青の島
下船の際に銀髪の二人と別れ、リンは初めて異国に足を踏み入れた。港町の通りを歩く人は多く、土産屋や露店からは活気が感じられる。地元の住人と国外からの旅行者が入り混じり、その光景が当たり前のような雰囲気だった。大勢の観光客が訪れる為か、道沿いには宿が並び立つ。
青の国の滞在は五日間。最初の日は移動の関係で夕方近くまで船の中、最後の日は午前中に船に乗らなくてはいけない為、実質的には三日間の滞在になる。
自由に使える三日の一日目は、キヨテルの仕事に便乗して青の国王都へ。中央にそびえ立つ時計塔の歴史は古く、青の国建国からこの島に存在しているらしい。王家が所有している塔時計は、年に何度か一般開放されて中を見学する事が出来る。残念ながら開放日に合わなかったので塔内には入れなかったが、歴史ある建物は下から見上げるだけでも充分な価値があった。
二日目は国内の名所巡り。キヨテルの仕事は前日に終了しているので、四人でのんびり観光する事になった。
港町からは童話やお伽話の舞台になった場所へ向かう馬車便が出ている。各地には元になった逸話を書き記した案内板が建てられ、現地の歴史に詳しい者が見学者に解説を行っていた。流石は文芸と工芸に力を入れている国だと感心する。
そして、三日目の午後。
キヨテル達と一緒に昼食を取った後、リンは一人で店が並ぶ道を歩いていた。色々と見て回りたいと言い、他の三人とは別行動である。
今頃ミキとユキはキヨテルに荷物持ちを任せて買い物中だ。何を買うかも決めていない上に欲しい物も無いので、リンは目的を決めないまま異国の港町を散策していた。
「一緒にいた方が良かったかな……」
往来する人を視界に入れつつ、リンは自分にだけ聞こえる声で呟く。夕食までには宿に戻ると約束しているが、まだ時間には余裕がありすぎる。しかし自分から別行動すると言ってすぐに合流をするのは決まりが悪いし、三人が今どこにいるかを探すのも大変だし面倒だ。
「……そうだ」
小さい頃にレンから教えて貰った言い伝え。あれを試してみるのも良いかもしれない。小瓶なら雑貨屋で売っているだろうし、羊皮紙の代わりに普通の紙を使っても大丈夫だろう。本当に願いが叶うとは思わないけれど、一回くらいはやってみたい。
今歩いている道は店が多いが、ほとんどが土産物を中心に扱っている店だ。その中に紛れるように存在していた雑貨屋には、丁度良い大きさの瓶は見付からなかった。
場所を変えようと決めて足を進める。しばらくして観光客向けの通りを抜けると、海岸とは違う開けた場所に出た。
歩くたびに踏むのは砂ではなく芝。波の音に似ているが、時折聞こえるのは風で葉が揺れる音。適当に歩いている内に、港町東の公園に向かっていたようだ。
地面に薄手の布を敷いて弁当を食べている家族や、木漏れ日の下で読書をしている女性、ベンチで昼寝をしている男性など、この公園が憩いの場として使われているのが一目で分かる。適度な喧騒は平和そのもので、リンは思わず感想を漏らした。
「青の国は良い所だなぁ……」
今回の旅行で何度そう感じただろう。王族貴族への不平や国に対する愚痴は聞かないし、住んでいる人達がのびのびと笑っていて、国全体が生き生きしているのを肌で感じる。常に新鮮な空気を入れているような感覚だ。
貴族の横暴さに辟易し、民が疲れている黄の国とはまるで違う。こうして他国へ旅行に行ける程の余裕があるのに、そんな事を考える資格は無いのかもしれないけれど。
両親が生きていた頃とは違い、現在の黄の国は不安と閉塞感が漂っている。王都の郊外では、貴族の支配に反発する民衆と国側の騎士団とで何度か小競り合いが起こっているとか。
噂で聞いただけではあるものの、黄の国元王女としてはあまり気分の良い話じゃない。国民の不満と鬱憤が弟王子に向けられるのなら尚更だ。
