姉と弟
外から響く音が徐々に小さくなる。体が揺らされ、リンはふと我に返った。
ああ。着いたんだ……。
王都に到着したと知らせる声がする。なら降りないといけない。そして早く王宮へ帰らないと。
近いはずの御者の声を遠くに聞き、リンは夢心地のままのろのろと馬車を降りる。後ろの乗客から文句を言われた気がするが、おぼつかない頭では謝罪も湧いてこない。
とにかく王宮へ。レンの元へ。はっきりしない意識でそれだけを頼りに、リンは俯いて碌に前を見ずに歩き出した。
あの時。安らかな顔で眠るカイトの傍を離れたのは、涙が枯れるまで泣いた後だ。振り返ってみれば、彼を刺そうとしてから立ち去るまでよく誰にも見つからずに済んだと思う。
血の海から逃げた足で港へ向かい、黄の国へ出航する船に乗り込んで青の国を発った。後で知ったが、その船は一日の最後に運航される便だったらしい。しかも直後に黄の国騎士団が攻め込み、大陸と島の行き交いに規制をかけた。すんでの所で戻って来られたのは運が良かったとしか言いようがない。
黄の国の港町に到着し、すぐ馬車便を使って王都へ帰るつもりだった。しかし出陣寸前の騎士団が逗留しており、迂闊に動けば彼らに発見される可能性があった。騎士団が出立するのを待つ為、そして知り合いに見つからないよう町の片隅に身を潜めていた。
もう一つの家族、キヨテル一家の元に立ち寄る気は最初から無かった。帰ってしまえばきっと、温かい居場所と自分の所業の落差に耐えられなくなる。
幸い鉢合わせる事も無いまま騎士団は港町を出発し、顔見知りに会う事も無く一日を過ごした後、朝一の馬車便に乗り込んだのが今日。何かと不都合は起きたが無事に王都へ帰還出来た。
もしかしたらカイトが守ってくれたのかもしれない。そう考えるのは虫が良すぎるだろうか。
自問自答を繰り返す内に王宮が迫り、リンは陰りのある目で正門を見据えた。
騎士団が丸ごといなくなった影響か、数日ぶりの王宮はいつもより閑散としていた。
だけど何故だろう。原因を尋ねるのに躊躇をしてしまうような、まるで喪に服しているような薄暗い雰囲気も感じる。
レンは自室か。それとも玉座の間か。どちらに行けば会えるかと考えていると、前方から駆け足の音が聞こえて来た。自分には関係ないと判断した途端に声をかけられる。
「リンベル!」
疲労が溜まっているのか、誰を呼んでいるのか全く気が付かなかった。一瞬遅れて顔を上げる。金色の長い髪が視界に映り、蒼に囲まれた黒の瞳と目が合う。
「リリィ」
先輩に短く返事をしたが、何を話せばいいのか分からず混乱する。まずは無断で仕事を休んだ事を謝るべきだとは思いはするものの、焦る気持ちと裏腹に言葉が上手く出て来ない。
リリィは顔を険しくして声を張る。
「連絡も無しにいなくなるとか何考えてんの! レン様の侍女って自覚が足りないんじゃない!?」
叱責を受けたリンはびくりと肩を震わせる。事情があったにせよ勝手に何日も姿を消していたのは事実だ。リリィが怒るのは当然とはいえ、やはり叱られるのはかなりこたえる。
言い訳もせずに体を縮こませるリンを見下ろし、リリィは厳しい表情をふっと緩めた。
「ってホントは言わなきゃいけないんだろうけどね」
先程とは打って変わった柔らかい口調。リンが恐る恐る仰ぎ見ると、リリィが温かな頬笑みを浮かべていた。
「やむをえない理由があったんでしょ。……おかえり」
迷惑をかけたのは間違いないのに心配してくれていた。その気持ちが申し訳なくとも嬉しくもあり、リンはすんなりと言う事が出来た。
「……ただいま。それから、ごめんなさい」
自分にはまだ帰る所があって、待ってくれる人もいる。居場所がちゃんとあると痛感して話しかけようとしたら、目の前にリリィはいなかった。
「ちょっ、え!?」
どこに行ったのかと慌てると、両肩に手を当てられる感触がした。思わず振り返った視線の先にはリリィ。ほんの少し目を離した隙に背中側へ回っていたようだ。
「いつの間に!?」
驚きを隠せないリンを無視してリリィは喋る。
「まあ色々話はあるだろうけど、まずはレン様へ顔を見せて来なよ」
帰ったら王子の所へ来るように伝えてくれと頼まれたと説明し、リンの肩に手を置いたまま腕を伸ばす。
「誰よりも心配してたから早く行ってあげて。と言うか行け」
後ろから押されたリンは強制的に足を前へ出し、二人は縦に並んで廊下を歩く。真っ先にレンの所へ行くと決めてはいたが、リリィに半ば強引に連れていかれる形になったリンは戸惑いを露わにする。
「分かってる。分かってるから押さないでー!」
第三者から見ればじゃれ合っているようにしか思えない状態で、メイド二人は王子の元へ足を進めた。
レンは自室にいると聞かされ、リンは王子の私室へと向かう。途中で横に並び直したリリィに王宮の重い空気について尋ねると、歯切れの悪い答えが戻って来た。
「あーそれは……。そっか、リンベルいなかったもんね……」
知らないのは当たり前かとリリィは呟き、曖昧な表情の横顔をリンに見せる。
「あたしが話しても問題ないだろうけど、レン様はリンベルに直接話さないと嫌だと思う。もしレン様から何も言われなかったら後で説明するよ」
隠す気は無いが話すのを渋っている。たった数日の間に何が起こったのか気になるが、リンはリリィを問い詰めなかった。
「いない間に起こった事も話すだろうけど、多分何日も無断欠勤したお叱りもあるよ」
