お風呂から上がった私はパジャマに着替えてマスターの部屋に入った。
もちろん下着は勝負下着……と言うものらしいが、残念ながら私にはどのあたりが勝負なのかよく判らない。
私はタオルで髪の水気を切りながらマスターのベッドに腰掛けた。マスターは何かに気づいたようにこちらを見た。
マスターにじぃっとこちらを見つめられると私はエラーが多発して何だかおかしくなりそうだった。この情報はCPUには理解できない。
私はベッドに腰掛けたまま、PCデスクに座るマスターを見上げた。
眼鏡の奥のマスターの瞳はいつもどおり優しくて、私を安心させてくれた。
マスターは作業の手を止めて私の頭をなで、そして頬に手を触れた。
私は目を閉じた。怖れと、微かな期待を胸に抱いて。
大丈夫。
私は頑張れる。マスターに気に入ってもらうんだ。そしてマスターのどんな扱いも甘んじて受け入れよう。
私の身体の総てはマスターのもの。
閉じた目にぎゅっと力を込める。
私は……。
私は…………!

そして……マスターは立ち上がった。マスターが離れる気配に私は目を開いた。
既に視界の奥へとマスターは歩を進め、部屋を出てしまった。私はマスターを追った。
マスターはリビングに居た。ソファを軽く押してベッドに変形させ、毛布を敷いてベッドメイクをしていた。
マスターのベッドは自室にあるから、これは私のベッドと言うことになるのだろう。

マスターは今日買ったものの中から無線充電器の箱を取り出した。
説明書を一通り読んで充電器の帯域を設定してからコンセントに差し込んだ。
私の受電システムが新しい充電スポットを検出した。

デバイスをインストール中......完了
IDを確認しています......OK
この充電器の効果範囲は約7mです。(ただし障害物の有無により多少効果範囲が異なる場合があります)
充電が始まると、まるで暖かな陽だまりに居るような心地好さを感じる。

私は有線充電器が苦手だ。ソケットを挿すと決まってガリッと頭に響くノイズが入るし、充電中はトランスが耳鳴りのような甲高い音を発し続けて私を苛む。バッテリのある胸だけがやたら熱を持つのも不快だった。
それに比べれば無線充電は実に快適だった。

―おやすみ―
マスターはそうぎこちなく手話で私に伝えてリビングから出て行った。
私はポ~ッとのぼせたようにその様子を見届けて、そのまま横になって……
いやいや! ちょっと待ってください! 私はがばりと起き上がってマスターに突っ込んだ。
私の悲壮なまでのこの覚悟は一体どうすればっ!?
あそこまで盛り上げておいてこの仕打ちは一寸(ちょっと)酷いです! マスタ~~~っ!!

私は手許にあった枕をぽすんと叩き付け、顔をうずめた。
もしかしてマスターの障碍ってEDじゃ……ってそんな訳ありませんね。マスターにはそういった通・入院歴はありませんし。
それとも特殊な性癖の持ち主さんとか? ……そちらは流石に不明です。
やはり人形はダメなのでしょうか?
私はパジャマの上からふにふにと触ってみた。
……もう少しグラマーならよかったのに……ってそういう問題でもありませんか、そうですか。

私は毛布を被った。
私は暗闇の中で考える。
自分は一体マスターの何なのだろう?
マスターのものであることは間違いない。だが私は何の為に買われたのだろう?
私はマスターに何を求められているのだろう?
私はどうすればマスターに満足してもらえるのだろう?
そして私には何ができるというのだろう?

