第四楽章   

さて、今宵は音楽会
くだんの作曲家は女から男の影を消すため
男を今世紀末最大の笑い者にしようと、
有名人を呼び集めるために東奔西走
男に決定的な引導を渡す御膳立ては済んだ
あとは道化師の滑稽な登場を待つばかり
酒宴は華やかに進みついに男の出番
すると人々の間に喧々囂々の非難
浮ついた噂は脂粉にまみれ
香水を振りかけられて次の噂を呼び
面白半分のヤジが繚乱と乱れ飛ぶ
くだんの作曲家は姦策の計画通りの進行に
出窓の影で一人仄かに笑い嘲る
寛闊の女はじっと密かに男を見つめ
しなやかな夫の手を握りつつ焦心苦慮
男は勇躍と立つ嘗ての名声の壇上
人生の白日夢のように過ぎ去った栄光
同朋の作曲家の嫉妬から出た偽りの醜聞から
男を子犬のごとくあしらった社交界
今こそ臥薪嘗胆、復讐のときは来た
冷めやらぬ宴会の騒めきのただなか
男の指揮棒が宙に舞い
そっと人々の心に忍び込むように、
天真流露に演奏は始まる
天衣無縫、自由自在、縦横無尽
音色は高く低く滞りなく流れ
静かに脈々と人々の心を締め付ける
流麗に曲の進むにつれ、
ばらばらな聴衆の心は一体となる
一人一人は山紫水明を心に描き
その明媚な光景の中に幼き日々を追う
今はない父母を慕う明るい子ども部屋
優しかった祖父母を想う色鮮やかな菓子の皿
故郷の緑の山々、碧き湖水、小川の流れ
黄緑色の畑、昼なお暗い森、草原の輝き
川のせせらぎ、水車の響き、馬車の音
心に翳りを有する者は潸然と涙して
愛する人の死を悼むものは胸に手を合わす
男を調弄しようとした作曲家ですら
我を忘れ、心を流され、魂を奪われ、
ただ、ひたすらにおのれの罪を懺悔する
音楽界は揺籃のように曲に合わせて揺れ動き
突然の涙声も自然に覆い包まれ抱擁される
ある者は手を組み合わせたまま膝まづき
老いの皺の刻まれた頬の上に涙の筋を作り
ある者は羞恥もなくその場にさめざめと泣き崩れる
誰一人として曲に支配されない者はなく
曲の流れるままにその情緒を操られる
奏者は楽譜の紙背に綿々と流れる愁曲に
知らず知らずのうちに踊らされ操られ
楽器の音色も潤いのある涙声に彩られる
豪奢な宴の雰囲気は余りの哀愁のため
弱い者にはいたたまれないものとなる
だが一人としての悲哀から抜け出す者なく
心の底から沸き立つ甘味な哀愁の情に
華美に彩られた懐旧にどこまでも浸ろうとする
曲は甘くささやきかける、母の子守歌のように、
その哀切の想いに心ゆくまで浸れと
そして、その旋律に心の底まで酔い痴れよと