レンは頑張り屋さんで優しいから、きっと誰よりも国の現状に心を痛めている。その癖苦しい胸の内を周囲に知られないようにして、一人で抱え込んでしまう子だ。
王女じゃなくても良い。他人としてでも構わない。ほんの少しだけでも良いから、レンの手助けになりたい。
王宮で働きたいと言った時、キヨテルとミキからは猛反対された。嫌な記憶のある王都に行かなくても良いのに、どうしてわざわざ貴族のいる王宮を選んだのかと。
二人が身を案じてくれているのは分かっていた。自分が貧民街にいた事を知っているから、もしかしたら貴族へ報復するんじゃないかと思われたのかもしれない。
心配をさせないように、そして誤解をされないように、用意しておいた嘘を話した。
偶然見かけた王子にずっと憧れていて、叶わないとは思いつつも王宮で働くのが夢だったと。
突っ込まれたらどうしようとひやひやしていたが、キヨテルとミキは問い質す事はせずに我が儘を聞き入れてくれた。三年間育ててくれて、無茶な夢を応援してくれる二人には感謝してもしきれない。大泣きするユキを落ち着かせるのには苦労したけれど。
王都へ出立する前に、隠していた事を全部話そう。責められてもそれは仕方が無い。
がさり、と葉が揺れる音が耳に入り、足を止めたリンは辺りに目を向ける。近くに人はいない。道を外れた所は雑木林になっていて、登りやすそうな木がいくつも生えていた。
「鳥かな……」
大まかに見当をつけて林へ歩く。草を踏んで木に近寄ると、再び同じ音が聞こえた。鳥が飛び立つにしてはやけに大きい。枝そのものが揺れている音だ。
猫が木登りでもしているんだろうか。呑気に考えて根元に着いたと同時に、若い男性の声が降って来た。
「ちょっと退いてぇぇ!」
「え?」
慌てた様子の早口に顔を上げる。木が喋ったと一瞬思い、リンはそれが勘違いであるのを瞬時に判断した。
まず目についたのは白と青。咄嗟に後退した直後、目の前に青髪の人間が地面に激突した。鈍い音がリンの耳に届く。
「な、何? 何?」
人が降って来ると言う珍事に遭遇し、リンは地面に突っ伏している人と木を交互に見やる。剪定の人が足を滑らせたのかと思ったが、作業着ではないし鋏も持っていない。それ以前に長いマフラーを巻いて木に登らない。
「あっだた……」
声や雰囲気からすると、相手は年上のお兄さんのようだ。リンはとりあえず青年に話しかける。
「大丈夫ですか?」
「……ああ、大丈夫」
青年はゆっくりと立ち上がり、服に付いた土を払い落とす。俯いて隠れていた顔が見えた瞬間、リンは息を詰まらせた。
心臓が跳ねて激しい音が耳に響く。昔盗みを働く時に感じていた感覚に似ているけれど、それとは全く違う。この人から目を離さない、いや離せないのは、隙を見つけて食べ物や財布を盗む為じゃない。
「君こそ平気かい? 怪我は?」
穏やかな顔つきと、それに似合う優しい声。長身を包む白い服に、青い髪とマフラーが映える。海と同じ紺碧の目に見下ろされて、リンは返事をするのを完全に忘れていた。
「大丈夫? しっかり」
答えが返って来ないのを心配し、青年はリンの顔の前で手を振る。ぼんやりしていて反応はない。
「君!」
「はっ、はいっ!?」
やや強い口調で呼びかけられ、リンは思わず背筋を伸ばした。素直すぎる返事に青年は苦笑し、緊張しきっている少女を和ませようと声をかける。
「そこまで驚かなくても……。君、怪我とかしてない?」
落ちた時にどこかぶつかったかと尋ねる青年に、リンは頬を染めてしどろもどろに返す。
「だ、だいじょぶ、です」
変にうわずった声が出る。緊張しているせいで言葉が上手く出て来ない。胸を鷲掴みにされたように苦しいのに、嫌な感じではないのが不思議だった。
……ツーピー、ツーピー……。
鳥の鳴き声が二人の頭上から流れる。囀りを聞き、青年は木を仰いで笑みを浮かべた。
