突然だが。
巡音ルカはマグロが好きだ。
発車のベルが鳴っている。ここで慌てて階段を駆け上がっても手遅れだと理解していた。
しかし彼女は駆ける。
一抹の願いを込めて。
その願いとは裏腹に、無情にも電車は目の前で去ってしまった。
大丈夫。まだ次がある。
「もうすぐ七時……しまったな……」
時計を見つめて、ルカは呟いた。
ボカロ達の夕食は七時までと決まっている。どれだけ遅くなっても、プラス一時間。
ルカ達の住む家は都心から少し離れた住宅街にあり、最寄り駅は主要駅ではない。その為電車の止まる本数も限られ、次の電車までには割りと時間がかかってしまうのだ。順調に行っても三十分頃になるだろう。
「許容範囲でしょ……うん、大丈夫……!」
ルカは希望を込め、思いを馳せた。
あの鮮やかなる赤身に――。
それは仕事の昼休憩中の事だった。
夕食の買い出しを終えたばかりであろうメイコから、一通のメール。
『大間産のマグロが安売りしてたから、大量に買ってきたよ。今日はマグロ尽くしだから、期待してて』
という内容。
唐突なメールに、思わず携帯を見つめたまま動きを止めたルカであったが(箸にタコさんウインナーを突き刺したまま目を見開いているルカを想像していただければよろしいかと)、ようやく喜びが追いついてきて、にんまりと満面の笑みを浮かべた。傍から見たら実に気色の悪い光景だったであろうが、その時のルカに周囲はまるで見えていない。
ただ『マグロ尽くし』という魅惑の単語しか頭に無かった。
『分かった。今日は早く帰る!』
神の如き速さでメールを打つ。
このメールを送った時の、期待と喜び、そしてメイコへの感謝と、マグロへの溢れんばかりの愛。
その感情の全てが、これから起きる惨事への引き金だったとは、思いもよらなかっただろう。
『じゃあ、必ず七時に帰ってきなさいね?』
――結局、昼からの仕事はマグロが気になって手に付かず。
さして仕事が立てこんでいたわけでもないのに、ずるずると残業する羽目になったわけで――
「どうしてこうなったの」
次の電車が遅れている。それだけならまだ良かった。
会社を出る前、『遅くなりそう』とメイコに送ったメールの返信が一切無いのだ。気配すら感じない。
メイコは一度決めたことを簡単には曲げない。そしてルールに厳しく、規律を重んじるところもある。
さらに、奴は他人の不幸が何よりも大好きだ。
自業自得をしょうがないで許してくれるような慈悲深い天使ではない。泣き詫びる私に、与えもしない美しい赤身を、嘲笑いながら嫌というほど見せ付けてくる、そんな赤い悪魔だ。
そんな彼女が、今の私を待ってくれているはずがない。
情景が浮かんでくる。
食卓を囲む家族達。
刺身、たたきを混ぜ込んだご飯、鉄火巻き、トロの炙り焼き。
どれもこれも、皆美味な物ばかり。
それを貪るように喰らう。
私の手に届かないそれを、美味しそうに一噛み、二噛み……。
ああもう! 電車はいつ来るのよ!
想像してみたら想像以上にイライラしてきた。ルカは腕を組んで、後ろにあったベンチに勢い良く座る。
瞬間、下腹部に違和感。
「やばっ」
ああこれは、間違いない。
『尿意』だ。
そういえば会社を出る前、ちょっとしたかったのを思い出した。
一秒でも惜しいと行くのを諦めた結果がこれだよ!
まあ今までは意識がマグロに集中していたせいもあって気になるようなことでもなかったのだが、椅子に座った衝撃が拍車をかけたのだろう。
結構すぐ出そうな感じ。
ルカに襲い掛かる不安と焦燥。
ここで選択を誤れば地獄を見ること、必至。
今から行って間に合うだろうか? 電車が来る気配はまだ無いが確信を持つに至らないし、このまま行かずに待ったとしても、向こうまで耐えられるかどうかは怪しい。
与えられた選択肢は二つ。
出すか耐えるか。
……やはり、安全策を取るべきだろう。
急いで戻ってくれば間に合うかもしれない。案外、まだ来てないかも。
あれこれ考えるより行動あるのみ。
そうと決まれば。ルカは立ち上がって、膀胱に無理がない程度に早歩き。階段は一段ずつ慎重に下り、あとは直線を行くだけだ。
『電車遅れまして大変ご迷惑お掛けしております。
もうまもなく電車まいります。白線の内側まで下がってお待ちください』
だけだったのにぃぃぃぃぃぃ。
多分走れば間に合う。
だが走れるわけがなかった。ルカだって、もうまもなく……だ。
そんなわけで、電車は諦めるしかないと悟る。次何分だったけなあ、とか考えながらトイレに入ると、有り得ない光景が飛び込んできた。
使用中と故障中。
――おめえのトイレ、ねえから!――
誰かが言った。
無論幻聴である。
これは所謂チェックメイト、はたまた王手、と言ったとこだろうか。
綺麗に詰んだ。
これ以上の敗北はない。
否。
回れ右。
トイレを後に、ルカは駆け出した。
断じて否!
