第八章 03
それから三日が経過した。
街は厳戒態勢が敷かれ、宰相と元貴族からなる新政権は血眼になって焔姫の身柄を捜索していた。
広場で宰相に刺された国王は、その数時間後に死去したという。あとは焔姫が捕まってしまえば、名実ともにこの国は宰相と元貴族の手に落ちる。
男は街を出る事をやめた。
こんな状態でこの国から出ていく事など、出来るはずもなかった。
男に出来る事はそう多くはなかったが、それでも付きっきりで焔姫の看病を続けた。
あれから、男と焔姫は二人きりで逃げ回っている。
人手を増やすと追手に嗅ぎつけられる恐れがあり、焔姫とともに動いているのは男だけだ。しかし、宰相たちの反逆を良しとしない民が、絶えずサポートをしてくれていた。
それが出来たのも、これまで民をないがしろにしなかった焔姫の振る舞いのおかげであり、そんな焔姫の優しさを理解していた民のあたたかさのおかげだった。民は焔姫の味方だった。誰もが焔姫の怪我を心配し、かくまう事にためらいを見せる者すらいなかった。宰相と元貴族に売り渡す者など皆無だった。
こんな状況だというのに、焔姫が高熱にうなされたり傷口が化膿したりしなかったのも、都度清潔な包帯や各種薬草など、この国では貴重品であるはずの物を民が無償で提供してくれたからだ。
まだ三日しか経過していないというのに、宰相と元貴族の治世は驚くほど評判が悪い。
国王の死の翌日、宰相は新国王を名乗り、国王の遺骸を王宮前広場にさらした。その遺骸は今でも、広場にさらされたままだ。
それから宰相は、改革と称して現状からの改悪をいくつも行った。
そして、そのほとんどが増税であり、また罰則であった。
地下水脈の利用税を倍にし、街の出入りの税も倍に。あげく民の暮らす土地にも税をかけると言い出した。
許可のない移住の禁止、許可のない商売の禁止、夜間外出の禁止。数え上げればきりがないほどの禁止事項を、彼らは一方的に告げた。違反者には高額な罰金が課され、この数日でかなりの数の違反が取り締まられたという。
「仮に姫の事が無くたって、ありゃ酷すぎるぜ。自分達が私腹を肥やすためなら民は餓死しても構わねぇって感じだ」
そう漏らしたのは、酒場の店主だった。男と焔姫は民家を転々とする中で、三日目にして店主や女将と再会した。彼らは男の事をしっかりと覚えていたが、男が実は宮廷楽師だったと知り、そしてその嫁だと思っていた人物が本物の焔姫だったと知った瞬間は、凄まじいほどの動揺を見せていた。
「……国家の運営に、金は不可欠じゃ。軍の管理、建物や外壁といった設備の管理、王宮に使える者たちの衣食住など、数え出したらきりがない。父上は……それを出来る限り抑え、税金も最低限しか徴収しなかった。税が少なければ民の生活も楽になり、同時に商人も利用しやすくなるからの。交易の要所と言えど、この国を避ける事は不可能ではない。交易に依存するこの国は、訪れる商人が減れば簡単に没落し、荒廃し、すたれる。それを避けるために父上は税を出来る限り下げておったのじゃが……サリフとハリドは、それを理解しておらぬようじゃ」
外の様子を見てきた店主の話を聞き、焔姫は寝台から身を起こしつぶやく。
医師は見つからなかった。王宮にいた医師は、先日の元貴族たちの襲撃の際に死んでおり、街にいた医師には近衛兵の厳しい監視があり、焔姫の治療に動く事もままならなかったからだ。
結局、何とか確保出来た心もとない麻酔薬を使い、経験のない男が焔姫の傷口を縫合した。
男にはそんな施術を行う自信などあるはずもなく、断ろうとした。だが、焔姫はなぜか、己の身体を男以外の者が触れる事を是としなかったのだ。
居合わせた民は焔姫の意思を尊重し、男を説得する始末だった。
そこまできて、男はようやく焔姫の不安に思いいたる。
父親が死に、信用していた宰相に裏切られる。自らも深手を負った。……今の焔姫にとって信頼出来る相手、信用出来る相手というのは男しかいないのだろう。
孤独。
孤立。
そんな中で、男にだけは心を許しているのだ。
決して手際よくはいかなかったが、男の縫合もあり、焔姫の容態は安定している。
しかし、当然ながら背中の傷が完全にふさがったわけではない。激しい運動、剣を打ち合うような戦いをしようものなら、傷口が開いてしまうのは明白だった。
「カイト……。余の剣を」
そして焔姫の右腕は、胸より高く上げる事が出来なくなっていた。日常の動作にはさほど支障はない。だが、剣を振るうのは無理だ。利き腕で剣を振るえないというのは、焔姫にはかなりの痛手だろう。
だが、それでも焔姫は剣を求め続け、決してあきらめなかった。
「なりません。傷口がふさがってからです」
その都度、男はそう言い返す。
焔姫自身の剣は、広場に放置してきたままだ。あの時には、男に剣を回収する余裕などなかった。
焔姫もまた、それを分かっていてなお「余の剣」を所望する。
それは、男に対するささやかなる反抗なのだろう。
自らの意思に、現状を甘んじる気は無いと示すための。
「なれは――」
きっとにらみつけ左腕を上げる焔姫にも、男は断固として譲らなかった。
焔姫の腕を取り、肩をおさえて寝台に寝かせる。焔姫は抵抗するが、その力は弱々しく逆らうには至らない。
「戦った事など無い私にすら抗えない身体で、剣を手に何をするおつもりですか」
「余は、王宮を奪還せねば……。父上の亡きがらも、弔わねばならん」
国王の遺骸がさらされている広場には、絶えず近衛兵が監視をしている。傷を癒やすまでは、国王の遺骸の回収はどれほど望んでも叶わなかった。
「そうしたければ、傷を治すために安静にしていただかなくては困ります。そのような無茶は、治癒を長引かせるだけにございます」
「ぐ……」
男の言葉は正論過ぎて、反論の余地など無かった。焔姫は寝台に横たわったまま、悔しそうにうめく事しか出来ない。
「……姫が完治するまでは、私が命を賭して姫を守り抜きます。ですから姫は、どうか治癒に専念して下さい」
その決意の言葉に、焔姫は顔を赤くして視線を男からそらす。
「……た、戦えもせぬくせに、なれは何を言っておるのじゃ」
「確かに、私に武の才はありませんが……それでも、出来る事があります」
「……」
焔姫は声に出さず、眉根を寄せて「それは一体何じゃ?」という疑問を態度で示す。
「姫を彼らの目から隠し続ける事くらいであれば、私にも出来ますよ」
男は焔姫を安心させようと、強がって片目をつぶってみせる。
「それが……どれほどの難題か、なれも分かっておろう」
この街は、広いようで狭く、大きいようで小さい。
「……このままでは、なれも殺される。そうなる前に――」
男以上に強がって、焔姫は手を伸ばして男を追い払おうとする。だが、焔姫の意志に反し、男はその手を強く握りしめた。
「――姫を独りにはさせません。……決して」
男の返答に、焔姫は悲しそうに、けれどほっとしたようにため息をついた。
「……大馬鹿者め」
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