮は、ため息を押し殺した。海渡がやっかみを受ける理由は、若くして、出生していることだけではない。一つは、確実に、神子の一番、近くにいる者だからなのだ。
そして、自分は、他の者を寄せたがらないから、尚更だ。
「蓮君は、しっかりした、神子様になったよねぇ。お兄さんは、嬉しいよ」
蓮の気も知らず、海渡が、にこやかに言った。蓮は、海渡を一睨みすると、そのまま、まっすぐに歩いた。
多くの者が、蓮を、いや、神子を意識している。歌術に優れ、水龍を操る、月の神の子を意識しているのだ。
でも、それは、自然なことなのだろう。
蓮だけが、水の男(おのこ)とは、根本的に違うのだから。
蓮は、ため息を押し殺して、さらに、気を引き締めた。朝餉をとる部屋には、まだ、いくらかの者がいる。
蓮は、そんなそぶりを見せないように、上座に、腰を下ろした。
蓮の前に、金色に輝く、玉が盛り付けられた、玻璃(はり)の皿が置かれる。それから、銀色の液体で満たされた、金色の杯。
朝餉の支度が整って、残っていたものたちも、奥へと控えて、やっと、蓮は、少し、ほっとした。
この金色の玉は、水玉(すいぎょく)だ。水の男は、みな、この水玉を食べるのだ。最も、大抵の水玉は、淡い水色だ。蓮の食べるモノだけが、すべて、金色となっている。
玉をくりぬいて、作られた箸で、水玉をつまむ。金色に輝く、その様は、先ほどまで、見ていた、月を思わせる。
水玉を、しばらく、見てから、蓮は、それを、口に運んだ。まるで、月を、食べているようだ。でも、歯で噛み締めて、その一噛みで、口いっぱいに、はじける、その味は、いつもの通り、身が洗われるように、清く、ほんのりと甘い、水玉の味だ。
ほんの少しずつ、味わいの変化する、水玉の味を楽しみながら、蓮は、鈴に、これを、食べさせてあげたいと思った。きっと、鈴も、月を食べているみたいだねと、喜ぶだろう。鈴のはしゃいだ笑い声が、あの鈴の音が、響き渡るようだ。
「なぁ、海渡」
「何ですかい? 蓮君」
「空の国のこと、お前は、どのくらい、知っている?」
鈴は、自分のことを、空の国の風の乙女だと言った。でも、蓮は、空の国について、水の国から、追放され、さらに、二つ目の月を奪った裏切り者の国だと聞かされている。
しかし、鈴は、そんな子ではないし、彼女が語る、空の国や、風の乙女たちも、そんな者たちには思えない。
「つまり、老師から聞くこと以上のことが知りたいと?」
「ああ」
即座に頷くと、背後で、海渡が、やっぱり、大きく、頷く気配がした。
「ふむふむ。では、勉強熱心な蓮君のために、お兄さんが、取って置きの話を教えてあげましょう」
いつもよりも、さらに、機嫌の良い声で、海渡はそう言った。それから、微笑った気配が伝わってきた。
海渡が、いつも、笑顔だからか、幼い頃から、ずっと、一緒にいるせいか、蓮には、海渡が微笑った気配がわかるのだ。水が温むような、そんな、居心地が良いような、悪いような、何とも言えない心地になる。
「これは、数年前のことなんだけどね。ちょっと、用があって、海面に、近づいたんだ。そしたら、空を、何かが落ちて来るんだよ。驚いて、まじまじと、見たんだけどね。青い髪に、青い衣の、風の乙女なんだ。風を操るはずの風の乙女が、落ちてくるんだ。いやぁ、本当に、あれは、びっくりしたよ」
「それで、どうしたんだ? 助けたのか?」
「もちろん、助けようとしましたよ。このまんまじゃ、海に落ちちゃうしね。でも、その前に」
そう言って、海渡は、ふっと、真剣な顔になって、口を閉じた。
「その前に?」
「ふっと、消えちゃったんだ」
「消えたぁ?」
「うん。綺麗さっぱり」
「……夢でも、見ていたんじゃないのか?」
「失礼だなぁ。本当だよ。僕と同じくらいの青い髪でね、気を失っているのか、目を閉じていた。青い衣と羽衣が、風に煽られて、日の光で、きらきらしてね、夢のように、綺麗だったよ」
目を細めて、うっとりと話す海渡の言葉を、脳裏に描いて、それから、蓮は海渡を見た。
「青い髪に、青い衣………何か、お前みたいだな」
「あぁ……言われてみれば、そうだね。あはは。空の国の、僕の兄妹だったのかもしれないね」
楽しそうな海渡の声に、蓮の脳裏の、海渡に似た乙女が、蓮に似た乙女に、鈴に変わった。そして、そのまま、ふっと、消えた。
空の国の兄弟。鈴は、蓮の妹か、姉なのだろうか? 確かに、鈴と蓮は、対のように、よく似ている。兄弟なら………いや、双子だ。あの水と空に、別たれてしまった双子の月のように、双子なのだ。だから、こんなにも、似ているのだ。
「蓮君。どうかした?」
「何でもない」
心配そうな海渡の声に、蓮は、顔を上げて、首を振った。
どうしてなのだろう? 海渡とは、他の者とは、こうやって、一緒にいられるのに、どうして、鈴とは一緒にいられないのだろう。双子だからか? 双子の月と同じように、別たれてしまうのか? それとも、鏡写しだからか? 水が、いくら、空を映しても、空にはなれないように………
空も、水をうつすといった、鈴も、蓮をうつすといった、鈴の声を、縋るように、思い出す。
口の中で、弾けた水玉の味が、海のように、塩辛くて、妙に、胸に染みた。
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