深見謙一が玉塚夏に出会ったのは、一年前のことだった。厳島神社、というよりも牡蠣を堪能しに行った宮島で、夏は売り子をしていた。140cmの小柄な体型。黒い長髪と細い眉。客が来ても愛想笑いさえ浮かべない彼女に、却って興味が湧いた。
 宮島の一日はあっという間だった。中国・九州旅行の計画を全て書き換えて、夏の元に通った。けれども、彼女の態度は少しも変わらない。毎日通っているから「また、いらっしゃったのね」なんて言われても可笑しくないのに、夏の悲哀に満ちた表情は張り付いたまま。
 最終日の電車が迫って、ダメ元で告白してみると、意外なことに小さな頷きが返ってきた。それからは足繁く宮島に通っている。

 ふぅと煙を 吐いて、謙一は床に転がった。
 灰皿にタバコを押し潰して、携帯でメールを確認する。新着なし。夏からは滅多に返ってこない。深夜帰りの重労働。疲労で母の料理も喉を通らない。こういうとき程恋人のメールが欲しいのに、と心の中で少しだけ愚痴を零す。
 始まって一年。また蝉が鳴き始めている。
 不満が無いと言ったら嘘だ。けれども、謙一は夏を放って置けないでいる。
 かけてみる。電話にも中々出てくれない。仕事がらか。それとも引き取った親族の影響か。
「もしもし? 夏? 俺。謙一。あのな……」
 珍しく繋がったことに喜びながらも、変わらない悲しげな声色が不安にさせる。ああ、きっとこの不安が放って置けなくしているのだろう。などと考察しても何も変わらない。
「さて、明日、朝早いから、もう寝るな? ……おう、またな」
 15分の通話はあっという間に終わった。今までの電話で度々携帯越しに怒鳴り声を聞いたから、15分が限界だというのが暗黙の了解。しわがれた女の声。お義母さんの声かそれとも義祖母の声か。会うときも二人の 機嫌をいつも気にしていた。「はぁ」
 謙一の口から思わず溜め息が漏れる。
 その晩の寝心地は随分と悪かった。

 窓越しに住宅地が流れていく。
 長い目で見れば、ここ100年の交通と経済の発達は素晴らしい。数千年の間徒歩三ヶ月だった東京広島間を、たった一晩寝てれば移動出来るようにしたのだから、見事なものである。お陰で、謙一は二日間の休みさえあれば宮島に通うことができ、今日もフェリー乗り場まで路面電車に揺られている。
 広島市が流れていく。初めて訪れたとき、ここは心弾む街だった。けれども今は、夏の晴れない声色に、胸が塞がっている。
 窓越しに牡蠣や海苔の養殖場が流れていく。
 どうしようか。どうやって連れ出そうか。
 思う間に、終点のアナウンスが流れる。
 広島に渡ってくる人の方が遥かに多い月曜朝のフェリー。時々見覚えのある人がいるのは、多くが宮島で小売をやっている 人達だからで、謙一はそれが分かる程には宮島に通っていた。けれども。
「夏……?」
 彼女が本土に渡ってきているのは、初めてだった。
 夜行バスが予定より早く着いたからか、いるはずのない謙一に、夏は目を見開いて。それから、どうすれば良いか分からず、きょろきょろと視線をさまよわせる。
「夏、どうした?」
 謙一が駆け寄ってもどうすれば良いか分からないままの様相で、夏の頭に手を乗せると、彼女の瞳からじわっと涙が溢れた。抱き寄せると、夏は謙一にしがみついて声なく泣いた。謙一は何も訊かず、夏の頭を優しく優しく、何度も撫でた。

