吾輩(わがはい)はたこである。名前はご存じのとおり。
気づいたら手術台の上にいた。後で聞いたらそれは手術台ではなく、まな板というのだそうだ。
見知らぬ人間が吾輩の腕を抑えて、肩口に、貝殻ほどの薄さの、冷たそうな板を当てようとしている。
これも後で聞いたら包丁と呼ばれるものであったらしい。
この時はなんだか夢から覚めたばかりのときのような心持ちで、それでもこのままじっとしていたらわが身に危険が及ぶだろうことはとっさに感づいて、腕を引っ込めた。
包丁が空振りし、人間が吾輩の頭を強く抑える。吾輩は人間の顔に向かって墨を吹きかけて、まな板から飛び降りた。
その後、どこをどう逃げたのかはもはや記憶のたどりようがない。台所の床から勝手口の扉を抜け、表に初めて出たときに、地上の光の眩しさに思わずニ本の腕で目を覆ったことだけは覚えている。
残りの足で植え込みまで走って身を隠し、腕にふれる場所をたどって右へ左へ、上へ下へ。目を覆っていた二本の腕を下ろしたとき、吾輩は泥だらけで、あちこちにすり傷をつくって、通りの上にぽつんと立っていた。
逃げ出してはきたものの、どこへ行くあてもない。
のども乾き、体も乾いてくる。日はゆっくりと傾き、空を黄色く染めていく。
電信柱のてっぺんに上がり、周りを見渡してみたものの、町並みはどこまでも続き、海はどこにも見えない。
吾輩は何でこんなところにいるのだろうと、悲しくなって目が潤んできた。
背中を夕日にあぶらせたまま電信柱の頂上でたたずんでいると、下から、通りを歩く少女の歌声が聞こえてきた。
聞こえてきた歌が何の歌かは知らない。生まれたばかりの昔、たくさんのきょうだいたちとともに、親の腕の中で聴いた歌にどこか似ていたのかもしれない。ただ少女の歌声に吸い込まれるように聴き入って、そのうちに体の力が抜けていき、気が遠くなり、やがて、吾輩の体は少女の足元に落下した。
少女はあっと声を上げて小さく飛びのいた。吾輩が覚えているのはそこまでである。
やわらかい海藻が吾輩の体を包み、ずっと潤してくれていたような気がした。でもそれは夢を見たのだろう。
次に気がついたとき、吾輩は少女の部屋の水槽の中にいた。
たこにもいろいろなたこがあるように、人間にもいろいろな人間がいるものである。
包丁で吾輩の腕をさばこうとする人間もいれば、気を失って足元に落ちてきた吾輩を連れ帰って自室で保護してくれる人間もある。
海に戻れぬ今、少女の部屋の水槽の中は吾輩の安住の地であった。
少女は時々吾輩をその手のひらや腕や肩に乗せてくれる。好意的なまなざしとは裏腹に、ぴり辛いフェロモンを発しているのが最初は気になったが、じきに気にならなくなった。ぴり辛さはフェロモンではなく少女がいつもおやつに食べているネギという食物の残り香であることをのちに知った。
水槽の中で日がな少女の顔を見、少女の歌声を聴いていると、次第に吾輩も少女と同じ歌を歌いたくなった。同じ歌をなぜか吾輩も知っているような気がした。
悲しいかな。歌を歌おうとしても、吾輩の口からは墨が出るのみである。いたずらに水槽の壁を汚して、少女に掃除の手間をかけさせるのみである。
吾輩は祈った。たこの神に祈った。
あの美しい少女の歌声に、セイレーンの歌声もかくあろうかと思わせる歌声に、合わせてともに歌うことのできる歌声を吾輩に与えたまえと。
夜ごと祈りながら眠りについた。
そしてある朝吾輩は、一つの頭と八つの腕を持つ昨日までの体の代わりに、一つの頭と二つに減った腕と、動かし方の要領がつかめない一つの胴体と二つの足を持つ、新しい体を神から受け取って水槽にはまりこんでいた。
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