第七章 留学
少し時間は遡る。アレンが九歳の時、イルの部屋にて。
「よう、レン」
近年はそこまで珍しい事でも無くなったのだが、本日は有能宰相の休日だった。イルとレンの休日はほぼ重なる事が無いので、更にアズリの休みとも違う日は大抵この義兄はイルの仕事を手伝ってくれている。
十年くらい前のいつかは酷く機嫌が悪かった時期もあったのだが、今イルが落ち着かないのは全く逆の理由からだった。
機嫌が良過ぎる。
穏やかで柔和な笑み、これをいつも通りという奴は仮面の表しか見えていない人間だろう。しかし今のレンはこれが地として笑っている。酒を飲みながらも嬉々としてイルの偽造署名をして行く親友の姿など、イルも片手で数えるくらいしか見たこともない。
「何かいい事あったか?」
しばらくその姿を見ていたのだが、どうにも気持ち悪くて聞いてしまった。案の定相手は目を輝かせて、よくぞ訊いてくれましたと言わんばかりの態度で口を開いた。
「少し前から、アレンの勉強している科目を分析してたんだ。時間と頻度を統計学的に計算すると、あの子は医学とか薬学より、政治とか経済の勉強が好きみたいなんだよね」
懐から紙束を取り出して、あれこれ説明しだすもイルには良く分からない。紅髪の王の二つの耳は脳味噌が沸騰しないように、理解不能な話題を脳内に送らない機能を有しているからだ。
どうして実の親が、息子の好み一つ調べるに統計学やら有意差やらの言葉を使って考えなければならないのかは知らない。が、とにかく義兄の異常に機嫌がいい原因は、アレンが将来政治家を目指しているという予測かららしい。
「そんな嬉しいか?」
アレン本人は少々勘違いしているが、レンが息子を心底可愛がっているのは近い者は皆知っている。
「これもエゴかもしれないけど、アレンには王宮に居てジンを支えて欲しいと思ったから」
僕と君みたいに。と笑う義兄に、感傷に近いものとは分かっているが共感を禁じ得なかった。
「二人が生きる間は、平和であって欲しいもんだな」
悲しい事が起こらなければいい。それこそ一生悪夢にうなされるような事だけは無いように。
「それは、僕らのこれからの努力次第だよ。特に外交と農業科学、それから軍事の強化だね」
親友の言うとおりだった。願う前に、するべき事は山ほどある。
「それもそうだな。緑の国との交渉は順調か?」
「それは外務大臣に訊いてくれないと。けど、ディーさんに任せておけば大丈夫だよ」
「農業科学は?」
宰相と同時に王立農業科学研究所の最高責任者であるレンに問うと、不敵な笑みがその端正な顔に刻まれた。
「品種改良技術は、緑の国にも絶対に負けやしないさ」
とある日の日常会話の一部分。ただほんの少し息子達の未来について語ったと言うだけのこと。
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