 二人は、静かに宮島へと渡った。初めて涙を見せた夏は、いつもの悲しげな表情に戻っていた。
 宮島は随分と晴れている。心が晴れ渡って いたあの出逢いの一週間、宮島は霧に包まれていた。今日、二人の気持ちは塞がっているのに、宮島は嫌に澄み渡っている。加えて、鹿は悩み一つ無いように、今日も市街地で悠々自適に寝転がっている。厳島の宗像三女神の計らいが、憎たらしい。
 月曜の宮島は随分と静かである。外国人観光客がまばらにいるばかり。日本のご老人はまだ姿を見せていない。ちらりほらり黒スーツ姿の営業マンも見かける。二人は一本裏の小道に入ると、急にひと気が無くなって島民向けの飲み屋が顔を覗かせる。あるいは、とろけるアイスを売る隠れ名店や今時風の洒落た酒屋が支度を始めている。
 時間を待っていつもの喫茶店に入る。
「あら、いらっしゃい」
 いつものうるさい婦人が出迎える。夏の表情を見て。
「あらー? なっちゃん、いつにもまして眉間にシワが寄ってるじゃない?」
 謙一は、ははっと苦笑いで聞き流してテーブル席に座る。俯く夏を静かに見つめた。今まで以上の悲哀さ。どうしてやれば良いか分からない。もうずっとどうすれば良いか分からないでいる。親族とも仲が良く親とは未だに買い物に行く俺が何をしたら、何を言ったら。家族に恵まれなかった夏の心を分かってやれるのか。謙一は答えを見つけられないでいる。
「はい、お待ちどう様」
 コーヒーと共に、喫茶店おばさんがやってくる。
「ほんと、なっちゃん、どうしちゃったの?」
 もちろん夏は答えない。「高野さんは疲れるわよね」と続ける。夏を引き取っている家のお義母さんのことである。どうやら悪評は巷の噂らしい。
 喫茶店おばさんの会話が続く。高野家の今までの話をしていたようだが、ふさがった謙一の心には入ってこなかった。
 さてそろそろ行こうか、と席を立ったところで、喫茶店おばさんは良く分からないことを言い出した。
「このまま、謙一ちゃんの家に帰ればいいじゃない」
「え……?」
 謙一は理解できずにきょとんとした。
「いいわねいいわね! そうしましょう!」
 おばさんは一人早合点。あーだこーだと盛り上がる。
 謙一は、眉間に皺を寄せて理解を必死に手繰り寄せようとする。貼り付いた困惑をなんとか押しやって口を開く。
「無断で連れていったら、おかあさんに嫌われてしまいますよ?」
「あら、けんちゃんのお母さんはお堅い方なのね」
「俺のじゃなくて、夏のお義母さんです」
「あら?」
 今度は喫茶店おばさんが、きょとんとしてしまった。何かおかしなことを言っただろうか。ゆっくりと振り向いた夏の顔にも、謙一と同じ疑問が塗り重ねられている。
 おばさんは驚きの表情のまま目をぱちくりとさせて、それからぽつりと答えた。
「なっちゃんを苛めてばかりの高野さんなんてどうでもいいじゃない?」
「ああー……」
「なっちゃんももう二十歳を越えているんだから、高野さんに従う必要なんてないでしょ?」
 妙に納得してしまった。と同時に、今まで何をそんなに悩んでまで連れ出す口実を考えていたんだろう、とバカらしくなる。自分に対する落胆の溜め息を一つ吐いて、コーヒー代を机にポンと置き。
後は早かった。
「夏、行くか」
「え…………え、え、え」
 言うが早いか、夏の手を引いて席を立った。
 カランカランというドアベルの音と、いってらっしゃいというおばさんの声。船に乗り、電車に乗り、6時間後には、新幹線のアナウンスが東京駅を叫んでいた。

家の門前で、謙一は立ち尽くした。
 親はどんな顔をするんだ? 連れて帰るメールをしていない。どころか、恋人がいることさえ伝えていない。どころかどころか、生まれてこの方恋バナをしたこともない。
 すーっと深く息を吸い込む。静かに胸をなで下ろす。心を落ち着かせて。心を落ち着かせて。心を落ち着かせて。心を落ち着かせて。心を落ち着かせて。心を落ち着かせて。心を落ち。
 ガチャリ。
 嫌な音が鳴った。
 息はまだ吐いてない。心は落ち着いていない。ゆっくりと戸が開く。光の筋が生まれる。
 息はまだ吐いてない。心臓が暴れる。戸は随分ゆっくりと動いている。光の筋が帯に変わる。
 息はまだ。
「謙一? 速かったわね、え?」
 後ろに立つ少女を見つけて、お母さんの瞳が見開かれる。それから驚きのけぞって。
「え、え、謙一、その子、は、え、おの、あの、彼女さん、あら、え、と、こんにちは、あ、いえ、こんばんは?」
 ああ、それからは大慌て。ビールだ出前だ、と祝いから始まって終いには、赤飯だ慶弔休暇だ、と訳の分からないことまで溢れ出た。その夜は、酔いの勢いに任せてうるさく過ぎていった。

 窓越しに住宅地が流れていく。
 付き合いだしてから一年半が過ぎた。
 夏はあの日の翌晩、夜行バスで帰っていった。慌てはしたが、お母さんは夏を受け入れた。 話を聴いて、いつでもこの家に越してきていいと言った。夜行バス乗り場での別れ際、夏は、初めて笑顔を見せた。
 思う間に、終点のアナウンスが流れる。ひと気の少ない早朝のフェリー乗り場。
 帰ってからこっぴどく怒られて仕事も増えたそうで、最近は会える時間が短くなった。「仕方ないよね」と笑いあったが、そろそろ我慢の限界だ。今日は結婚話でもしてみようか。
 エンジン音と共に船が動く。牡蠣や海苔の養殖場が流れていく。潮の味と湿った風。遠くでは電車の走る音。
 謙一は目的の島を見つめる。白みがかった港と社。色を淡くされた深緑の弥山。今日も宮島は霧を羽織っている。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • 作者の氏名を表示して下さい

霧の宮島

五月の広島・宮島旅行を元に書きました。
いつもの私の作品と違って、ちょいとストーリーを重視してるかも。

今後も旅行を元にした旅行記や小説をあげる予定です。



「女画家」はもうしばしお待ちを><

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投稿日:2016/07/17 22:24:08

文字数:3,724文字

カテゴリ:小説

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