曲は詩う、永遠の愛の詩を
異国の地にて黄昏の出港間もなき船着き場
赤き夕陽の和の中に深く沈みし影法師
千畳敷きの海原のそのただなかに汝が姿
茫然として佇立せり暮れなずむ陽に消え行かん
小雨煙れる街の中、あゝ我泣きてただひとり
汝と別れて幾歳が、虚しき日々を送りけり
褪せることなき想いでは、瞼に浮かぶ鮮やかに
汝が面影よ夢に見し、夢か涙も微笑みも
奈辺に消えし我が愛よ、如何にありしや恋人よ
全て虚しきつかの間の薔薇のそのでのかの逢瀬
美しかりし汝が姿、故意に目覚めし日より
想いは勝りわが胸に愛とに満てりこの恋と
青芽のごとき香りもて、心に匂う今もなお
ビロードのような唇と絹の金髪いまいずこ
潤む瞳は麗しく、憧れ燃ゆるわが胸は
夜ごと夢みしその中の露を宿せる汝が瞳
熱き唇深紅なる情熱的な色合いで
純潔ゆえに小さくて潤いありて輝けり
碧き瞳は空色の星より高き気高さで
無垢な水晶それおりも計り知れなき深さなり
汝慕いて暗夜行路、一人歩道に佇めば
楽しかりし思い出が波打つごとく去来する
起きてはうつつ寝ては夢 幻ゆえに汝をば
求めてやまぬ我が心、異国の影を彷徨す
共に語りて慕い合い、二人がともに喜びて
また歩みしは忘られぬ ただ懐かしき思い出が、
遥かに過ぎしかの時の胸に潜めし哀情と
優しかりしかの瞳 今は彼方に皆去りぬ
春巡り来て花香り鳥は囀る空の果て
流るる水のそのごとく、さすらう我は哀れなり
濃紫色の唇形花 サルビアのように楚々として
そぼ降る雨のその中をひとり残して去りし人
泣きて想いが満るなら恥を忍びて泣きましょう
汝が衣擦れを聞けるならどこへなりとも行きましょう
嗚呼わが命尽きるとも我がこの想い綿々と
汝求めてとわの果てよもやあるまじ絶えること

人々を陶酔の谷間に引きずり込んだ後、
燦然と陽が没するように演奏は終焉する
曲に洗浄された虚心坦懐の人々の
さめやらぬ熱っぽい涙のしたたりが、
嘆賞のどよめく宴会の場を支配し、
濃密な陶酔と楽の音の深淵な余韻に
夕陽の残光のように未練を断ちがたく
その場に自失して動こうとはしない
その愁曲のもつ万人共通の言葉
その情熱の強靭さ、感銘の澎湃
生身の人の子であればこそ
また、非力な人の子であるからこそ
この永遠の愛のテーマにむせび泣き
感動に打ち震え酔い痴れる

嶄然と甦り男は音楽会に蘇生する
忽ちのうちに男は英雄ヴェートゥヴェン
天才モーツァルトの再来
逸材シューベルトの化身
人々は男に侮蔑を吐いたその同じ口から
餌を漁る雀のように喧噪と口々に叫ぶ
・・尊敬に値いすべき奇跡的新人
・・神の手で創造された偉大なる芸術家
・・百年に一人の天才的作曲家

女は夫の手を離れ男の許
全ての偽りの拘束から解き放たれ
幸福の絶頂にひとり遼東の豕となり
男の胸に全てを投げ出ししがみつき
その満たされた仕合わせにむせび泣く
だがそれも杖を失っためしいの累卵の危うさ
女はその時知る ありとあらゆるものの
轟轟と音をたてる瓦解と崩壊を
愛の真実の炎に包まれた転落を
富と名声が男を囲繞する
男は絶えまなくコンサートを開き
頻繁に貴族の催す夜会に招かれ
絶大の好評を博し万雷の拍手を得る
もうこの世に男の才能を疑う者はない
豪壮な邸宅、多数の召使、瀟洒な馬車
最愛の女とのあいびき
だが男はもうこの世に真実の愛はないと悟る
そして愛情に払拭しきれない懐疑を抱く
あまたの夜会の招待状
数えきれない音楽会の督促状
玄関に山積された花輪、激励の手紙
それらが一体、男にとって何を意味しようか
富や名誉や激励や、諂いが
どれほど男の心の間隙を満たせるだろうか
男はもう作曲することはできない
女が男に溺れ体を捧げた時
音楽院の教授の職を、
国外への演奏旅行の招聘を投げやり
男はついに長い羽根の筆を折り
音楽の都から、豪勢な邸宅から抜け出し、
女を夜明けのベッドの中に一人残し、
永遠の旅、終生の旅に出た

二頭立ての馬車に揺られ、
夜明けの肌寒さに震えながら、
男は白い息を吐きつつ呟く
・・・真の愛なくして何のための作曲か。止揚された愛なくして何の芸術か。女性を愛することと、それを拒否しつつ芸術に向かうこととがなくしては揚棄はされない。英術はすべてこの矛盾対立の下賜、引力と反発、事物が相互に否定し合いながら、両者を包摂するより高次の統一体へと発展すること。これこそ、万有の真相、宇宙の原理、愛とは肉体への愛着ではない、男と女の乳繰り合う慣れ親しみではない。愛は肉欲を超絶したもの、芸術を志向する者は、愛をより崇高な絶対へと高めなければならない。

