カップに湯気を立てる熱い紅茶を淹れて、ボクは安物のカーペットに腰を下ろした。リモコンの電源ボタンを押してテレビをつける。意外とボリュームが大きかったので少し慌てて下げた。
原稿を読み上げるアナウンサーの声を聞き流して画面左上に目線を向けた。時刻は六時三十七分。
それを確認した後に部屋の壁掛け時計に目線を移す。時刻は六時二十六分。十一分の誤差を見て、ボクは溜め息をついた。
この時計、狂ってる。ていうか壊れてる。最近遅れたり速まったりで、何度も低い背で必死に壁掛け時計を外してはネジを回して時間を整えていた。その度に現在絶賛爆睡中の彼女に笑われたのは置いといて。
しかしまあ、この時計を外してはネジを回す行為を繰り返すのも嫌になってきた。寧ろめんどくさい。壊れているようなのでついでに直りそうもないので寮担当の先生に頼んでおこう。
ふとベッドの白い塊がもそもそと蠢いて、金色の髪が少し覗いた。それからゆっくりとした動作でリリィは起き上がった。
「おはよ。リリィも飲むでしょ。今淹れたばっかだからあったかいよ」
彼女の返事を聞く前に棚からカップを出している自分に心で苦笑した。彼女が小さく頷いたのを確認してから紅茶をカップに注いだ。
「ん……おはよ。ありがと」
リリィとボクは幼馴染で高校の同級生で寮の同居人だ。リリィが親や先生の無理だやめろ、という声を無視してボクと同じ高校に通いたいって言って、ボクは親の反対を押し切ってリリィと同じ寮に入った。
携帯ゲームの持ち込みは不可だが一日三時間だけなら部屋にあるパソコンも使える。テレビも時間帯指定で、深夜の十二時から朝の六時までを除いて、基本見ることができる。食事は寮の食堂で摂るもよし、食堂からもらうか自腹で買った食材で自炊するもよしと、本当に、大変緩い寮であり、時折本当にこれで機能しているのか疑問に思うのだけど、ちゃんと機能している。
ボクもリリィも食堂の食事はあまり好きではないので、時間がないときや面倒なときだけ利用している。とはいっても朝食は大抵食パンをかじっている事が多いのだが。
「ん~……ねむい」
ボクは食パンとジャムを用意しながらそんな彼女の呟きを聞いた。この台詞は寝つきが悪い彼女の毎朝の恒例だ。
「リリィ。今日一緒に帰れるよね」
「うん。今日は確か、なんもない」
持ってきた二枚の食パンにジャムを塗りたくってリリィは言った。それを聞いてボクは空になった二人分のカップに再び紅茶を注いだ。
朝食を食べ終わったら二人で歯を磨いて、順に顔を洗って、髪を梳く。ボクが梳いている間にリリィは脱衣所で制服に袖を通す。そのあと交代してボクが脱衣所に入って制服に袖を通す。
同性だからわざわざ脱衣所に入って着替える必要もないはずだった。同居人がリリィでなければ。
着替える際に時折覗く、彼女の普段は見えない位置の白い素肌が見えて、たったそれだけでボクは胸を高鳴らせた。だからこうやって脱衣所に服を持ち込んで着替えるようになった。
数年前から、いや、もっと前からボクはリリィが好きだ。
それでも寮に入ってリリィと同じ部屋に住む同居人になっても、リリィとの関係は呆れるほど何一つ変わっちゃいない。
ボクは制服のブレザーの袖を通してドアノブを回した。
出ると、すぐそこに彼女は鞄を持って立っていた。
「グミ早く。遅刻するじゃん」
時間的には全然余裕なんだけど、ボクは鞄を手に取った。壊れた時計の針は七時二十四分を示していた。
夕焼けに空が染まる頃。ボクはリリィのいる教室へと向かっていた。
開けっ放しの教室の引き戸。そこから中に入ろうとして、ボクは立ち止まった。
オレンジ色の光が教室に差し込んでいた。ボクの視線の向こうには、その光を真正面から浴びる彼女。逆光で表情の見えない横顔。耳に向かって伸びる何かのコード。どこかのドラマにでも出てきそうな光景に一瞬息を呑んだ。
ボクは教室に足を踏み入れて窓際の彼女の席に歩み寄る。
「リリィ」
はっと彼女は振り返った。こんなに近づいたのに気がついていなかったようで、青い瞳を少しだけ見開いた。
「あ、ごめん。気付いてなかった」
彼女が立ち上がるのと同時に長い金髪と一緒にコードが揺れた。コードの続く先は彼女の耳で、おそらくイヤホン。彼女はそれを外して少し携帯をいじってからポケットにしまった。
「帰ろうか」
鞄を手にとってから彼女は言う。ボクはそれに肯定した。
リリィはなんにでも無関心そうな顔をしているけれど、とても綺麗だ。だからつい見とれて、ボクより少し高い背の彼女を見上げていると、青い瞳と目が合った。
「ん?」
「あ、いやっ……なんでも、ない」
きっと赤くなっているであろう頬を隠すために俯く。そうするとふふ、と珍しくリリィは笑った。何が可笑しいのかボクにはわからなくて、もう一度彼女を見上げた。
