水のせせらぎの音が、暗闇に覆いつくされた通路の向こう側より、微かに聞こえてくる。
いや、正確には音が頬に触れる感じで音の存在を確認できるのだろう。
その音が響き来る方向へと歩き始め、もう既に、五分ほど経っている。
それなのに、一向に音は強まる気配を見せない。
かといって、この暗闇の中を走るのは危険だろう。
いくら左右のない細い通路だとしても、手元にフラッシュライトがあるとしても、どうもこの先を急ぐ気にはなれず、俺の歩みは未だに慎重で、一歩一歩、コンクリートを踏みしめたことをゆっくり確認するような歩みだ。
何よりも、この空間自体が不気味でならない。
音もなく、光もない。
絶えず雨が降ったような土の匂いが満ち溢れ、今までとはまるで別物だ。
こんな場所に来たのは初めてだった。
俺がこうして、何もあるはずのない場所で慎重を極めているのは、未知の空間に対する恐怖心なのか、あるいは別の感情か。
そんなことを考えていると、それまで何も反射しなかったフラッシュライトの光が通路の終わりを照らした。
灰色の扉が、何もないコンクリートにただ貼り付けられたように、そこにあった。
気のせいか、水の音はそこから響くような気がする。
鉄製のドアノブに手を掛け慎重に扉を開いていくと、その瞬間、水の流れる音が強まった。
ライトで照らしながら見渡すと、扉の先は小さな小部屋で、段ボール箱が積み上げられているのが目立つ。
事務用の机や戸棚、ロッカーなど物資を保管するものが多く、ここは下水道で作業する者達の休憩所か、物資を保管する場所だろう。
扉付近を探ると、照明のスイッチがあった。
・・・・・・電気は通っているのだろうか。
押してみると、天井の蛍光灯が反応を示した。
一瞬光ったかと思うと、蛍光灯は普通に点灯し、室内を光で満たした。その一瞬が眩しく、俺は思わず目を細めた。
フラッシュライトを消し、改めて室内を見渡すと、向こう側にも扉があった。その先から、先程より水の流れが大きく感じる。
恐らく、この扉を抜ければ下水道は目の前だ。
ふと、俺は机の上に何かの機械があることに気がついた。
「・・・・・・。」
机上にある機械を、俺は手に取った。
これは光を電子的に増幅させ、暗所での視界を確保するための装置、ナイトビジョン。つまり暗視装置だ。
ここで作業をする際に使っていたのだろうか。
まるで、さっき誰かが使っていたように、机の上に放置してあったのだ。
俺はそのナイトビジョンを頭にかけ使える状態にすると、下水道へ続く扉に手を掛けた。
開くと同時に、一気に水の流れる音が俺の鼓膜に押し寄せた。
最初は頬に触れるか触れないか程度の微かな音が、今や目の前で盛大なまでに轟音を立てている。
まさしく下水道だ。
そういえば、昨日はここの地域に雨が降ったと聞いた。そのせいで流れが強いのだろう。
レーダーを確認すると、ここから北に向かって突き進めば、奥に差し掛かったところで外に出られる。
しかし、ここには電気が通っていない。
俺はナイトビジョンの電源を入れ、どうにか視界を確保することが出来た。
これはフラッシュライトより便利だが、視界が緑一色だ。正直目に痛い。
それでも見えないよりはマシか。
レーダーとナイトビジョンを頼りにしながら、俺は下水道の脇を歩き始めた。
いや、もう走り出してもいいだろう。
俺は目的地の方向へと小走りで向かった。
いままで慎重に歩いてきたから、かなり時間を消費しただろう。
そういえば、今ごろ他の皆はどうなっているのだろうか。
シックスは、人質と部下と共にヘリの発進準備を進めているようだし、後は俺が急げばいい。俺が通信連にたどり着く頃には、脱出の準備は整っているはずだ。
生存者を救出した後は、恐らく施設内に陸軍の特殊作戦部隊が突入を開始して、テロリストを全員逮捕か、射殺だ。
だが・・・・・・。
あの鈴木流史がテロリストの首謀者、ウェポンズの幹部達の送ったあのプログラム。
