少年は考える。
鏡の向こうの少女は、果たして何者なのか。
その手を取って隣に立つことは出来るのか。
その答の為の手掛かりの一つだと思われるのは、少年に鏡を与えた―――彼の父親だった。
<魔法の鏡の物語.7>
向かいの席に座って最近の仕事がいかに面倒臭いか力説する父さんの様子をさりげなく窺いながら、僕はどうしたものかと悩んでいた。
リン。彼女は一体どういう存在なんだ?
というか、まず、あの鏡は一体どういうものなんだろう。
父さんは「魔法の鏡だ」と言っていて、僕も殊更に聞かなかったけれど、それってつまりどんな力を持っているのかさえ知らないままってことだ。
そんな、よく分からないものをよく分からないまま扱うのって、よくない。どこかで必ず情報を得ないと。…例えば、父さんに質問したりして。
最近の父さんは忙しいらしく、家を空ける頻度も高くなっている。
―――だったら話を聞くには、こうして父さんが寛げている今が好機なのかも。次にこうして時間が取れるのはいつになるか分からないしな。
…よし。
意を決して、僕はフォークを机に置いた。
「…あのさ、父さん」
「うん?」
食べ掛けのトマトを皿に起き、父さんが僕を見る。
そのごく普通の表情にどうしようか躊躇い、でも結局僕は言葉を続けた。
父さんなら僕の言うことを真剣に聞いてくれるだろうっていう安心感が背中を押したのも確かだ。肯定するにせよ否定するにせよ僕の言葉をまずはそのまま受け止めてくれる、それはとてもありがたいと思う。
でも、どう聞けば一番さりげない聞き方になるんだろうか。幾つか考えてはみたけど、どうもしっくり来る言い方が見つからない。
だけど今父さんは僕の話を聞いてくれる姿勢になっているし…うん、どうにか考えを形にしてみよう。
「父さんはさ…あの鏡で何かあったりしたの?」
ん?と父さんは不思議そうに首を傾げた。
ううん、どう言えば良いのかな。ぼやかしながら聞くのって難しい。
「うーん、だから、願いが叶ったりとか違う場所が見えたりとか…そういう」
「レン」
不意に、父さんの声が鋭く切り込んできた。
「…何かあったのか?」
真剣に尋ねられ、思わず言葉に詰まる。
―――それは…まあ。
で も何が起きたか正直に伝えて、それで鏡を遠ざけられてしまったりしたら最悪だ。或いは病気扱いされたりとか…いや、実際にリンが僕の幻覚だっていう可能性もゼロではないんだけど。
でも、そうしてリンと会えなくなったりしたら、それこそ薮蛇もいいところだろう。
そう判断した僕は、出来るだけ不思議そうな声を作った。不本意だけど、そういうのは結構得意なんだよね。父さん、嘘ついてごめんなさい。
「別にないけど、父さんの言ってた事が気になって。もし何かあるなら、心構えを持っていたいじゃないか」
「…そうか…」
かくん、と父さんの肩から力が抜ける。
とても残念そうで寂しそうな、でもどこか諦念を感じさせる表情。それは期待を裏切られたような…
…期待?
…何を…?
落ち込んだように机を見つめたまま顔を上げない父さん。
食べ掛けの食事は忘れ去られて、暖かかったパンもゆっくりと冷め始めている。
沈黙。
ただ、沈黙。
静けさが肌に痛い。
それだけでなく、なんだか放っておいたら父さんが泣き出してしまいそうな気がして、僕は恐る恐る声をかけた。
「…父、さん?どうしたの?やっぱり何かあったの?」
というか明らかにあったんだろう。
気になる。
いや、これだけあからさまな反応をされたら、気にならない方がおかしいだろう。
僕の声に顔を上げた父さんは、決まり悪そうに視線を泳がせた。
「あ…いや、うん……あったにはあったけど、変な話だからな。レンに言ってもなあ…」
―――これは、脈ありだ。
父さんの迷いを断ち切るように、僕はいかにも子供っぽいごね方をしてみせた。勿論、父さんが僕のそういう振る舞いに弱いって知った上で。
…我ながら、嫌になるほど打算的だなあ。でもまあ、便利といえば便利なスキル…ではあるか。
「どんな話でも良いってば。聞かせてよ」
あー、とか、うー、とか、暫く口の中でごにょごにょと何か呟いてから、父さんは一つ溜め息をついた。
「父さんみたいな歳の男がする話でもないんだけどな。…昔、父さんには仲の良い友達がいたんだ。いや、そう昔の話でもないかな、ちょうどレンが産まれた頃の話だから」
「友達…?」
「そう」
頷き、父さんは小さく笑う。
「父さんそっくりの姿をした、鏡の向こうの友達さ」
!
