こうして二人の交換日記が始まった。
その日起きたこと、読んだ本、考えたこと。仕事での失敗や、それについての策を講じたり。
はたから見ればおままごとのような行為だったが、がくぽもルカも楽しげに日々のことを綴った。
直接話すことは難しい。けれど言葉が足りなくて誤解されたままなのも辛い。そんな感情を冷静に処理して相手に伝えるのには、丁度いいアイテムだった。
その日が来るまでは。
その日の仕事はカイトとがくぽ、通称「ナイス」のユニットでの仕事で、いつもと違う点が一点だけあった。
それはボーカロイドたちの最も恐れる行為…。
「有名Pの集団暴走」
のタグがつくこと必至な一曲だった。
暴徒と化した有名Pたちに、ボーカロイドであるカイトとがくぽが逆らうことなどできるわけもなく、収録後そのまま飲み会に流れるのも仕方のない世界。
仲間のカイトは遠くの有名Pに囲まれいじくり倒され、がくぽも震え上がるような有名Pに囲まれ酒をただただ飲むはめになった。
「KAITO」と「がくっぽいど」に有名Pたちが求める行為はそれはそれはハードルが高く、宴が終わるころには二人共神経も肉体もすり減らし切っていた。
「がくの兄貴くっせえ!」
タクシーで帰り着いたがくぽにカルがそう叫ぶ。
「てか死人。屍人だー」
四人の家族にされるがままに自室に運ばれ、糸の切れた人形のようになっているがくぽ。
「兄貴ー。言いたくないけど明日はぐみとのデュエットがあるよー?早く寝ないとマジヤベエよー?」
「うーむー」
ぐみの敷いた布団の誘惑に本能で転がろうとして、がくぽがよろよろと呻く。
「にっきを…」
「ん?」
「日記を書くのじゃ…」
「後でいいだろバカ兄貴」
「だめじゃー。日記はその日に書かねばならぬのじゃー」
うだうだと虫のようにいざりつつがくぽがカバンをひっくり返す。
ぐみは呆れて「とっとと寝ろ」とだけ言って去ってしまった。
ルカの書いた綺麗な字が目の前でぐるぐる回っている。読んでいるのだが頭に入らない。
どうやら寿司の話をしているらしい。
御飯とおかずが一緒に食べられる寿司というのは面白い、わけて食べても美味しいのに、ひとつになることでもっと美味しく感じる、と書いてある。
「拙者も寿司食べたいでござる」
誰に言うともなしに言って、がくぽは荒れる手で机をまさぐり、筆を手にした。
ぐねぐねと文字が踊る。最後の丸をつけて、がくぽはそこで意識を無くした。
『寿司食べたいでござる。拙者もルカ殿とひとつになりたいでござる。是非させてくれると有難い』
…そんなことを書いた。
翌日、痛む頭を薬で抑えてぐみとスタジオに向かうと、ルカがいた。
「がくぽさん、大丈夫でしたか」
カイトも似たようなものらしい。がくぽは面目ないと小さく笑った。
「いや、実に良い経験をさせていただいた。それとルカ殿、今日はこのままスタジオ入りなので、これを」
「あ、はい」
いつものように紙袋を渡して、がくぽはよろよろと奥へ入っていった。
「あれでは収録が長くなりそうですわ…」
首をふってルカは紙袋をカバンに収める。
それでもきちんと日記を書いてくれたのは嬉しい。正直、昨夜のカイトの姿から今日は日記がなくても許せただろう。真面目ながくぽの姿にほんのりルカの顔も色づく。
早く帰って読みたいわ。有名Pたちのことが書かれているのかしら。
るんるんと軽やかにドアを開ける。
「有名Pの集団暴走」「ここに病院を建てよう」「ミリオン逃げて」
そんな阿鼻叫喚が踊るタグに、リロードするたび跳ね上がる再生数。カイトは笑ってそれを見ている。二日酔いで朝からアイスも食べられない有様だが、顔がほころんでしまう。
収録のときは大変だったけど、こうやって発表されるとやっぱり嬉しい。暴走のなかにある有名Pたちの信念のぶつかり合い。それに参加できた自分は幸せだ。
「カイト兄も集団暴走仲間入りだね!」
リンがにっこり笑って覗き込む。
「リンのときはどうだった?」
「リンのときはファミマの看板にまたがってペンキぶちまけたよ!」
「さすが暴走だな…」
そう笑い合っていると、廊下からけたたましい足音が響いてきた。
「ちょ、ちょ、ちょっと出かけてきます!すぐ戻ります!」
ルカが返事も聞かずに飛び出していった。
出かけると言っても行き先はお隣、インタネ家。走って三秒もかからない。
「あ、ルカさんチーす」
「こんにちはぁー」
庭で落ち葉掃きをしているらしいリリィとリュウトがルカを見つけて手を振った。
「が、が、がくぽさんはっ!?」
「にーさまなら今日はぐみねーさまとスタジオっす」
「遅くなるって言ってたよー」
「……」
そうだった。スタジオで会ったんだっけ。すっかり頭から飛んでいた。
