「珍しいね、キヨ先生が先に来てるなんて」
後ろから投げられたその声に、俺は手を振って返した。
柵越しに覗き込んだ世界は相変わらず、独りよがりで自分勝手だ。
「今日の授業、いつもより熱心にノートを書いているなと思ってたんですけど。あの理由が気になって仕方がないから、こうして先に待っていたんですよ」
「へえ。だから放課後にノート持ってこい、なんてキヨ先生にしては珍しいお願いしたんだ。そうまでしてこのノートに興味があるの?」
「興味?あれは興味なんかじゃないですよ。あなたのノートはどの教科だって、必要最低限のことだけ書かれていて文章はそんなに書かれていない。だからクラスの誰よりも授業中に目が合う」
「いつも熱い視線、サンクス!」
「茶化さないでください。今日に限って、ただの一回もあなたと目が合わなかった。だから可笑しいと思った」
おどけて見せる彼女の手からノートを掴み取る。
「やっぱりそうだ。これは何ですか?」
普段の簡潔にまとめられたページを捲っていくと、文章がぎっしりと詰め込まれているページが現れた。
そこに書き込まれていたのは、何かに向けられた仄暗い感情の羅列。
「見てわからない?」
「だから聞いてるじゃないですか。これは何の真似ですか」
「何の真似?それ、遺書のつもりだけど?…強いて言うなら人間の真似ごとかな」
『遺書』『人間の真似ごと』。彼女の口から飛び出たその言葉に、一瞬言葉を失った。
普段笑っている彼女からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
俺も人間の真似をしているだけのアンドロイドだから。
彼女が気づいて仕掛けているのかどうなのか、判断がつかない。
「先生と初めてこの屋上で会った時、私、本当は死のうとしてたんだよ。それを先生が止めたの」
彼女との始まりを思い返せば、たしかにあの時、彼女は柵に手をかけていた。
あれは身を乗り出す直前だったのかもしれない。
「何を言ってるかわからないって顔だね。…いくら探しても見つからない両親や親戚。出身地に対して感じる虚無感。年を重ねるほどに、自分自身に対して膨れ上がる違和感。その正体に気づいたら、もう私は人間の見た目をした、何かでしかないんだよ」
「そこまで自分を卑下するのはなぜです?」
「簡単な話だよ。自分の容姿も、他人に合わせることのできない性格も嫌い。生きる目的はまだ読んでない本くらいのものだったけど、それが終わればこの世に未練が無いんだよ。自分自身に意味なんてない。私、自分のことが大っ嫌いだから、私を殺すことにためらわないよ」
いつもと変わらないその笑顔が。
淡々と述べられる彼女の心情と、あまりにかけ離れている。
それとももう、自分への恨みが心を侵食したのだろうか。
「ねえ、その目、どうしたの?たかが生徒の戯言ひとつ、真剣に捉えちゃってるわけ?」
「戯言なんかじゃないでしょう。リリィさんとはいつだって本音で話をしてきたつもりですけどね。少なくとも、あなたはそうじゃなかったようだ」
「割と本音だったけどね。ここまで話したのは初めてかな。…遺書ね、書いてみたら何か変わるかと思って書いたんだ。だけどだめだった。自分の行動全てに意味を感じられないから、生に対して無頓着になったんだろうな」
誰かと他愛ない話で盛り上がること。
社会を見分けるための知識を得ること。
変わらない日常を繰り返すほど、彼女は日常を忌み嫌う。
「リリィさんの話、少しだけわかりましたよ。意味のないことを繰り返す必要性はない。削ってしまえば煩わしさは感じない。…例えば、この眼鏡だって」
そして外した眼鏡を、そのまま握りつぶした。
フレームとレンズが砕ける感触がする。
それを見て、彼女から笑顔が消えた。
「意味がないんですよ。視力は衰えてなどいないのに、それを矯正する必要はない。…意味なんて、何もないんですよ」
「キヨ先生、その手」
彼女の視線が俺の手から離れない。
自分もそこに視線を落とし、そこでようやく気づいた。
手のひらから紅を宿した液体が滴り落ちている。
「ねえ、それ、痛く…ないの?」
「痛い?…まさか。そんなわけありませんよ。だって俺は、痛みなんてものは分かりませんから」
彼女が目を見開く。
先程の俺と同じ、『何を言っているのかわからない』という表情で。
「言っておきますが何も感じないわけではないんですよ。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。俺はリリィさんが見えているし声も聞こえる。雨の匂いも分かりますし物を触ることは日常当たり前にやっています。ご飯を食べている所も見ているでしょう?」
「うん。五感の話でしょ?それが何?」
「だけどただ一つ、痛覚だけが存在しない。痛いということだけが理解できない。人は生きているから痛みを感じるんです。痛みを感じないということは、そもそも俺は生きてなんかいないってことですよ」
痛みとは、病気やけがなどで損傷した組織を修復する間、体を動かさないように警告するためにある。
それは生物が生きるために持っている本能。
だけど、生物ではない自分に痛覚なんて必要ない。
自身に与えられた『知識』はあれど、溜め込んだ自身の『経験』は実験で確認された『情報』でしかない。
痛みの経験を、死を回避するために用いる意味がないから。
今この身に流れている血液も限りなく人間に寄せられてはいるが、機械には意味がないのだ。
絶句しているのだろうかと彼女の顔を見たとき、しばらく呆然としていた彼女の口角が上がった。
そしてそのまま近づいて俺の手を取る。
白い手にまとわりつく偽物の赤色。
「ああ、すごい。先生も、私と同じなんだね」
「同じ?」
「私ももう、痛みを感じないの」
俺の手のひらをこじ開けた細い指が、濡れたガラスの破片を手に取り、片方の手首に一筋の傷をつけた。
開かれた手のひらから、呆気なく滑り落ちていく眼鏡の残骸。
「存在理由を問い続けて自身の在り方を失った時に、つらかった思いも痛みも、感じなくなったんだと思う。そんな私にそっくりの先生は、醜く歪んで哀れだよ」
彼女は俺の腕を掴んで、口元へ引き寄せる。
手首に柔らかい感触が落とされ、挑戦的な瞳が俺を見上げた。
「私は、私が嫌いなの。だから私に似ている先生のことも嫌いになる。それで終わらせるの」
「あなたが俺を嫌っても、俺はあなたの幕引きを望んではいませんよ」
「無理だよ。先生には止められない」
咄嗟に彼女を止めようとした手を引かれ、互いの距離が縮まる。
唇に当てられる指の感触。
まるで小さな子供に「言っちゃダメ」と、優しく注意するように。
それだけの動作で俺の動きを封じる。
「先生には感謝してる。私を一人の人間としてちゃんと向き合ってくれた。今なら、飛べる気がするんだ」
「リリィさん、…何をする気だ」
「行かなくちゃ。世界が私を呼んでるの」
そう言って、彼女は俺を突き飛ばし、そのまま柵の後ろへ倒れこんだ。
支えを失った身体は、濁流の渦へ放り込まれる。
体勢を立て直して柵の向こうを覗き込むと、彼女はもう手を伸ばしたって意味がないほど遠くにいた。
どうにもならないまま彼女の名前を叫んだ瞬間。
こちらに笑いかける彼女の顔が。
翼を得て、初めて空へ羽ばたいた鳥のように見えて。
彼女の身体が地面に叩きつけられる音さえも、どこか遠くの出来事のように感じていた。
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