わたしは彷徨う。



 息が切れる。水分を摂ろうにもペットボトルの水は随分前に空になった。湿気を無くした喉が息をする度に痛い。

「はあ、はあ。……っは」

 今日は一日歩き詰めだ。気を抜くと簡単に足を取られる。さっきから足はもう言うことを聞かなくて、力が入っているのかいないのか分からない。

 下生えに隠れた石や浮き出た木の根は幾度もメイコをよろめかせた。ここまで何度転んだだろう。もう服は泥だらけ。加え、汗でべったりと肌にくっついている。ヒールの高くはないパンプスは、辛うじて履いているが、泥にまみれて歩くたびにぐしょぐしょ嫌な音が鳴る。もちろん山歩き用じゃない。ましてやウォーキング用でもないので、一時間も歩くと簡単にメイコの皮膚を剥いた。今では踵を無残にも潰された格好になっている。数度履いただけのおしゃれな丸っこいフォルムのパンプスはさながら遊び尽くされたおもちゃのようだ。

 山を歩くのって大変なんだ……。

 息をついて、見上げた。色づいた葉を蓄えた大きなブナの木が梢を伸ばし、広げている。その狭間から見える空は紫色。日はすでに顔を隠していた。東から薄い三日月が昇っているが、ナラの葉枝に隠されてメイコには見えていない。だが、空の色からもうすぐ夜が来ることだけは理解していた。

 どうしよう……。

 山の名前はとうに忘れた。標高自体はそれほどなく、登山というよりも整備された道で手軽にハイキングを楽しむのに最適な山だ。メイコがこの山に入ったのも、ハイキングコースと看板が立てられ歩きやすく整備された山道からだった。平日なだけあって歩いているのは中高年の方がほとんどで人数もそれほどおらず、山道ですれ違ったのはたった四人、二組の老夫婦だけでメイコの前後を歩く人はいなかった。完全に、一人になれた。

 登山中級者が目指す絶景ポイント。メイコはそこを目指していた。山頂付近の突き出た崖からの写真をネットで見つけ、メイコはその景色に引き込まれた。一面の緑。山の稜線は滑らかで川の流れのようだと思った。写真が取られたのは八月の上旬。葉が落ちる晩秋の今なら、紅葉が素晴らしいはず。メイコはそれが見たかった。

 歩いては休み、歩いては休み。ずっとそれの繰り返し。メイコはどさりと座り込んだ。湿気を含んだ落葉が冷たい。もう自分が向かっている方向も分からない。ただ上に上に進んでいるだけ。帰りの道なんて始めから覚えてないし、生憎、地図は途中で落としてしまった。

 メイコは大きく息を吐いた。そして、声を出さずに数を数え始める。

 一、二、三、四、五……。

 ちょうど六十まで数え終わるとメイコは立ち上がり再度歩きだした。傾斜はそれほどないが疲労で一歩踏み出すのも辛い。五歩。たった五歩歩いてメイコは止まり、幹に手をついた。唸り、小さく地団太を踏む。メイコにとっては精一杯の地団太だが、その足はほとんど地面から離れていない。

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小説版「ステュクスの水」1

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投稿日:2010/01/13 14:04:11

文字数:1,221文字

カテゴリ:小説

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