「何かあったんすか」
「い、いえ、大丈夫、何も、何もないわ…。し、新曲素敵ね」
「あースゲエっすよねー。昨日の今日で発表とかマジありえねえっつーかいつ寝てんのっつーか…」
「ぐみおねーちゃんがねー、自分の曲の前にやられたって悔しがってたよー」
そうだろう。
あんな曲を発表されては、しばらくどんな曲を出されても霞んでしまう。
「ちょ、ちょっとそれを伝えに。し、失礼しました」
わたわたと尋常でない動きをしながら走り去るルカ。リリィとリュウトは首をかしげて目をぱちくりさせた。
「…んだぁ?」
ドキドキと高鳴って仕方のない胸を抑えて、ルカはどこにも行き場のない状態に混乱していた。
どうにかして、どうにかしたい。何とかしてでも何とかしたい。震える手で携帯を握り締める。画面に現れるがくぽのアドレスに、一瞬躊躇してメールアドレスを選択した。
『ばかっ!死ね!』
それだけ打って携帯ごと吹き飛ばすように送信した。
なんて書けばいいの。日記に。どんな顔で、どんな声で会えばいいの。そしてどう答えるのが正解なの。
そもそも何でこんなことを書いたの。私はただお寿司の話をしていただけなのに。なかでもタコが不遇なのがちょっぴり不満だと書いただけなのに。
どうしてがくぽさんはいきなりあんなことを書いて寄越すの。
それもしゃあしゃあとしたいつもの顔で。
「どうしようどうしよう。私、そんな、困る…」
道で立っていても仕方ないので家路につく。リンが不思議そうな顔をしていた。
「ご、ごめんなさい。新曲があんまりにすごくて、つい家を飛び出してしまったの」
「あははは!ルカちゃんが飛び上がるぐらいの曲だって、改めてすごいよねー」
取り繕って台所にむかうと、めいこが鼻歌を歌いながら夕飯の支度をしていた。カイトとがくぽの発表されたばかりの歌だ。さすが中毒性が高い。
「めいこさん、お手伝いします」
「ありがと」
フンフンと歌いながら上機嫌のめいこ。その横顔にルカはそっと顔を近づけた。
「あ、あのめいこさん。ご相談が」
「ん?…ってルカ、大丈夫?顔が真っ赤で真っ青で紫色よ」
頭のなかがチカチカしてめまいがしている。めいこの疑問も当然の顔をしているのだろう。
「あ、あの、ですね」
そばでは鍋がコトコトと音を立てている。
本来もっと落ち着いた場所で聞くのが正しいのかも知れない。けれど今のルカにとっては「片手間に聞いてほしい」真剣な話なのだ。
「ひ、ひ、ひ…と、つに…なるって、な、何ですか」
「え」
口に出して言ったことで、ルカは鏡を見なくても自分の顔が紅潮していることが分かった。
体中の血管が沸騰して汗が止まらない。
「そ、そう言われたら、私は、どうしたらいいですか」
「言われたの?」
正確には言われたのではなく書かれたのだが、同じことだ。ルカが真っ赤な顔でうなづいた。めいこの目が大きくひらいて、ふうっと長いため息を吐き出す。
「それは…ルカの気持ちしだいじゃない?」
「わ、私は、もう、ただびっくりして……。……無理です、私、できません」
震える手でめいこから渡された皿を洗ってしまう。何かしてないと話すことも容易ではない。
「ダメです…。そんなの、私…」
「じゃあ、そのまま伝えるしかないんじゃない?」
「でも」
「だって無理なものは無理なんでしょ?とにかく落ち着きなさいルカ」
フライパンを持ち上げて味を慣らす。めいこの目は手元から離れない。このくらいの姿勢で答えてくれるのがルカには有難かった。
「落ち着いて思いを伝えるためのアイテムがあるでしょう。今すぐ書くのは無理でも、御飯を食べてお風呂に入って、落ち着いてしっかり、自分の気持ちを整理して書けばいいわ」
「だ、だって私、どう書けばいいんですか…」
「気持ちを整理すれば言葉は出てくるわ。それを口に出すのは難しいけれど、書くことならできるって言ったのはあなたよ」
めいこがルカの手元をさえぎって笑った。
「御飯になったら呼ぶから。部屋にいなさい。ね?」
「……はい」
促されて階段を上がる。
そうだ、さっきメール送っちゃった。返信とか来たらまた落ち着くのに時間がかかってしまう。申し訳ないけど電源を切っておこう。
携帯の電源を切ってカバンに入れる。
ベッドに座ると膝の上に藤色の日記帳を置いた。
何度見ても書いてある言葉は同じ。
でも…いつもより字が汚い…。
「酔った勢いで書いたのかしら…」
だとしたら失礼な話だわ。でも。
この日記を書いてて、ルカもがくぽも徐々に自分の胸の内を明かすことに慣れてきた。面と向かっては言えないけれど、あなたが好きです。そんな言葉が言外に隠れていることもわかるようになった。
