嵐の爪痕が、あちこちに散らばっている。
 例えば、アスファルトを埋め尽くす幾多の塵芥。
 例えば、曲がったまま二度とは戻らない木々の軋み。
 例えば、深く噛み付けられた唇の傷。
 不意に空を見上げれば、昨日までの黒雲は遥か彼方、今は唯々透き通るような青い空。そのまま視線を落とせば、昨日とまるで変わりなく歩く君の姿。
 その背中を僅かばかりの時間、見つめる。
 思い浮かんできた感情の全てを呑み込む。それでも落ち着かない心を鎮めようと、右耳のピアスに触れる。まだ慣れていないのか、軽く触れるだけで酷く痛む。けれど、その痛みがピアスの意味を実感させる。
 ――こんな痛みを、一体どれだけ重ねてきたの?
 見つめたままの背中に問い掛けるけれども、返事は無論、ない。
 せめてあの左耳の痛みが和らぐことを祈りながら、そっと後を追う。
 リン、愛してる。

 間違えた。
 それは世界の定めること。そしてあたしの認めるところ。
 だけれど、はっきりとそれを認めることをせず、今日もまた昨日を繰り返している。
 振り返れば、そこにはきっとあなたの姿がある。願わなくとも望めば、望まなくとも誘えば、それだけでふたりは並んで歩くことだって出来るはず。そしてそれは恐らく、昨日までのあたしなら出来たはずのこと。
 だけれど、今日は出来ない。今日からは、昨日まで出来ていたことが次々に消えていく。
 それを望んだのはあなた。それともあたし。
 どちらなのかも分からないまま、あたしは昨日を繰り返すために今日を歩いている。
 何をどうすればいいの。何をどうすればよかったの。
 悪いのはあなた。それともあたし。それすらも判断付かないのに、何もかもを認めることなんて出来るはずがない。縋るものが欲しくて、けれどあなたに縋ることは最早許されていなくて、あたしはせめて左耳のピアスに指を触れる。
 痛み。
 ――この痛みを、あたしたちはこれからずっと抱えていくの?
 言葉にはせず思うだけ。振り返りはせず歩くだけ。応えられることはなく疑問だけ、残る。
 あなたがこれから抱えるのはこの痛みなの。それともあたしなの。その答えを延々求めながら、あたしは黙ってあなたの前を歩き続ける。
 レン、どうすればいいの。

 キスをした。
 雨に濡れたその髪は酷く冷たく、その上くすんでいて、元々の鮮やかさがそのまま色褪せ失われていくかのようだった。
 指を絡ませても、雨雫が二人の身体を滑らせるばかりで、このままだと目の前の姿が小さく潰れて亡くなってしまうような狂気に捕われた。
 唯々、その存在を繋ぎとめたくて、その変色して温もりの欠片も失われた唇に、己のそれを重ねた。
 呼吸が止まった。もしかしたら鼓動さえ。
 思考は固まり、身体は強張り、けれど唇の柔らかさばかりが心に残った。
 間に差し込まれたその腕はゆっくりと背中に回され、噛まれていたはずの唇は慰めるように舐められ、気付けば少しの隙間も厭うように身体は密着していた。
 伝わるのはその身体の冷たさ。その奥に隠れている心臓の鼓動。
「レン」
 ともすれば聞き逃してしまいそうな、赤子の声。名前を呼ばれたことも定まらず、未だ虚ろな瞳がこちらの眼差しを捉えて離さない。
「あたしのこと、好き?」
 誘いは言葉、答えは行為。
 言葉に意味はなく、必要もない。唯、その疑問への返答は、言葉よりも行為でこそ相応しいと感じた。
 ――一緒に、一生消えない傷を負えば、ぼくの気持ちも少しだけ信じてくれる?
 言葉に意味はなく、必要もなかったから、それは口にしなかった。見つめる瞳、重なる唇からそれが伝わると信じていた。
 その答えに対するリンの返事は、互い合わせに付けた蝶のピアスだった。