はっとして、僕は思わず父さんを凝視した。
鏡の向こうの友達。それって、まさしくリンのことじゃないか。
僕の動揺を知ってか知らずか、父さんは遠い日を思うような声で話を続ける。
その目は僕でなく、ガラスのコップを見つめていた。…いや、もしかしたら、その表面で自分を見つめ返す影を見ていたのかもしれない。
「父さんはこの通り、結構適当な性格だろう?でも友達だった奴は随分堅物でね、どっちかというと寡黙なくらいだった。けど根は優しくて、本当に良いやつだったよ。年も同じで家庭持ちの男同士、気が合ったのかもな」
そうか、出会いは父さん達がまだ30前後だった頃の話なんだ。言い方からすると結婚はしてたって事だもんな。
そんなことを分析しながら相槌を打とうとして、不意に父さんの言葉が頭の隅に引っ掛かる。
…友達「だった」?
それじゃ、今はもう友達じゃないみたいに聞こえる。
…どういうことだ?仲違いでもしてしまったのかな?
気にはなるけれど敢えて聞くのも躊躇われ、微妙な表情をするのに落ち着く。
視線を僕に戻し、父さんは姿勢を改めた。
家ではあまり見ない、真剣な顔で。
「いいかい、レン。あの鏡はきっと、レンの願い事を叶えてくれるだろう。でもそれは、決して無償の奇跡ではない。ここで何かを得れば、あちらで何かが失われるんだ」
えっ?
僕は心の中で頭を捻る。抽象的すぎてよく分からない。
「どういうこと?」
素直にそう聞いてみると、父さんは少し考えてから口を開いた。慎重に言葉を選びながら、分かりやすい話で例えてくれようとする。
「うーん…例えば、『お金が欲しいです』って願ったとするだろう。父さんはそれで宝くじが当たるけど、それと引き換えに鏡の向こうでの父さんに当たる奴が泥棒に同じくらいの額を盗まれてしまう、って言うと分かりやすいかな?」
それでぼんやりとわかった。
つまり、リンの世界にオレンジを渡したとき、僕の世界からはオレンジがなくなった。そういういうことだろう。
「それってつまり、向こうとこっちで差し引きゼロってことでいいのかな」
「そう…だな。恐らくそういうことなんだろうな。代償として相応しいものが失われるようだから」
「相応しい…」
言葉をそのまま繰り返し、そこで嫌な事に気付いた。
…父さんの表情が、暗いままだ。
居心地の悪そうなその表情が意味することを理解して、僕は端的に質問をぶつけた。
「父さん…まだ僕に言ってない事、あるよね?」
むう、と小さく唸りを上げ、父さんは眉を顰めた。
「…聞きたいか?」
「うん」
「…そうか」
父さんの両手が、机の上でしっかりと組み合わされる。
「実はな。今まで教えたことはなかったけれど、お前は産まれたときに心臓に欠陥があった」
…え?
不吉な会話の流れ。
いや、不吉というか…だって、この流れ。この先に父さんが何を言うか分かってしまいそうだ。
でも。
……でも、それは。
何も言えずに父さんを見る僕と、同じ青色をした目がかち合う。
僕が気づいたと言うことを理解した上で、父さんは微かに視線を落とした。
「鏡の向こうの友人は、願ってくれたんだ。…お前の病気が治るように、と」
その時は、そいつが願ってくれたなんて知らなかった。
父さんは静かに続ける。
「ただ、あいつの娘が病で歩けなくなったという話を聞いたときに、気になってかまをかけてみたんだ。…答えはなかったけど、顔を見て分かったよ。あいつは言葉にすることはなくても、顔には出してしまう奴だったから。本当は最後まで言わないつもりだったんだろう」
「…それって…」
まさか。
―――その、「病で歩けなくなった娘」って。
ずっと病気で歩けなかったの、と鏡の向こうで儚く笑う「彼女」の顔が閃くように思い浮かび、消える。
……まさか。
いや、でもそれは偶然にも程がある……
…訳でもない、のか…?