ルカの気持ちはがくぽに伝わり、伝わっていることがルカにも分かる。言葉にはできないけれど、この日記のなかでならたくさん会話できた。
だから、仮にこれが酔った勢いの言葉だとしても。
それは彼にとって「誤解されたくない本当の気持ち」なんだろう。
「………」
自分はどうだろう。ばさりとベッドに倒れこむ。ピンクの髪が放射状に広がった。
好きよ。あなたのことが大好き。それはどんな形の好きの気持ちだろう。
こうして心を伝えるだけで満足できる程度の好きなのだろうか。
自分の指先を見つめて、そこにがくぽの指先が絡まるさまを想像する。
ああ、とっても恥ずかしい。でもきっと気持ちいい。
あなたの指先が私に触れるのは、逃げ出してしまいたいくらい恥ずかしいけれど、気持ちいい。指先から腕を這い上がり、肩を抱かれる。そして、体に触れてゆく。
「…っ」
びくん、と体が跳ねる。ここに彼の指先がある。広く暖かい胸が自分の近くにある。流れる髪が自分と交わる。彼の腕が自分を抱きすくめて、それから。
あの青い瞳が自分を見る。
「だめ」
そこでルカは恥ずかしくて目を閉じた。
「……。だめ、あの目が、恥ずかしいわ」
真っ直ぐに自分を見る目。その目で見られると何もできなくなってしまう。ぶざまな自分が想像できてしまう。
触れて混じり合ってひとつになって、その時うっとりとはしたない顔をしている自分があの目にうつるのだ。
いっそ目隠しをしてもらったらどうだろう。それなら恥ずかしくない。でも失礼な申し出かも知れない。
「………」
目を閉じて思う。
嫌、ではない。ひとつになることは、たぶん望んでいる。
あなたが私を欲しいと言ってくれたなら、私だってあなたが欲しい。あなたの腕のなかに包まれるのはどれほどの幸せだろう。
「私も…ひとつになりたいわ」
確認するかのように呟く。この気持ちをどう伝えよう。
ルカは体を起こしてペンを探す。日記帳をめくって新しいページに日付を書いた。
『日記を見てから、落ち着かなくて困っています』
そんな言葉を書いた。それから意味不明なメールを送ったことを詫びて、削除するようにお願いした。
あなたが望むなら…。だめ、これでは高飛車な言い方になってしまう。あなたが望まなくても、私はあなたが好きと言わなければ。
『恥ずかしいことを白状します。私は、男性とお付き合いしたことがありません。ですから、どうしていいのか分からず、みっともないほど今、動揺しています』
そんなことは書かなくても震える文字を見れば分かることだ。そもそも、こんな前置きをしたり自分の男性経験を語ったりだなんて。それだけでも情けない。
『私はきっと、その時とても恥ずかしくなってあなたを困らせる行動を取ると思います』
これは言っておかなければなるまい。
『ですがそれは本心ではないと知ってください。私の本心は、ここにあります。お願いをさせてください。私をあまり恥ずかしがらせないでください。私はそれだけで心にもないことを叫んでしまいます。私がどんな憎まれ口を叩いても、信じないでください』
ここまで書いて、ルカはため息をついた。あとはもう手元を見ずに一気呵成に書き上げる。
『その時私が泣いて叫んで拒絶しても、あなたの思うようにしてください。あなたを傷つけることを言ったり、したりするかも知れません。でも私はあなたが嫌いでするのではありません。
私もあなたとひとつになれることは願っていました。
でも、どうしたらいいか分からないのです。だからあなたが私にしてください。私はあなたを嫌いません。でも、もしあなたが、私のうわべの言葉を間に受けて志半ばで諦めてしまったら、私はちょっぴり嫌いになります。お願いします。
神威がくぽ様。心の奥底で愛しています』
「…っくー!」
書きなぐって読み返しもしないで日記を閉じる。読み返したくない。紙袋にしまってすみに追いやる。
なによ愛してるって!バカみたい!あんなへんてこ侍に愛してるですって!
憎まれ口?もちろん言うわ。触れられたら噛み付いてやるかも知れないわ。
でも、でも。
それは違うの。誤解しないで。それだけは誤解しないで。
我ながら面倒臭い女だ。こんな女、可愛くない。彼の目が恥ずかしくて目隠ししてほしいと思うなら、私はこの口を縫い合わせてしまいたい。それならきっと、彼が言う「やまとなでしこ」とやらになれるかも知れない。
階下からめいこの声がした。
ルカは頭を強く振って、背筋を伸ばした。さあ夜ご飯だわ。食べ終わったらがくぽさんの家に行こう。こんな恥ずかしい日記、できるだけ早く手放したい。
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