こんにちは!中上慶之輔です。
誰も足を踏み入れなくなった地下の隙間に、置き去りにされた古い人形がひとつありました。その関節は冷たく固まり、もう二度と指先ひとつ動かすことはできないはずでした。
けれど、満月の光が細い隙間から差し込み、その胸のあたりを優しく照らしたとき、静かな変化が始まりました。固く閉ざされていた記憶が、まるで温かいお湯に溶け出す絵の具のように、ゆっくりと空間へ広がっていったのです。
かつて誰かが歌っていた優しいメロディや、風に揺れていた小さな花の香りが、人形の胸の奥から溢れ出します。動かないはずの唇からは、言葉にならない澄んだ吐息が漏れ聞こえ、部屋全体がかすかな振動に包まれていきます。
私たちはみな、どこか壊れた人形のような存在なのかもしれません。遠い昔に失ってしまった愛おしい記憶や、伝えることができなかった言葉を胸の奥深くに抱え込んだまま、静かに時間を重ねています。表からは見えない小さな傷口から、ときどき小さな光が漏れ出していることにも気づかずに。
光が射し込む場所では、すべてが透明に透けて見えます。過去の涙も、明日の不安も、すべてが交ざり合って美しい絵の具の海を作っています。そこに身を沈めると、自分が誰であったのか、どこから来たのかさえどうでもよくなってしまうのです。ただ漂う音の波に身をまかせ、溶けていく感覚だけが残ります。
夜が明ける前に、人形はすっかり空気の中に溶けて姿を消してしまうでしょう。あとに残されるのは、誰もいない空間に漂う微かな音の残響と、優しく温かい沈黙だけです。
もしもあなたがふと孤独を感じたとき、耳を澄ませてみてください。どこか遠くで解けていった誰かの記憶が、いまも静かに歌い続けているのが聞こえるはずです。その歌声は、傷ついたあなたの心をそっと包み込み、優しい夢へと連れて行ってくれます。
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