「おっ、さっそくか」
リンは怪訝な表情で上を向いたが、鳥の姿は見えない。木が途中で二又に分かれ、太い枝を伸ばした先には葉が繁っていた。視点を前に戻して青年と視線が合い、また心臓が跳ね上がる。
青年は微笑み、無言で手招きをする。行くかどうかを逡巡するリンへ小声で伝えた。
「早く。なるべく静かに」
何があるのかと疑問を浮かべ、リンは高鳴る胸を意識しないようにして足を動かす。人差し指を立てる青年の隣まで移動して、彼が見せたがっていたものを目に捉えた。
人の背よりも高い位置に、どう見ても自然ではありえない四角い物体が見える。一カ所だけ穴が開けられた三角屋根の箱は、木に取り付けられた巣箱だった。
まるでリンが見るのを待っていたかのように、巣箱から一羽の鳥が飛び立つ。囀りが消えて、遠くから子どものはしゃぎ声が聞こえた。
瞬く間に去る鳥を見送って、青年はリンに目を移す。
「あれが落ちそうになっててね。ちょっと補強していたんだ」
「ああ……。それで」
高鳴る胸を自覚しながら、リンはぼんやりと相槌を打つ。巣箱を直す為に木に登って、そこで落ちたと言う事のようだ。
思わず顔が緩む。最初に受けた印象とは掛け離れた、うっかりした一面がおかしかった。
「君、旅行者? 黄の国からかな?」
ごく自然に言い当てられたのに驚き、リンは一拍置いて答える。
「そうです。分かるんですか?」
旅行者と一口に言っても、青の国の人もいるはず。髪色で出身地が分かる緑の国の人とは違い、黄の国と青の国の人は様々な髪色をしているのが普通だ。外見だけではどちらの国民か見分けはつかない。
黄の国から来たとは言っていないのにどうして分かったのか。リンが首を傾げていると、青年は理由を付け加える。
「この町に住んで長いからね。雰囲気とかで何となく分かるんだ」
へえ、とリンは感嘆の息を吐く。事も無げに言っているけれど、そう簡単に出来るものじゃない。
ふと、青年は何かに気が付いたようにリンの顔を見つめる。リンが緊張する間も与えず、勘の鋭さを裏付ける一言が発せられた。
「……どこかのお嬢様?」
呟きを耳に入れてリンは肝を冷やす。背中に冷や汗が浮かんだ。王女であるのを見透かされたのかと焦り、しかし冗談を言われたように笑って返した。
「違いますよー。私はそんな身分じゃないです」
これ以上聞かないで欲しい。願いが通じたのか、青年は追究せずに謝罪する。
「そうか……。変な事言ってごめん」
何とか誤魔化せたとリンは胸を撫で下ろす。もう王女じゃなくなって大分経つのに、まさかそんな風に言われるとは。
青年は木に立てかけていた梯子を外して脇に抱えると、リンに笑顔を見せて呼びかけた。
「ねえ、これから時間あるかな?」
「ありますけど……」
むしろ暇を持て余していたとリンが言うと、青年は弾んだ調子で言葉を続ける。
「俺、この国で案内人みたいな事をやっているんだ。良かったら、この町を案内させてくれないか?」
異国の人に地元の事を知って欲しい。青年はそう語り、リンは何度も頷いて誘いを受けた。
「は、はいっ! 喜んで!」
嘘みたいだ、とどこか冷静に思う。貧民街にいた頃は他人と深く関わるのを避けて来て、キヨテルに拾われてからも人と付き合うのを極力遠ざけて来た自分が、こんな風に誰かと一緒にいたいと思えるなんて。
リンは本当の名前を言いたいのを抑えて、六年間使って来たリンベルの偽名を名乗る。女の子に先に名乗らせてしまったと青年は肩をすくめ、梯子を抱えたまま自分の名前を口にした。
「俺はカイト・マークリム。青の国の第三王子だよ」
あっさりと身分を明かされて、リンは驚愕の声を上げる。
巣箱に乗っていた鳥が即座に飛び去り、二人の頭上で葉擦れの音を鳴らした。
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