 爪を赤く塗る。安い指輪で不恰好な指を飾る。
 ピアス穴は空けては塞がるの繰り返し。だから、その重さにはもうとっくの昔に慣れていたはずなのに、蝶柄のピアスを付けた耳がまだ気に掛かる。それになにより、その痛み。普段は何も気にならないくせに、一度触れてしまうとじくじくと痛み出す。
 それを和らげるのは、差し出される手。赤く塗った爪、安物の指輪で飾った指を差し出すと、まるで宝石でも扱うみたいにそっと触れる。
 そこに宿る温もりが、耳に痛みも胸の軋みも和らげてくれる。
「悪い夢でも、見た?」
 月明かり以外に互いが照らすものなんて何一つとしてないのに、その顔ははっきりとこの瞳に焼き付く。
「どうして?」
「うなされてたから。少し、心配した」
 困ったように微笑むその癖。見慣れているのに、見慣れてしまっているのに、それを酷くあたしだけのものにしてしまいたくなる。けど、それは無理だから。けれど、それは不可能なことだから。
 だけれどそれを素直に受け止めることの出来ないあたしは、唯々、あなたを抱き寄せる。
「……リン?」
「お願い。何も言わないで、抱き締めて。――間違ってないって、信じさせて」
 返事は言葉ではなくて行為。背中に回された左腕、頭を抱える右腕に、ぎゅう、と音が出るほどに抱き寄せられる。
 それが、過ち。
 知りながら、あたしはまだ足りないって、もう一つ頂戴、ってねだる。
「キス、して」

 そうしてまた昨日と同じ朝を迎える。
 重い右肩に紫の蝶。その髪をそっと梳かしてやりながら、身体を起こす。
 眠りを挟んだのに、未だ結ばれたままの右手を解くのが切なくて、そのままぼんやりと時計の針が進むのを待つ。
 傍らの寝顔は、思わず頬が緩んでしまうくらいに穏やかで、このまま時が止まってしまえばどれほどに幸せなのかと夢想する。
 失いかけた現実感を引き戻すかのように、右耳のピアスが鋭く鈍く痛む。
 この痛みは永遠に続くのかもしれない。
 だけれど、それでもいい。
 隣で眠る横顔が、このまま幸せでいてくれるなら、ぼくはこの痛みを永遠に抱き続けるよ、リン。
 誰よりも大切なあなた。

 けれどそれは間違い。
 例えどれほどの幸せが感じられようとも、例えどれほどの優しさで抱き寄せられようとも、この関係そのものが最早過ち。
 あたしがあのとき、あの腕を振り解けば、あの唇を拒めば、あの言葉を口にしなければ、全ては起こり得なかったかもしれない禁忌。
 毎夜の悪夢はあの日の繰り返し。毎夜の慰めはあの日の焼き直し。そうしてあたしは徐々に狂い出す。
 後悔は死ぬほどしてる。快感でそれが全て埋め尽くされる前に、レン。
 あたしを止めて。一瞬でラクにして。

 もうこれ以上後悔を重ねずに済むように。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

【magnet】磁力の蝶【右肩の蝶】


 読んでくださった方、ありがとうございます。
 心よりお礼申し上げます。

 ジキル様のmagnet(鏡音カバー)とのりP様の右肩の蝶を聞いていたら、いつの間にか繋がっていました。素晴らしい曲を本当に本当にありがとうございます。
 衝動に任せて書いてみたのはいいけれど、両曲の素晴らしさを貶めてしまっているのではないかと、内心びくびくしています。ひぃ。
 もし万が一何かの間違いあるいは偶然で、両曲の素晴らしさを、この拙い文章から受け取っていただければ、にゃんこが欠伸して寝ているところに遭遇したくらいに幸いです。

 ありがとうございました。

閲覧数:884

投稿日:2009/07/27 21:14:04

文字数:2,705文字

カテゴリ:小説

  • コメント1

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  • 癒那

    癒那

    ご意見・ご感想

    すごーーくよかったです!
    右肩の蝶とmagnetが合わさってすごかったです^^

    それでは、ありがとうございました♪

    2010/01/12 22:45:13

    • ひなたの

      ひなたの

      わわわ、三日もお返事せずにすみませんorz
      読んでくださってありがとうございますー。

      2010/01/15 17:04:12

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