男は再び酒場の馴染み
燻り続ける熾火のようにグラスを見つめ、
そして思う、
・・・不幸は幸福のためにある。常に不幸であればそれが常態となり、それ以下へと転落する危険を負わずに済む。
そこは場末の酒場、人生の終着駅
想い出の走馬灯も明かりが消えて停止したまま
動いているのは容赦のない無情の時だけ
男は昔、ジプシー娘と観覧車で恋を語った。
男にとってはあの一晩限りの恋が、
世間で言う愛であったように思われる。
そう、世間で言うモノはあってもなくてもどちらでもいいようなものばかり
そのくせ世間で言うモノは、
男の双肩に大きな鉄アレイのようにのしかかる。
・・・だんな、一曲いかが?
と風琴の男。
・・・おお、君こそが世間で言う芯の芸術家、しかし、私は旦那なん歳ではない。それに、世間でいう高尚な芸術なぞ、全く解さない男、世間で言う美しい愛なぞも、全く解さない無味乾燥な人間、悲しみも売却した、愛情も質屋に入れた、魂すらも悪魔に手渡した、その金全部で酒を買った。手元には今一銭の金もない、おかげで今は宿なし。
男は泥酔、深酒、話を続ける。
・・・そう俺は平和と繁栄に巣食う青二才、貴方には悪いけど、私は流しの風琴弾きよりも瞽女の方がいい、年増女の方がいい、この身の不条理と矛盾撞着を覆い包む育ちの悪い、だが情の深い女の方がいい。

女は夫と別れ男を追う冬の寒空の下
男のためなら伯爵夫人の名も捨てる覚悟
今度こそすべてのものを失う決心で男の傍ら
そう、ため息も涙珠も情愛も憤怒も
使い果たした人生のよどんだたまり場で
明日のない夜更けに借金と負債に負われ
寸時の無償の宿を求める男の横顔に
類としての男ではない男を
時空を超えて物そのものとしての男を
女は寸毫も動かない明晰な瞳の中に感じた
何もかも投げ出して女がどうあがこうとも、
最早男の心の中に棲むことはできない
世間の成り行きに従って女が男に身を捧げ
男が自分自身に対立することをやめ
賞賛の花束で埋もれた寝台の上で、
欲情の趣くままに女を汚したあの宵から
女が描いていた男の偶像は静かに地に堕ちた
男があえて女を穢せないといったのは
自己の心の中に華麗に描いていた
この世にあらざる女の偶像を崩壊させたくなかったため、
保ち守りたかったため
そのことを知った女にとって男は今はもう
粉々に砕けた落ちた偶像に過ぎない
そして、男にとっても女は
ひび割れた復元することのない偶像でしかない
その偶像はかつての男の芸術的発想の源泉
滾々と湧出する尽きざるイメージの宝庫
永遠の採掘に耐えうる無尽蔵のモティーフの鉱脈
くめど尽きせぬ黄金をたたえる巨大な泉

