10. 中編


「……」
 やがて廊下の途中にちょっとしたスペースのあるところにたどり着く。そこにはいくつかの放置されたロッカーと、上へと続く梯子があった。
 梯子を登り、また別の室内へ。さっきの部屋よりはマシだが、それでもまだ汚い。
 とはいえその汚れは先ほどまでとは違い、人の生活によって生じる汚れの類いだ。それは言い換えれば、人の気配がある、ということだった。
 当然と言えば当然。ここはトンプソンとジェファーソンの家だからだ。
 ……というより、地下の施設からの出入りに適している建物をそっくり買い占め、彼らの住居として与えたのだ。
 八番地区のこの辺りは危険なエリアだが、理想とも言えるこの場所を手放すわけにはいかなかった。
 傍目にはわからないが、三重ロックの扉に、窓ガラスはほとんどはめ殺し。開くことの出来る窓は格子付きか子どもでも通れないほどの小さなものだけ。できる限りのセキュリティが施されている。
 オレは隠し扉から部屋を出て、ごちゃごちゃしたリビングを抜け、玄関から外へ出る。
 建物的には正面玄関だが、出たところは人目につかない八番地区の裏路地の一画だ。
 見上げると、薄汚れた建物の隙間から暗いグレーの空が広がっている。今日もまた雨が降っていて、ただただうんざりさせられる。
 時刻はもう昼を過ぎていた。レオナルドの相手に夢中になっちまったせいで、いつの間にか昼過ぎになっていたらしい。
 オレは傘を差して路地裏を歩き、表の通りへ。
 歩き慣れた道のりを通り、ここに来たときはいつも寄るブランジェリーに向かう。
 とはいってもここは八番地区だ。そんな大層な店ではない。商品棚が道沿いにあるだけの、簡素な店だ。歩道には小さな折り畳み式のテーブルと椅子が二組置いてあるが、雨に濡れているせいで誰もいない。商品棚の奥にはエプロンをした中年男性とハイスクールは出ているくらいの青年が。よく知らないが、おそらく親子だ。
 オレが歩いてきていることに気付いた青年が手を振ってくる。
 オレは……。わたしはぎこちなさを感じさせないよう、細心の注意を払って柔らかな微笑みを作り、青年に応える。
「やあ。嫌な天気だね」
「ええ」
「今日はちょっと遅いね。いつもの?」
「……はい。ミルクティーとサンドウィッチを」
「すぐ作るから。少々お待ちを」
 少しおどけた態度の青年に、わたしは控えめにうなずいて見せる。
 彼はにかっと――わたしにはできそうもない――明るい笑顔を見せて、商品棚からパンを二枚取り、店の手狭な厨房でバターを塗り、野菜を切り、ハムと共にパンで挟んでカットする。
 それを紙ナプキンで包むと、崩れたりつぶれたりしないように紙袋の中へ。手際のいい仕事だった。
「うちのサンドウィッチは新鮮な野菜たっぷりだからね。すっごく美味しいよ。それで……ミルクティーも、いつも通り?」
 わたしは再度うなずく。
「砂糖多めでお願いします」
「ええと……余計なお世話かもしれないけれど、サンドウィッチにミルクティーを合わせるなら、そんなに甘くしない方がいいと思うよ」
 わたしは――わざとらしくため息をついて見せる。
「多めで……いいんです」
「あ……うん。ごめん。余計なお世話だったね。えっと、お会計は三ドルです」
「……え?」
 いつもより安い。
 と思ったら、青年が紙カップに入ったミルクティーを差し出しながら人差し指を立てて唇に当てて、静かに、というジェスチャーをする。
「ミルクティー分はサービスだから。大丈夫。親父には――」
「スティーブ。ドリンク分は給料から引くからな」
 奥にいるもう一人の男性……スティーブの親父さんが、ボソッとつぶやく。
 その言葉に、青年は苦笑する。
「騙せなかったみたいだ。あはは……」
「いいですよ。払いますから」
「いいって。サービスだよ。僕からの気持ちってことで」
 親父さんにバレても強気にそう言う青年の気持ちを無下にするのも悪いと思い、わたしは苦笑してうなずく。
「……ありがとうございます」
 わたしは紙袋とミルクティーを受け取り、品のいい――ように見えるはずの――微笑みを浮かべて、立ち去ろうとする。
「あ……あの! 僕、スティーブって言うんだ。スティーブ・マクラーレン」
「ええと……リンと言います。リン・ニードルスピア」
「リン……いい名前だね」
「……ありがとう」
 スティーブという名の青年は気恥ずかしそうに頭をかく。