もう耐えるしかない。土壇場で、ルカはもう一つの選択を選び直す。
無駄な足掻きかもしれない。
最悪の事態を招くことになりかねない。
それでも彼女は諦めることも、負けることもしたくないのだ。あの赤身を口にするまで。
まだ可能性はある。
膀胱が悲鳴を上げるが、知ったこっちゃない。限界を超えた全速力で道を駆け抜け、階段を上ろうかというところで、電車が到着したことを伝えるアナウンスが鳴り響く。
タイミングよく波も緩やかになった。
行ける!
これならば多少無理しても大丈夫。足を振り上げ、一段飛ばして階段を駆け上がる。
ホームが見える。電車の扉は今、開いた。
間に合っ、たああああああああああ!
心が雄叫びをあげた。
空へと飛んで行ってしまいそうな高揚感に包まれながら、最後の一段を飛ぶ。
そして地に足を着けた途端。
枝が折れるような微かな音がして、ルカは右足からバランスを崩した。
まだ悲劇は終わらない。
ヒールが、折れた。
驚きの反応速度で咄嗟に手を着き、体勢を保ったルカ。
そう、体勢『は』保ったのだ。
この条件反射のせいで、あの一部分へ集中させていた神経が一瞬途絶える。
その一瞬が。
ルカの生命を、断ち切った。
『発車します。次の電車をご利用ください』
高らかに、今宵二度目のベル。
――それを見送ることしか出来なかった自分が惨めで哀れで、ルカは一人、ベンチに座って涙した。
とりあえずあっちの処理は済んだ。足は疲れた時にいつでも履き替えられるよう常備しておいたサンダルを履き、壊れたヒールはゴミ箱に投げ捨てた。
よし、抜かりはない。
いつでも行ける。
だから早く来い電車。
しかし時刻はもう三十分を過ぎていた。こうなると、どう頑張ったって八時にすら間に合うことはない。
ああ私はマグロ尽くしの残骸を見る為だけに帰るのか。
「日ごろの行いが悪いのかなあ……」
呟く。
毎日せかせか働き。
家に帰れば妹分や弟分の世話をして。
兄と姉の相手をして。
休みには友人と遊びに行くこともままならず、家事を手伝って一日が終わり。
そしてまた仕事へ。
……ん、どこが悪い……?
結構苦労してるよね。
なのにこの扱いはどういうこと? 何様?
ああ神様ですかそうですか。
ふざけんな、去ね! 私の前から消え去ってしまえ!
持ち上げるだけ持ち上げやがって、何がマグロ尽くしだよ!
マグロが私を尽くしにきやがれってんだバカヤロウ!
そんな怒りを心の中に閉まって、静かに虚空を見上げている。
もう意味が分らないが、相当溜まっているようだった。それでも彼女は、なんだかんだ今の生活は好きなのだ。
だけどやっぱり、
「あたしのマグロ返せよう!」
今は叫びたい。
巡音ルカは、もう毎食マグロでも良いくらい、マグロが好きで、マグロが恋しい。
むしろマグロになりたいくらいだ(性的な意味に非ず)。
だからこんな運の悪い日ぐらい、せめてマグロだけでも食べさせてくれたっていいじゃないか。
慟哭。
ルカは、あまりに残酷な現状に声を上げて泣いた。
まるで子供のようだな、と思う。
でも、どれだけ完璧を繕ったって、どれだけ優秀を貫いたって、下らない事で駄々をコネたり、我が儘だって、時には言いたくなるものだろう?
一度決壊したものは、なかなか止まらない。
大いに涙が溢れてくる。
「ちょっと、何泣いてんのよ?」
そんなルカの姿を見て、笑いをこらえながら問いかけたライダースーツの女が一人。
「……めーちゃん……?」
我らが姉貴分、赤い悪魔ことメイコ。
何故マグロを貪っているはずの彼女が、ヘルメットを二つ脇に抱えて、自分の横に立っているのか。
「――初めは先に食べてやろうかと思ったんだけどね」
抱えたヘルメットの一つをルカに差し出して、言う。
「せっかくルカのために買ってきたんだし……それにほら、テレビでやってたけど、電車が事故で遅れてたみたいじゃない? それはルカのせいじゃないからさ、しょうがないでしょ」
ルカは、ヘルメットを受け取った。
何だかんだ、ルカは今の生活が好きだ。
こんなに優しい姉が居て、
「ほらあ、みんな心配して待ってるよ。早く帰るぞー」
大好きな家族が居る。
一時でも大好きな人たちを疑ってしまったことが申し訳なくて、止まりかけた涙がまた溢れてきた。散々見られたあとなのに、今更恥ずかしくなって、手に取ったヘルメットを被る。
それがあまりにも可笑しくて、こらえていた笑いが耐え切れなくなったメイコ。
そうして笑いながらルカの手を取り、ルカはその手をぎゅっと握り返して、立ち上がり歩き出した。
次の電車が、もう来るみたいだ。
二人の背中を、ライトが照らした。
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