恋愛の舞台から飛び降りた女にとって
眼前でワイングラスを傾ける男は、
最早、種としての男の名に値しない
味もそっけもない一個の人間、一個の生物
今はもう女の入り込む余地は失せた
女はすべてを了解し、今は唯
帰宅を哀願する夫のもとへ再び帰る渡り鳥
酒場の軒下に止めた辻馬車に乗り込むと、
今でも男のやりきれない退廃の歌が耳に響く
・・・ああ、人生の岐路
右へ進むも左へ曲がるも
賽の眼次第、酒次第、
どちらに折れるも同じこと、
どうせ人生は一度きり
泣いて笑って飲めや歌えや夜の続く限り
どうなるか、誰が知るものか、夢のその先
ケチったらしく、ちびちび暮らすより、
みんな呑んでしまった方がまだまし
何年生きるも天の運
どうなるかも天の運
生まれて死んで、どうやっても、ただそれだけ
それがどうしてそんなに難しい
何でそんなに苦しむことがある
至って易しいことだろうに
耆老となって往生する運命
彗星のごとく夭折する運命
どちらも同じ五十歩百歩
大して変わりはしないではないか
それがどうしたといいたいのか
娘さん、酒をください
水割りはダメ
やけに水っぽくて、湿っぽくていけない
ウオッカやテキーラのように熱いやつがいい
アブサンのように情のこってりとこもった
思わず知らずほろりと来る熱さ
貴方にもわかるだろう
文明に毒された哀れなこの俺の
切なくやるせないどうにもならない
どこにも置き場のないやりどころのない
永久に絶対を求めてやまないこの心を

冷えびえとした酒場の夜の終わり
それは軽い財布の底の尽きるころ
もう一銭もない、帰り道は星の下
月のある夜は風がある
遠くに聞こえる犬の遠吠え
何物でも代替しがたいこの世のわびしさ
それはしみじみと身に染み入る
辻々を縫って走る風の夜に泣く声
男は涙ながらに夜空を仰ぎ見つつ呟く
・・・嗚呼、この手に力があったら、この身にこの腕に有り余る情熱があったら、偶像の滅失に何ゆえに死を憧憬としようか

辻馬車の窓越しに見える寒空
師走の強風は身を締め付ける
景気のいいのはすでに閉めた店
安酒場はいつまでも
だらだらだらりと遅くまで
カネのない客、来もせぬ客に網を張る
男は思う
・・・そうそれも人生、絶対を見失った今、人から何のかんのと文句を言われる筋合いはない、全てが偶然、全てが混沌、全てが相対、全てが無秩序

煌々とあたりに灯りを投げかける
街角に佇立する孤独なガス灯
男もボンヤリ夜明けのガス灯
客のない辻馬車の御者に男はぼやく
・・・あんたらも大変だ。何の因果か、ここにこうして目に見えない巨大な歯車とともに、唇歯輔車、命尽きるまで、ぐるぐるぐるりと回っている。嗚呼、今宵もまた更けてゆく、凝った星夜の空の下、俺の心を師走の風が悲しい音を立ててふく抜ける
女は揺られて馬車の中、
夫の屋敷から引き返し巷の辻々に男を求める
冷たさ心に沁みとおり、そっと外套の襟を立てる
それとちょうど同じころ、男は滄浪と千鳥足
薄汚れた外套の襟、春になればこれも質種
女の白い美しい襟足、脳裡に描きつつ
道行く辻馬車のその中に、もしや女が乗ってはいまいかと、
虚しい思いを繰り返す
その思いの切なさに、ゾッと寒さに襲われて
襟を立てて足早に、あてのない宿を求めて、
街角から街角へと歩き去る。

終曲

嗚呼、恋愛狂想曲
それは秋のある夕暮れのこと
枯れ葉のはらはらと風に舞い落ちるころ
木の実を拾って別れを告げた
蒼い瞳の優し気な男の思い出
また初時雨のその中を
赤いコートに赤い傘
肩を寒げにたゆまなく打ちふるわせて
明日も会ってと去って行った
透き通る金髪の女の思い出

ああ、オパールの輝きを
二人の心に深々と残して消えた
果敢ない初霜のような淡い恋
初めて二人が恋を語った
あの燦々と陽の降り注ぐ春の日の
何とも言えない心地よい
微風の微笑むような感触を
この曲だけが教えてくれる
遂には結ばれずに終わったが、
いつまでもいつまでも
とこしえにいつまでも
二人の心に高らかと奏でてやまず
二人は何ゆえに別れざるを得なかったのか
その比類なきたぐいまれなる恋愛の
妙なる甘美なるあまたの機微を
この曲だけが
この曲だけが知っている。 

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

「恋愛狂想曲」第四楽章

閲覧数:98

投稿日:2022/05/14 10:07:44

文字数:5,810文字

カテゴリ:その他

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