「ええと……その。今度、僕とカフェなんて……どうかな。向こうの七番地区にいいお店があるんだ。ケーキがすごく美味しくて……」
 恥ずかしさに耐えられなくなったのか、青年の声は尻すぼみに消えてしまう。
「それは、その……」
 ためらった瞬間、青年の顔が曇る。
 正直に言って、行きたいとは思わない。
 わたしには、アレックスを差し置いて別の男とデート紛いのことをする気になどなれない。
 けれど、彼の必死な――真剣な様子に、そして、返答をためらったわたしに残念な顔をする態度に、どこか拒否するのがためらわれる感覚はあった。
 たとえ自分にその価値が無かったとしても。
「じゃあ……来週の水曜日になら」
 途端、青年の顔が明るくなる。
「もちろん! 親父。来週の水曜、昼間は休むからな!」
「ふん、好きにしろ。夕方には戻れよ」
「わーかってるって。夕方のピーク前には戻るから――」
 親子の会話になんとも言えない気持ちになりながら――苦笑いなんていう、器用なことは出来なかったけれど――わたしは青年に手を振ってブランジェリーを後にする。
 約束をしてしまったことは失敗だったんじゃないかと思いながら、わたしは……オレは道を歩く。
 行儀が悪いとは思ったが、別に気にする人もいない。傘を肩で押さえながら、紙袋からサンドウィッチを取り出し、歩きながらかぶりつく。
 レタスのシャキシャキ感に、トマトの瑞々しさと、バターの芳香。それらを閉じ込めるふわふわのパンの生地……の、はずなのだろうけれど。
 そんなのちっとも感じなかった。
 ザラザラの不快な舌触り。
 味のしないなにか。
 まるで砂を噛み締めているような感覚。
 吐きそうになるのをこらえて、仕方なく咀嚼して……飲み込む。
「……まずい」
 あのブランジェリーの、あの青年のせいじゃないことはわかっている。
 原因は彼ではなくわたしにあるのだから。
 歩きながらサンドウィッチを二口、三口と食べ、耐えられなくなりミルクティーを口にする。
「……」
 泥水みたいな味がした。
 ……いや、泥水の方がまだマシなんじゃないだろうか。
 砂糖を多めに入れてもらっているはずなのに、甘さなんて感じない。
 顔をしかめ、なんとか口の中にあるものを流し込むと、わたしはえずいてしまう。
「かはっ、けふ」
「……ミセス。大丈夫ですか?」
「ディミトリ。……ああ。平気だ」
 わたしは……オレは口元をぬぐうと声の主を見上げる。
 通りのしばらく行ったところで執事が待っていた。
「スティーブ、ですか。お戯れもほどほどにしませんと」
「んーなんじゃねーよ、ディミトリ。お前がちゃんと食えって言うからだろ」
 サンドウィッチを見せてひらひらと揺らして見せる。が、ディミトリは肩をすくめただけだった。
「お食事を摂るのは大切なことです。人は食べなければ生きていけませんから」
「だから食べたんだろ。ケッ」
「たまに口にされてるロリポップよりは、そのサンドウィッチの方がはるかに健康的です」
 ロリポップも甘さを感じなくなったから、あまり食べる意味を見いだせなくなっていた。それでもロリポップを口にするのは、アレックスとの思い出を確かめようとしているから……だと思う。
「はいはい。そーゆーお小言は聞き飽きたっつーの」
 そう言って、オレは紙袋に残したサンドウィッチとミルクティーの紙カップを突っ込み、グシャグシャにして歩道脇に捨てる。
 水が跳ね、紙袋は雨ですぐに濡れてしまう。
「で――ヤツは見つかったのかい?」
「……。はい。こちらへ、ミセス。この辺りのギャング、スパイカーズの頭が向こうにおります」
 オレの所業になにか言いたげだったが、結局なにも言わず、ディミトリはまた別の路地裏へとオレを案内する。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
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針降る都市のモノクロ少女 10中編 ※二次創作

第十話中編

文字数制限が6000字ですが、第十話はトータルで12500字ほどでした。
過去編の方が書かなきゃいけないことが多いため、分割して第十二話に回す余裕もなく……。

閲覧数:125

投稿日:2019/11/20 21:30:38

文字数:3,412文字

カテゴリ:小説

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