その炎は川べりの芒(すすき)を焼き払い、馬鈴薯(ばれいしょ)の段々畑を煙にうずめ、赤松の山肌を火の粉に変えて、私の心を黒こげにした。それでヨシユキと目が合うたびに、私の胸は焼きすぎたトーストのような苦みに襲われる。ヨシユキはそのとき私の一つ下で、農学部の二回生で、野球部の球拾いをしていた。

 ひょろ長い体と肩まである黒髪のせいで、普段はグラウンドの隅にある柳とまったく見分けがつかない。近寄ってみてはじめて、睫毛(まつげ)の長いことといつも物憂げな顔をしていることに気がついた。
 マネージャーの高野です、と話しかけても反応はなく、一拍遅れて、あ、とも、は、ともつかない声を出す、そんな男だった。マネージャーの高野です、と話しかけるのにどれほどの勇気がいったかなんて欠片も知らないような顔で、どうも、と気のない返事が続き、それから私たちはキスをした。
 ヨシユキは野球が下手だった。ポジションはショートだったけれど、あまりにも守備ができないせいですぐにレフトに飛ばされ、でもフライが捕れないせいで一週間後にはレフトもクビになり、のちに私と出会うことになる柳の下を定位置とされたのが春の終わる前のことだった。
 それでもヨシユキは野球が好きだった。ヨシユキは毎日、四限の終わる四時過ぎにグラウンドに現れては、みんなのストレッチを手伝ったり機械のセットをしたり、ライトとレフトとファールグラウンドを忙しく駆け回ったりした。
 ヨシユキの仕事あがりを待つのが私の新しい仕事になった。夕暮れのグラウンドの片隅で、私たちは人目を避けてキスをした。練習後にみんなで飲みに行こうという話がまとまったときなど、お酒が飲めずついていけない私は人に気づかれない程度に落ち込んだりもしたが、こちらに向かってすまなそうな顔で手を合わせるヨシユキの睫毛を見ると、拗ねた気持ちも不思議と落ち着いてくるのだった。

 「大事な話」とヨシユキが口にしたのは、それから二年と少しが経った頃だった。辺りは夏の盛りの夕暮れで、欅(けやき)にとまった一匹のミンミンゼミが急速に短くなった昼間に抗議するかのように、私の白いワンピースの裾にけたたましい鳴き声を叩きつけていた。大事な話、と私が繰り返すと、ヨシユキは神妙に頷いて欅の根元に腰を下ろした。一抱えもありそうな太い欅は、グラウンドからほど近い部室棟へ寄り添うようにその枝を広げていた。
 「大事な話」は、「高野さんが好きです」という、ごく改まった言葉から始まった。私が照れていると、ヨシユキの口は「でも」という形に動き、そこで私はようやく自分の考えの至らなさを呪った。別れ話だった。
 私は納得しなかった。ヨシユキは私を愛してくれた。もちろん私もヨシユキを愛していた。互いの気持ちに変わりがないのなら、二人が離れることなんて絶対にないと思っていた。私はヨシユキの肩を揺さぶった。
 けれどヨシユキは黙って首を振るばかりだった。街灯の光がヨシユキの横顔の輪郭を黒く切り取っていた。グラウンドも部室棟も欅も、目に映る全てが薄暗闇の中に沈んでいた。私の両手とワンピースだけが闇の中に白く浮かびあがっていた。その手をとって、「冷たい」とヨシユキは言った。ヨシユキの手は暖かい、と私は言った。けれど私のその言葉にも、ヨシユキは静かにかぶりを振った。まるでヨシユキの言葉と私の言葉との間には空の太陽と井戸の底の泥ほどの隔たりがあるとでも言いたげな、それは決定された拒絶だった。そしてそれは同時に、長いあいだ忘れていたあることを私に思い出させた。それは今のヨシユキが農学部の四回生で、野球部の外野の補欠で、そして私の一つ年上であるということだった。

「打撃練習中の事故だったそうです」とヨシユキは言った。「救急車を呼んだけど間に合わなかったそうです。四年前の春だったと、監督から聞きました」
 そう、と私は言った。それだけ言うのに、ずいぶん時間がかかってしまった。
「それ以来、野球部はマネージャーをとっていません。でも、俺はこれからもそれでいいとは思いません」
 うん、と頷いて、私は口に指を立てた。最後までヨシユキに言わせるのは堪えられなかった。涙はもうずっと流れていて、それは服を濡らすことなくヨシユキの胸に吸い込まれていった。

 息を切らして走ってくる足音はヨシユキのものだ。
 帰ってきたヨシユキの手には、一束の線香花火が握られていた。最後に何か思い出が欲しい、とせがんだ私のために、コンビニまで買いに行ってくれたのだった。
 一緒に火をつけた線香花火は、ぱちぱちと元気に燃える。ちらりと盗み見ると、楽しげな口元とは裏腹に、ヨシユキの睫毛はいつもより陰を増していた。手元で揺れる橙色の灯りのせいかもしれなかった。それなら一向に落ち着かないように見えるこの両膝も、きっと灯りの揺れているせいなのだろう。
 ねえ。
 声にしてから、私は自分が何を言おうとしたのか分からなくなった。ヨシユキが微笑みとともに私の続く言葉を待っている。私はにわかに混乱した。それから泣きたいほどに悲しくなった。何を言おうとしたのか分からなくなった? 違う。気づかないふりをするな。私はこう言おうとしたのだ。さっき私は目の前のヨシユキに、一緒に来てくれない、と、そう訊こうとしたのだ。
 口にしてはならないことは誰よりも分かっていた。ヨシユキはまだ生きていて、それでも私のことを好きだと言ってくれた。ヨシユキの困った顔は見たくない。それでも声が出てしまったのは、この膝から全身を震わせる、先の見えない恐怖のためだった。私は自分の肘をかき抱いた。胃の底に重たい石が現れたような気がした。質感のある闇が無数の手を伸ばしてきた。
「高野さん、送り火って知ってますか」
 終わりのない震えを両断したのは、ヨシユキの暖かな手だった。
「お盆で帰ってきていた人をね、あっち側の世界に送り出すための火なんだそうです」
 ゆっくりと喋りながら、最後の線香花火を私に握らせる。先には大きく膨らんだ火の玉。終わりは確実に近づいていた。
 別れたくない、と私は言った。
「別れません」とヨシユキは言った。
「来年の夏、また一緒に花火しましょう」
 そのとき私が動いたから、線香花火は音もなく落ちてしまった。暗闇に戻った欅の下で、私とヨシユキは長い長いキスをした。







 

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
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【小説】二十歳の夜に

2009年4月の作品です。
夏祭り企画に向けて書いていたような…(うろ覚え
スタイルは江國香織っぽい模様です。

あと今さらですが、piaproだと文字小さい・行間狭いで読みにくくてすみません。
空行ばんばか打ち込むのは個人的に苦手なので、オリジナルのままで載せています。
お手間でなければ、メモ帳にコピーして読むのが楽だと思います。

閲覧数:127

投稿日:2016/04/17 13:04:14

文字数:2,625文字

カテゴリ:小説

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