懐かしかった。
与えられたのは、今までの日常と全く違った生活。勿論色々なものが集まる都会は目新しいものばかりで、面白いことも興味をそそられることも沢山あった。
ただ、そのどれ一つとして心に辿り着かない。その前に霞になって消えてしまう。

原因は分かっていた。
それは生家を離れたときからずっと付き纏っていたものだ。記憶と同じように時が経てば薄れるものだと思っていたけれど、そうじゃなかったんだ。

ああ。

たった二年離れていただけだっていうのに、なんでこんなに堪らない気持ちになるんだろう。





<私的Dog Day Afternoon 中>





「何と言うか、リン、全てが予想通りなんだけど」
「くぅ、帽子くらい被ってくれば良かったなあ…」

目が用を成さない。視界が勝手にホワイトアウトしていく。これってもしかして、目が紫外線で焼けているってことなんだろうか。
時折吹く風が空気を動かし、辛うじて頭が茹で上がるのを阻止している。
金髪で良かった…濃い色の髪だとこのとんでもない日差しを保温してしまう訳で。そうなったらあっという間に頭が沸騰するのは間違いない。

「…あちー」
「うん、もう融解する…でも、都心はここより暑いんだよね?耐性とか出来てないの?」
「たった二年でできるか、そんなもん!つか、出来てほしくないなそれ。悲しい」

リンに引っ張られる形で俺が歩いているのは、歩き慣れた雑木林。家の裏に面したそこは俺達の小さい頃からの遊び場だ。
実は誰の土地だか知らないんだけど…これ、不法侵入になったりするんだろうか。だったらもう言い訳が利かないくらい探険して回ってしまっている。
ま、いいか。その時はその時だ。

「でも木が沢山あるのと助かるな。多少は太陽を凌げる」

微かに緑を帯びた木陰は適度に体感温度を下げてくれる。この辺りでは大体どの家も家周りに木を植えているけど、確か暑さ寒さを防ぐのが目的だったはず。まあ、母さんの受け売りだから実際の理由は違うのかもしれないけど。

「これで山の中とかみたいに空気まで涼しければ避暑地としては最高なのにね」
「つか、ここって勝手に入っていいの?」
「んー、あれだよ、ばれなきゃいいんだよ」
「おおう、この世の真理だ。下手すりゃ犯罪だけど」
「そしたらレンも共犯だね」
「そりゃそうだ」
「それでいいんだ…あ、レン」

不意にリンが首を巡らせる。
促されてその視線を追うと、そこには唐突に開けた空き地が広がっていた。
切り株や土を掘り返した跡もあるし、明らかに人工的な場所だ。

…あれ、こんなところあったっけ?

頭の中に疑問符が浮かぶ。俺の記憶が正しいならこんな空き地はなかった筈だ。つまり、ここはつい最近こうなった、ということだろう。

「ここ、覚えてる?露草が沢山生えてたところ」
「覚えてる。よく染め物したよな。紙とか持ってきて」
「うん。二ヶ月くらい前にこうなって」
「…そっか」

自ずと厳粛な気分になって、拓かれたその場所に目を注ぐ。
群生した露草の青い絨毯がこの場所に敷かれることがもうないのだと考えると、なんだか理不尽なような気もする。
朝咲き、すぐに萎れてしまう露草。その儚さは朝顔とかと少し似ている。
さく、さく、とリンの足が草を踏み分けていく。
その音で我に返った俺は、その場所から何とか視線を外し、更に林の奥へと歩いていくリンの後を追った。すぐに林が切れ、また直射日光のあたるアスファルトの上を歩くことになる。

「そういえば」

自然と口数が少なくなった俺達。
その中で、リンはぽつんと口にした。

「学校どう?進学校って聞いたけど、楽しい?厳しい?」

多分、何の他意もない質問なんだろう。
でも俺は、反射的に一瞬口ごもった。
素直に言うべきか、当たり障りのないように言うべきか、迷う。だってこれは俺の気分だけの問題だし、そんな事をわざわざ言うのはうん、なんだかんだで恥ずかしいし。
ちらり、とリンを見る。
答えを待っているのかいないのか、リンの視線は前を向いている。その鼻歌混じりの態度がいかにもリンらしい。
…あんまり重く考えないでもいいのかも。どうせ俺とリンの仲だし、考えを隠しておく必要も飾る必要もない。

「楽しくも厳しくもない、かな」

結局、俺はそう答えた。

「皆と仲良くは出来るんだけど、どうも居心地が悪いっていうか、不安っていうか。ここが本当に俺の居ていい所なのか分からなくて」
「レンって意外と怖がりだよね。寒い日に、凍えるのが怖いから家の中から出たがらないみたいな感じ」
「…そうかも」

確かに、それと似ている。
全然知らない世界は、ちょっと怖い。特に何の依り所もなく知らない場所にぽいっと放り出されると、どうしたら良いのか分からなくなる。
今の俺の生活で出会うのは、無表情なコンクリート作りの町並みと丁寧に整備された花壇。
そりゃ、見てて気分の悪いものじゃないけど、そればっかりだとなんだか違和感を感じてしまう。作りものっぽいっていうか。

「そうなんだ。向こうでの生活が楽しくて、こっちでの事を忘れちゃったのかと思ってた」
「い、いや…それはない…かな」

歯切れの良くない口調になってしまうのは、ごまかしが入っているのだと知っているから。
考えないといけないことや覚えるべき事が多すぎて、記憶を辿る暇がない。そこに映された風景に接する機会だってない。だから、記憶の劣化の速さはこっちにいた時より格段に速くなっている。
忘れたくないのに。