「赤くなってる」
彼女はまた小さく笑って、ボクはまた俯いた。このやり取りが続くとボクが恥ずかしくてどうかなりそうだった。
リリィにはボクがこんなになる理由をわかってもらえないんだろうけど、ボクはそれでもよかった。満足ではないけれど、嫌われたりするよりもずっとよかった。
不意に見た教室の時計。時刻は六時三十五分だった。
次の日もボクはいつも通り休日の朝を迎えた。携帯のアラームが鳴る十分前。リリィより少しだけ早く起きて紅茶をつくる。テレビをつけてアナウンサーの声を聞き流した。
ふと壁掛け時計に目を移すと、午前二時三十一分でどの針もぴくりとも動いていなかった。どうやら完全に壊れて止まってしまったようだ。まあ別にあの時計が動かなくても携帯やテレビで時間は確認できるので特に困りはしない。
休日のリリィは昔から結構お寝坊さんで、携帯のアラームが鳴ってもスヌーズ機能をオフにしてからまた眠りにつこうとするのだ。なのでボクはアラームが鳴る前に彼女を起こす。紅茶も冷めてしまうし。
「りりー。おはよー起きてー」
声をかけたけれど少し身じろぐだけで覚醒にまでは至らない。なので今度は声をかけながら揺さぶってみる。
彼女はようやっと目を開けて起き上がった。けれども太陽の光が目に沁みるのか、眩しそうに手で光を視界に入れないように遮っていた。
「おはよ」
肩までずり下がったシャツから見えた白い素肌に一瞬だけ胸が高鳴った。けれどそれを抑え込む。
「…おはよ」
眠そうな声の返事を聞いてからボクは彼女のカップを取り出して、紅茶を淹れる。その間にリリィはねむい、と呟いた。
紅茶のカップを手渡して、ボクは食パンとジャムを取りに狭いキッチンに戻る。
今日もまた、変わらない気持ちのまま、なんにも変わらない日常をボクは過ごすんだろう。
休日の昼間、寮は静かだ。
部活のある寮生は学校に行くし、出かける寮生もいる。なので休日の昼間の寮は静かだ。
どこかに出かければいいけれど、ボクとリリィは部活に入っていない。
部活に入っていないしどこかに出かける予定もないボクとリリィは、静かな寮で静かに休日を過ごすことになる。響きはいいけれど、要するに暇だ。
時計に目を向けそうになって気付く。あれ、壊れて動かないんだった。仕方なく携帯を開い時刻を確認する。午後二時三十一分。午前と午後が違うだけで数字は合っていて、ボクは少し笑った。
時計を見たら、やることもない。ボクは綺麗な長い金髪をした彼女に声をかけた。
「りりー」
「なに」
彼女は雑誌から目を離してこちらを一瞬だけ見てから雑誌に目を戻す。
暇だから声をかけました、と言っても面白くない。暇だから声をかけたんだから。
「ボクに一回やってみたいことってある?」
そこに期待を込めなかったかといえば嘘になる。
「なんでもいいの?」
彼女は雑誌から目を離さずに平坦な声を発した。それで期待は裏切られた。けれど目的はそれじゃないから、思ったよりショックとか、そういうのはなかった。
「うん。なんでも」
ふぅん、と彼女は無関心そうに頷いた。しかし雑誌はちゃんと彼女の手で閉じられて、安物のカーペットの上に置いてあった。
それからだった。急に、世界が動いたのは。
気がつけば視界はほとんどリリィの顔で。その隙間はそれまで見えていなかったはずの天井だった。
「りり……んっ……」
唇にやわらかいものが触れている。キスされた、と理解するには少し時間がかかった。
理解したら理解したで顔は熱くなって、彼女にも聴こえてるんじゃないかと思うくらい心臓はけたたましく鳴る。
ゆっくりとそれが離れていって、上手く回らない思考の中にそれを名残惜しく思うボクがいて。
「……一回やってみたいことなんていっぱいあるけど、まずはこれ」
さらり。綺麗な金色の細い束が頬に落ちてきて、ボクの鼓動は爆発しそうなくらいにまで一層速まった。
「グミどうする?一回やってみたいことの中に、これより先のこともあるんだけど」
無関心じゃなくて、余裕そうな顔をしたリリィ。
やってみたいことはあるのか、と聞いただけであって、実行していいなんて一言もいってない。けれど、自分の都合のいいように考えるのには、上手く回らないはずの思考が馬鹿みたいに早く回った。
「これより先、やりたいんなら、その前に言うことあるでしょ」
耳まで赤いんだろうな。頭の片隅で他人事のようにボクは思う。
目の前の彼女は少し笑って、ボクの目を真っ直ぐに見つめて、万人と同じ言葉を囁いた。
吸い込まれそうな青い瞳は、今までで一番、綺麗な気がした。
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