あ。とリンは息を飲む。そうだ。王宮の変化の前に心配するべきなのは、無断で仕事を休んでいた自分の身についてだ。メイドを解雇されても文句は言えない。
「クビかなぁ……」
「そこまではないと思うけど、減給くらいは覚悟しといた方がいいよ」
目的地に到着した二人は足を止める。リリィはドアをノックし、緊張して鼓動を激しくするリンへ目線を送った。
「入りなよ」
促されたリンは僅かに体を引く。入室するのに迷いを覚えた心が表に出たのだ。だがレンに会わなければ何にも進展しないと自分を鼓舞し、背筋を伸ばして王子の私室へ踏み入った。
静まりかえった部屋では丁寧に閉めたドアの音も大きく聞こえる。正面で執務椅子に座っているレンが目に入った。離れていたのはたった数日のはずなのに、どうしてか年単位で会わなかったような錯覚がする。
「王子……」
無意識に呼ぶ。レンがいつもと違う風に見えるのは気のせいだろうか。雰囲気に影が差しているように感じられる。
「おかえり」
笑顔も弱々しい。無理をしないで欲しいと言うよりも早くレンは立ち上がり、机を避けてこちらへ歩み寄って来た。間近に迫った顔の色は良くない。両目の下にある隈は、きちんと休息を取れていないのを知らせていた。今この瞬間に倒れてもおかしくない。
休まれて下さい。そう言おうとして口を開きかけた時、レンに抱きしめられた。
「王子!? 何を……、放して下さい……」
突然の行動に仰天したリンが抗議するが、レンは腕を緩めない。絶対に放さないと言わんばかりに抱擁され、リンは抵抗するのを諦めた。そのまま身を任せてレンの体温を感じ取る。
「ごめん……。ごめんな、リン」
心臓が止まるかと思った。レンは今確かにリンと呼んだ。これまで使っていた偽名ではなく、隠し続けていた本名の方で。
本心を告げたくて唇が震える。昔と同じように弟を呼びたい。けれど、レンの姉である事を認める訳にはいかなかった。
リンは感情を強引に抑えて真逆の言葉を絞り出す。
「違います。私は……」
「違わない!」
否定を即座に打ち消され、肯定もしないで口をつぐむ。どうすればいいのかと迷って黙り込んでいると、感情を押し殺した声が聞こえた。
「ずっと呼びたかったよ。姉様……」
「まさか、気付いていたんですか?」
黄の国王女リンは三年前の大火災に巻き込まれて死んだ。レンにそう思わせる為、今までリンベルという一介のメイドとして接してきた。スティーブにばれたのは自分の不注意ではあったけれど、それまでは周囲に発覚してはいなかったはず。
でも、レンは始めから気付いていた? リンベルがリンであるのを踏まえた上で、知らないふりをしてくれていた?
「気付かなかった訳ないだろ。分からなかった訳ないだろ」
ようやく抱擁を解かれたリンは王子の顔を見つめる。レンは涙を流していなかったが、リンには滂沱して大泣きしているように思えた。
「だってさ、俺達は双子じゃないか。リン」
目の奥が熱くなる。本当の気持ちを誤魔化すのはもう無理だった。
「レ、ン……っ」
リンはしゃくり上げながら弟を呼ぶ。頷いたレンは再び姉を抱きしめ、あやすようにリンの背を優しく叩く。
「昔と逆になったね」
父と母が亡くなり絶望に浸っていた頃は、レンがリンに縋りついていた。六年経った現在、泣いている姉を弟が宥めている。
「そう、だね……」
リンは敬語を使わずに返す。久しぶりにレンと対等に話せている。これは夢じゃない。
「生きていてくれてありがとう」
感謝を伝えられた黄の国王女は、嬉し涙を溢れさせていた。
「そっか。本当、本当に危ない所だったんだな……」
あの大火災からどうやって生き延びたのか。泣き止んで落ち着いたリンと向かい合い、事情を聞いたレンは感慨深く呟いた。
「うん。その人に拾われてからは北の港町で過ごしてた。だから貧民街の火災も全然知らなくて」
この前王都に来た時に初めて知った。話をしていてある事に考えが至り、リンは続けようとした言葉を飲み込む。思い出さなかったとしても、何かを言いたげなレンの顔を見て説明を止めていた。
「レン?」
「火事……。その事も含めて全部話さなきゃな」
レンは天井を仰いで一息吐き、リンに顔を戻す。
「あの火事、実は……」
「宰相スティーブが命じて火をかけた。貧民街にいるはずの私を殺す為に。大勢の人達が巻き込まれた不幸な事故という形にすれば、疑う人間はいないから」
「なっ……、知ってたのか!?」
驚愕に目を見開いたレンは声を上げ、リンは首を縦に振る。
「ならそこは省こう。スティーブ一派の貴族連中は大火災に関与していた」
レンは一気に話さず、区切りを入れて続けた。
「罪はそれだけじゃない。あいつらは王子の暗殺まで企んで実行に移していた。……全部未遂にしてやったけどな」
そうか、とリンは納得する。おそらくレンはこの六年間で何度も実戦を重ね、幾度の死線を越えて来た。皮肉にも貴族達の反逆行為がレンに経験を積ませ、戦いに慣れさせたのだ。
「大火災の関与ならびに王子の暗殺未遂。どちらも重罪だ。……だから連中は全員処刑した」
力なく語ったレンは両手を軽く持ち上げる。
「宰相は俺がこの手で斬り捨てた。……どうしても許せなかった。許せなかったんだよ」
憎き敵を討った喜びも達成感もレンからは見出せない。人を殺したと言う悲壮な思いが王子の目に宿っていた。
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