あの鏡が決められた二地点を繋ぐなら、親子二代に渡って関わることになってもおかしくない。
父さんと父さんの友人が似た容姿だということ、僕とリンが似た容姿だということ。リンの父さんは消息不明で僕の父さんは健在。リンの病気と僕の健康。狭くて雑然としたリンの隠れ家と、それなりに小綺麗で割と豪華な僕の家。もしかしたらこちらが平和であちらが戦火に焼かれているというのも、差し引きゼロの理由からなのだとしたら。
頭の中を色々な仮説が飛び回る。
お互いに母さんと死に別れていたりとか、歳や外見とか、同じ箇所も幾つかある。でも、だからこそ対照的なところがはっきりと分かるんだ。
「…父さんはそれを知ったとき、感謝と申し訳なさでどうしようもなくなったよ」
我が子が救われた喜び。救ってくれた相手への感謝。
けれどそれが相手に自分の苦痛を強いることになるとは…
「あいつも知らなかったんだと思う。でなければ願わなかっただろう。だけど、意図的ではないにせよ余りに負い目が大きくて…父さんは、それからそいつの顔をまともに見られなくなった」
やがてあの鏡の前に立つことも苦痛になって、そうしているうちに鏡の向こうの世界は見えなくなった。
相槌すら打てなくなった僕の前で、父さんはそうして話を結んだ。
「勿論、全部偶然の出来事かもしれない。なるべくしてなったことなのかもしれない。父さん達の願いなんて、関係なかったのかもしれない」
寂しそうに笑う父さん。
そうだったら良いのに、という痛切な、それでも間違っていると分かっている願いが透けて見える表情だった。
「…だけどな、レン。全てを『偶然』で片付けることは、とても出来なかったんだ…」
そうかとか、ありがとうとか、そんな言葉を並べて部屋に逃げ込んだ僕は、今の話を頭の中であれこれと考えてみた。
分からない。父さんの言っていることが、どこまで本当なのか。
父さんの性格的にありえないとは思うけど、もしかしたら僕を脅かすために話を作った、あるいは誇張したっていう可能性だって考えられる。だけど、そんなことする意味って何だろう。
…もしもあの話が本当なら、最悪僕の依って立っているものの殆どがリンから奪われたものなのかもしれない。本当はリンが手に入れられていたかもしれない幸せも、健康も、平穏も全部僕が奪っていたのかもしれない。
そんなの嫌だ。考えるだけで嫌だ。
そうなんだとしたら、今すぐにリンにそういったものを返してやりたい。
でも…もし全てを返すのなら、この世界はどうなってしまうんだろう。
リンの父さんが帰ってくることを願ったとき、僕の父さんはどうなる?
…リンの回復を願ったとき、かつてそれと引き換えに得たはずの僕の命は、どうなる?
勿論、父さんの言う通り、代償が必要とされる根拠なんてない。
…でも…だけど……
ぞっ、と頭と背筋が冷えたような気がした。
―――このままでいればいい。
頭の中で、暗い心が囁く。
僕が積極的にリンを救おうとしなくても、それが彼女の死に直結する訳じゃない。それに彼女の世界が広がらなければ、その心の中は僕一人が独占したままでいられる。最高じゃないか。
…最高?
彼女が独り、寂しそうに横になっている状況が?
世界との繋がりを、僕以外に持っていない状況が?
いつ訪れるか分からない死と別離に怯えている状況が…?
まさか。
「―――そんな訳…ないだろ…!?」
叩きつけるように吐き出した言葉は、誰もいない部屋の空気を虚しく震わせただけだった。
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ご意見・ご感想
目白皐月
ご意見・ご感想
こんにちは、目白皐月です。
うーん、お互いの間でプラスマイナスゼロの関係ですか……。さすがに、世界規模のあれこれにまで、鏡が関係しているとはちょっと思いたくないのですが。人一人の願いで左右されるには、あまりに範囲が大きすぎる気がします。
それに、リンの病気を治すことでレンが病気になった(戻った)ことを知ったら、リンの方が今度は絶対気に病むでしょうし、それって八方すくみというか、どうしようもない状態に陥るだけのような気が……解決策はあるのでしょうか。
>前回のコメントに続いてる話
うーん……ちょっと書いてみたい気はあるのですが、何分にも今は連載に全力投球中なので、書くとしたらこれが終わってからになっちゃうと思うんですよね。この連載、既に本編だけで原稿用紙百五十枚近く突破してるのに、未だに両者が恋愛モードに切り替わってくれなくて……(アナザーも同じぐらい枚数があるので、三百枚分ぐらい書いたことになる)いつ終わるのか目処が全く立ってない状況なので……。まあ、要するに「いつになるのかわかりませんが、それでよろしければ」状態なんです。
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なんか私信が半分以上を占めてますが、続きを楽しみにしていますので。
2011/09/23 22:20:51
翔破
コメントありがとうございます!
ちょっとネタばれですが、実際この鏡にそんな大きな力はありません。鏡の力については本編の中では細かく触れる予定は無いのですが、本編終了後に+αの形で少しだけ書くつもりです。
うっ、前回は無茶振りしてしまってすみませんでした。余り気にしないでください…自分でも「いらん事言ってしまった」と思いました。
そして頂いたネタですが、とても面白そうですね!結構グリムなどの童話の解釈は色々とバリエーションがあるので、そう言った本は読む側としても大好きです。読み手としても読んでみたいので、宜しければその話のタイトルや収録されている本などをご存知なら教えていただけないでしょうか。何だか前回からこんなお願いばかりですみません…。
追伸:「美亜へ贈る真珠」、読みました。語り口が私の好みにあったようで、とても読みやすかったです!お勧めありがとうございました!
2011/09/25 21:36:49