なのに、どうして。

「…あ」

ふと俺は声を漏らした。
そこにあったのは立派な邸宅。これもまた―――記憶になかった。

「ここ…」
「うん、ここは『レンの木』と『リンの木』があった所」
「…そんな」

小さな木が二本生えていた、広い空き地だった。そっくりの木だったから、小さかった俺とリンが名前を付けた―――自分の名前を。
勝手に付けた名前だったけど、だからこそ愛着があった。なのに。
リンの顔を見る。
途方にくれたような感覚が湧き出してきて、俺の心を占拠する。
あんなに懐かしく思い出した場所の筈なのに、その記憶の中心を形作るものがこんなに消えているなんて。…全然知らなかった。

―――どうしたらいいんだ。

そんな俺の顔を見て、リンは小さく笑う。
その表情を見て、気付いた。

「ここも、こうなったのは一年前くらいだったかな。あ、そういえば中学校の先生達も半分くらい転勤しちゃったんだよ」
「…リン」
「駅前公園も壊されちゃうみたいだし。砂場に埋めておいたあの箱、もう取り出せないね」
「リン!」

飽くまで世間話をするようなリンの口調。
でも、気付いた。―――回る場所も口にする話題も、全部ちゃんと選ばれている。
なくしたものの話だけをしているんだ。

「何考えてるんだよ…!?」

自分の声が険を帯びているのが分かったけれど、どうしようもない。胸の中をぐるぐると回るのは粘性の感情。氷を当てられたような冷たさと熱で炙られたような痛みがぐちゃりと混ざり合って、頭の中の怒りを司る部分を刺激する。
過剰反応している自分を感じる。

だって―――なくすのは、怖いから。
自分を作る足場が崩れてしまうような不安感。それが溢れて止められない。

リンは一体何がしたいんだ。こんな所ばっかり連れ回して。
俺への意地悪なのか?
でも、だからって、こんな…

「レン、もしかして、辛い?」
「…当たり前だろ!?」

大切な日々だった。
今やそれを思い出す暇さえ殆どない。そしていつの間にか失っていく。それが嫌でないわけがない。
思い出さない記憶は、薄れて消える。
それはつまり、かつて確かにあった温かな世界―――いつでも帰れるんだと思っていたそこが消えていくのを、目の当たりにしているという事と同じなんだから。
なのにこのリンの行動…わざわざ俺の傷を刔るようものだ。
この行為は俺の心に、もう失った記憶を取り戻すための手掛かりさえも失われ始めているんだ、と刻み付ける。
俺がどれだけ願おうと、離れてしまった俺の手からは確実に奪われていくものがあって、それはどうしようもないんだと。

立ち尽くしたままの俺達に、遮るもののない直射日光が容赦なく降り注ぐ。
蝉の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
暑い。頭がぼうっとして、飽和してしまう。
ぽたりと俺の落とした影に吸い込まれたのは、汗か、それとも…

唇を噛んだ俺に、リンは少しだけ涼しいものを感じさせる笑顔を向けた。
淋しさ。悲しさ。
そういった何かが滲み出し、ほんのひとかけだけ空気に溶けて空の青さを増す。

「レン」

もう一度リンが俺の手首を掴む。
少し体温の高い掌、でも不思議な事に、掴まれたことに不快感は感じなかった。
こんなに暑い最中だっていうのに…どうして。

「言ったよね。文句もツッコミも、後でちゃんと聞くよ、って。だから、あと少しだけ…」

最後まで言い切らずに、リンはまた歩き出す。
そのままアスファルトの道路を歩いていくのか、と、思いきや―――

「おい!」



リンはいきなり道の脇の向日葵畑に飛び込んで、そのまま走り出した。



当然、手を掴まれたままの俺も自然に駆け出すことになる。
顔や体に向日葵の大きくてしっかりした葉が次々にぶつかるのを感じる。

「リン、待て!これはさすがに」

まずい、と言おうとしたのと全く同じタイミングで手首を掴んでいた手が離された。

―――はいっ!?

勢いが殺せず倒れそうになるのをなんとか踏み止まり、起伏の激しい土の上でバランスを取る。
何事だ、と顔を上げた俺に、リンは悪戯っぽい笑顔を向けた。

「レン!追いついてみて!」
「え!?」
「じゃなきゃ文句受け付けるの止めるから!」

ぎょっとして問い返そうとしたけれど、当然の如くリンはそれを待ってはくれなかった。
目と鼻の先にあった金髪が翻り、俺に背中を向ける形で向日葵畑の中を頓着せずに突っ切っていく。花にぶつかってダメにするような事がないあたり、何となくプロの技を感じる。何熟練してんだお前!
あの言葉に乗って後を追えば、俺もリンを咎められない立場に立つことになってしまう。

だけど…

「くっ、…行くしかない、か!」

覚悟を決めて、俺は土を蹴った。
別に何の制約もないんだから、リンを追わずに済ませることだって出来た。知らん顔をすればそれで終わる。
でも何故かその時は、追い掛ける以外の選択肢を選ぶ気にはならなかった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

私的Dog Day Afternoon 中

いや、上下で終わるはずだったんですけどね…
今日も暖かかったので、「まだいける!手遅れじゃない!」と思ってUPしました。駄目だこいつ、早くなんとかしないと…
とりあえず、下も骨格はできているのでそう掛からないと思います。

閲覧数:915

投稿日:2010/10/02 20:34:27

文字数:4,333文字

カテゴリ:小説

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  • 翔破

    翔破

    コメントのお返し

    いらっしゃいませ!読んで下さってありがとうございます。
    爽やかな感じ…おおお、それが伝わっているなら凄く嬉しいです!
    この曲、ご存じでなければぜひ聞いてみてください。ご存じであれば、お褒めの言葉ありがとうございます…!

    2010/10/03 21:37:49

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