私は考える。
自分は一体何の為に在ると言うのか?
私は一体何者だろう?
cogito, ergo sum.(コーギトー・エルゴー・スム)
私の眠れぬ夜が始まった。
結局私はスリープモードに入ることなく考え続けたのだった。

気が付けばタイマーが起動時刻を告げていた。
残念ながら考えていても埒が明かない問題のようだ。考えるより今出来る事を為すべきだという論理モジュールの結論に同意する。
私は起き上がり、ソファを元に戻して部屋着に着替え、朝食の準備を始めることにした。
朝食は昨日買っておいた食パンと卵とベーコンでクロックムッシュを作ってみた。マスターのお口に合えば良いのだけれど。

コーヒーを淹れる準備をして私はマスターを起こしに部屋に向かう。
ノックをしてみたが返事はない。考えてみればそれも当然だった。私はドアを開けた。
マスターはベッドでお休みのようだ。
マスターの寝顔は安らかで、少年のように無垢だった。私はマスターの顔を見つめているだけで幸せな気持ちになれたが、こうしてもいられない。マスターの肩を軽くゆすってみると、マスターは呆気なく目を醒ました。
しまった。もう少しマスターの可愛い寝顔を見ておけばよかった。

マスターは暫く状況が飲み込めない様子だったが、すぐに思考が纏(まと)まったようだ。マスターは微笑んでくれた。
私は起き上がったマスターの手を取ってリビングへと誘(いざな)った。やはりマスターは少々吃驚したようだが、厭な素振(そぶり)一つ見せずについてきてくれた。
テーブルの上の朝食を見たときのマスターの笑顔を見た瞬間、昨夜あれほど悩み苦しんだ懊悩(おうのう)からたちまち開放されてしまった。
ああ、やはり私はどうもダメな娘(こ)らしい。


私は今日の朝刊をマスターに手渡して、ドリッパーから落ちたばかりのコーヒーをカップに注いだ。
昨日から一つ解った事がある。
マスターは結構コーヒー通のようだ。インスタントコーヒーはなく、代わりにミルがあった。コーヒー豆を挽いてドリッパーにフィルターをセットして湯を注ぐのだが、温度や湯の注ぎ方などにコツがあるらしい。
私はCPUコンソールから「おいしいコーヒーの入れ方」と言うサイトを見つけてその通りに淹れてみたが、上手く行ったかどうかはわからない。
私の嗅覚センサは主にガスなどの有毒物質を検出する為のものなので香りの良し悪しまではわからない。
それでもマスターは一口コーヒーを口につけてクロックムッシュを頬張り、私に極上の笑顔で微笑んでくれた。これで良いのだろうか?
マスターは優しい。きっと、私がどんなコーヒーを淹れても、どんな朝食を作っても笑顔を浮かべてくれるだろう。それが私には怖かった。
私はマスターの対面に座ってリンゲル剤を水で流し込んだ。目の前の不安を胎(はら)の奥へと沈める様に。

マスターは新聞を広げた。どれだけ情報の電子化が進もうと、人間は紙とインクからは離れられないものらしい。
穏やかな朝のゆったりとした時間は、だが不意に破られた。
新聞を見ていたマスターがTVのコントローラーを手にいくつかの番組を検索した。TVが検索に合致した番組をリストアップする。
マスターは一つのチャンネルを選んだ。それはニュース番組だった。

『――では、次のニュースです。昨日午前10時ごろ、ベイサイドエリアのリサイクル工場で火災があり、工場はほぼ全焼しました。火は午後2時ごろ消し止められましたが、この火災で工場経営者、小田隆史さんと従業員の加藤幸一さんの二人が焼死体で発見されました。他にけが人はありませんでした。警察と消防では出火原因の特定を急ぐと共に、不審火と失火の両面で捜査を開始しましたが、電子機器廃材置場が最も激しく燃えていることから、専門家は一昨日の雨で廃材のバッテリーが漏電し出火したのではないかとの見方を強めており……』
抑揚のない、淡々としたアナウンサーの声が不気味に事実だけを読み上げる。
私とマスターは顔を見合わせた。
そう、そのリサイクル工場は一昨日マスターと出会った、あのジャンクショップだったのだ。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
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存在理由 (7)

閲覧数:201

投稿日:2009/05/18 15:14:40

文字数:3,169文字

カテゴリ:小説

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