「中に入りませんか?」
暗闇の中、暖かなオレンジ色の光が零れ落ちるビルの二階にあるカフェのテラスから、そんな言葉がギターを抱えて震えるルカの上に降ってきた。
冬に逆戻りしたんじゃないかと思うような、冷たい風が吹き付ける中。ルカはうたを歌っていた。
もう直ぐ春だというのに、冷たく鋭い風がルカの頬に切りつけてくし、凍えるような冷気が足もとからじわりじわりと体中を侵食していく。氷のようにつめたい指に何度も息を吹きかけながら、寒さを通り越して痛みすら感じる耳たぶをニット帽に覆い隠しながら、ルカはギターを鳴らしてうたを歌っていた。
だがしかし、やっぱりどうしても、寒いものは寒い。ふるえる声とかじかんだ指先に途方にくれて、立ちすくんでいたところに、吹きすさぶ風の合間を縫って先ほどの言葉が降ってきたのだ。
ルカの見上げた視線の先、逆光の中、ひょろりと背の高い男の人のシルエットが肩をすくめている様子やその口元から流れる白い息に、やっぱりとても寒いんだ。とぼんやりと取り留めのないことをルカは思った。
ルカに言葉をかけてきたこの男の人の事は知っていた。といっても名前は知らない。いつもうたを歌う、この場所の向かいのビルの2階にあるカフェの人だということだけ知っている、赤の他人だ。
時折、カフェのテラスから顔を出してルカのうたを聴いてくれる。いつだったか拍手をしてくれたこともあって、あの時は天から拍手が降ってきた。と驚いたものだった。
うたを歌う日は、月曜日と水曜日。月曜日はだれも足を止めたりしない駅前のロータリー脇で。水曜日はここ、駅から離れたこのカフェのある前で。一人、ギターを抱いてルカはうたを歌った。
もうすぐ、この4月で大学4年生になるから本当は就職とか卒論とか、そういったことを第一に考えなくてはいけない時期だった。むしろ少し遅いくらいでこんなことをしている余裕はない筈で。だけど歌うことを止められなくて。かといって週末の、沢山の音楽を志す人たちの激戦区である駅前で、歌う度胸はなくて。
それでもやっぱり、うたを歌いたくて。
自分のやっている事は、ただ空回っているだけのことなのだ。ということをルカは分かっていた。なんの身にもならない、ただの自己満足。
それでも。水曜日にここでうたを歌っていると、カフェの灯りが目に入ったから。このオレンジ色の灯りの中でも頑張っている人がいると思うから、ルカはここで歌うことができた。
気まぐれで足を止めてくれる人たちのいる月曜日の駅前でうたを歌うよりも、誰もいない商店街の外れのこのカフェの前でうたを歌う方が、ルカは好きだった。それは、だれもいないから気楽で良いという事ではなく。むしろ、月曜日の駅前よりも水曜日のこの場所で歌うほうが、力が入っているような気がした。
見上げた先の灯りの中にいる人に、負けたくない。って言う気持ちがほんの少しだけルカの中で芽生えていた。
なんとなく、ほんの少しだけ彼に対して勝手に好敵手のような共犯者のような仲間意識をルカは抱いていた。
だけど。ルカがどう思っていようが、他人は他人だ。女性として見知らぬ男の人の言葉にそう簡単に乗ってしまうのはどうか、という考えが頭の中をよぎる。
考え込むように顎を引いたルカの上に男の声が再び降る。
「この寒さじゃ風邪をひく。うちで休むか、それが嫌だったら早く帰ったほうがいいですよ。」
店からの灯りの為に逆光になってしまい、男の表情が読み取れない。けれど、その声の調子には何の裏もない気がした。本当に、ルカの体を心配していることが伝わってきた。
ほんの少しだけ考えて、でも結局、ルカは頷いた。お言葉に甘えてお邪魔します。とルカが言うと、男はひょい、とビルの脇を指し示した。見ると階段がある。そこから上って来いということだろう。ギターをケースに入れて背負い、荷物を持って指示通り階段を上ると、男が入り口の扉の鍵を開けてくれた。
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