あれがもし本当の話で、奴らにはそのプログラムを起動させ、軍の武器兵器を操れる状態にあるとしたら・・・・・・。
そうと考えると、俺は尚更急がなければならない。
そう思い小走りから更に速度を速めたときには、下水道の脇道は途切れており、変わりに小さな鉄の扉があるだけだった。
当然の如くその扉を開け放つと、また細い通路へと導かれた。
細い通路は、進めば進むほど幅が広がっていき、通路が途絶えた頃には、空間は上空へと果てしなく広がっていた。
俺は、頭上を見上げた。
そこには、数十メートルもあろうかと見える長大な一本の梯子が、それと同じく果てしなく高い天井まで一直線に伸びていた。
これを昇るのか・・・・・・・骨が折れそうだな。
俺は梯子に手を掛け、一段一段を昇り始めた。
一歩一本を、手で強く握り、足で踏みしめる。
それを上へたどり着くまでに何十回も繰り返す。
しかし、ここまで来て肉体的疲労が現れてきたように思える。
この任務は、開始早々唐突な出来事が起こりすぎた。精神的にはかなり疲れている。
この体もまた然り、いくら筋力を助長する機能があるとはいえ、疲労を完全になくすことなど出来はしない。
だが、これを昇りきり、通信連へたどり着けば、シックス達のヘリがヘリポートまで迎えに来てくれる。それに乗りこめば一安心だ。
ヘリに乗れば、休憩することも出来るし、煙草も・・・・・・いや、セリカがいるからダメだな。とにかく体を休めることは出来る。
多分、ワラにも会えるだろうな・・・・・・ヤミと無線を繋いでやれば、彼女は喜んでくれるだろうか・・・・・・。
あと、もう一人の部下にはニキータの発射筒を返してやらねばならない。
FA-1・・・・・・。
結局彼女の正体はよく分からなかった。
恐らく、俺が施設内に潜入したときの、あのドローンの中に入っていたのだろう。
何故ボーカロイドとして歌っていた彼女が、こんな戦場に来ているのか、俺には見当もつかない。
ただ、彼女は陸軍のものと思われる装備に身を包み、網走博貴を救出することを目的としていた。
彼女と対峙したとき、俺は彼女から、様々な感情を受け取った。
それは、彼女と網走博士の関係を切に語っていたのかもしれない。だが、俺には二人の間にどんな関係があるのかなど、知る由もない。
それに、もしや彼女もヘリに同席するなんてことはないだろうな。
別に悪くはないのだが・・・・・・。
それとシックス。
俺は彼に聞きたいことがある。
彼自身の正体だ。本当は何者なのか、と言う。
部下の二人がアンドロイドだったとすると、シックス自身も、もしかしたらアンドロイドかもしれない。
それも、ヘリにたどり着けば全て分かる。
あと少しだ・・・・・・。
梯子を昇りながら想いに耽っていると、目の前で梯子は途絶えていた。
どうやら、頂上までたどり着いたようだ。
梯子から這い上がると、その先に小さな階段があり、その先には、上へ開ける扉が見える。
レーダーを見ると、ここで通路は途絶えている。
この先は屋外へ出るようだ。
俺はナイトビジョンをバックパックに納めると扉のロックを外し、上へと押し上げた。
「ッ・・・・・!」
その瞬間、眩い光が差し込み、まるで刃物で目を突かれたような感覚に囚われ、俺は目を塞いだ。
しかし徐々に目を開けていくと、その先には、鮮やかな緑色が映えている。
俺は扉から這い上がり、体を一回転させて、周りを見渡した。
ここは通信連ではない。
鮮やかな新緑の草木が生い茂り、鳥が囀り・・・・・・。
柔らかな風が頬を撫で、下水道とは逆の、新鮮な空気が香る。
ここはまさに、ジャングルだ。
しかし、こんなところへ出てしまっては、どうやって通信連へ向かえばいいのか分からない。
俺は一度少佐に連絡すべく、無線を入れた。
何気なく上空を見上げると、背の高い針葉樹の合い間に、曇り一つ無い蒼天が広がっていた。
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