7.
「妊娠がわかってからしばらくして、死産になることもなく、その子は生まれました。
 元気な男の子でした。
 学校に行っていないその頃の私は、漢字が難しくてほとんど書けませんでした。
 だから、ゆうき、と平仮名で名前を付けました。
 私に生きる勇気をくれた、初めての存在だと思って。
 生まれる直前、ゆうきの父親に救急車を呼んでもらって、その搬送先でゆうきを産みました。
 彼らは……なかなか、ゆうきを私に見せてくれませんでした。
 私のお腹から出てきたその子を見て、数人の助産師が深刻そうな顔で話し合っていました。
「私の子を見せて」
 そう主張した私に、彼らは青ざめた顔で「覚悟を、してもらえますか?」と、問いかけてきました。
 まさかまた死産なのかと怯えましたが、聞こえてくる元気な泣き声が偽物のはずがありません。
「なにを?」と問う私に、助産師は「この子は……普通の子ではありません」と、要領の得ない答えばかり。
「いいから! 私の子どもを!」と叫ぶ私に、わが子――ゆうきの姿を、助産師は恐る恐る見せてきました。
 凍りつきました。
 その姿を見た瞬間、私は押し黙るしかなかったんです。
 奇形児って……わかります?
 見た目が正常ではない子どものことです。
 ゆうきはそれ……奇形児だったんです。
 産婦人科に受診していれば――産婦人科に行かなければという知識がそもそもあったなら――エコー写真で事前にわかったことなのだと言われました。
 けれど、そんな基本的なことすら、私は知りませんでした。そういう知識が得られる機会さえ、私にはなかったんです。
 ……。
 ……。
 ……。
 ……ゆうきの手には、指が六本ありました。
 そして、右足がありませんでした。
 ――わが子が五体満足ではない。
 そのことに全身が凍りついて、伸ばした手も動かすことができませんでした。
 黙りこんだ助産師たち。
 同じように黙った私。
 分娩室に、ゆうきの泣き声だけが響いて……。
 ゆうきはその六本の指で、私が伸ばした指先を握ってきました。
 それは弱々しくて、でも温かくて。
 その感触に自然と涙がこぼれて、やっぱりかわいいって思ったんです。
 生れたばかりの赤ちゃんを抱っこしていると、やっぱり指の数と、片方しかない足に目がいってしまいます。けれどそれも、だんだん気にならなくなってきました。だって、それでも……ゆうきは、かわいかったんです。
 しばらくして、いろんな検査をされたあと、ゆうきは保育器に入れられました。
 それで……病院の人からこれからのことを聞かれました。
 ゆうきの指は、外科手術で取ることが可能だということ。
 足は義足を用意して生活している人もいるからそこまで心配しない方がいい、ということ。
 出産後から、入院について。
 そして……これまで病院に受診しなかったことで発生する手間について。
 そこで足かせになるのは、またしても戸籍と、そして費用でした。
 私にはどうにもならないことばかりです。
 そしてそのせいで、私は病院にゆうきを盗られそうになりました。
 ゆうきを取り出した助産師は、信じられないものを見るような目で私を見て「どうして産婦人科に受診しなかったんですか! 妊婦検診を一回も受けていないなんて!」と声をあらげていました。
 そんなことを言われても、私はそれまでそんなところがあることさえ知りませんでした。
 病院に行ったのは前回の妊娠のときが初めてで、せいぜい「救急車で勝手につれていかれるところ」だとさえ思っていたんです。
 まぁ……行ったところで保険証がないどころか戸籍もないので、母子手帳が貰えたかどうかも怪しいんですけれど。
 妊娠すると、健康保険の出産手当一時金というものももらえるそうですが、それに必要なのもやっぱり保険証です。戸籍のない私には、それはどれだけ必要でも手に入れられないお金でした。
 けれど、そんな私の都合など彼らには関係ありません。
 妊娠期に適切な医療機関に受診しなかったことを理由に……えっと、医療……あぁ、そうだ。ネグレクト、でしたね。医療ネグレクトと、また将来的な費用負担が難しいことを理由に、私のゆうきを保護すると言ってきました。
 彼らは私を安心させようと必死でした。赤ちゃんのためだからと、それなら心配する必要などないと。
 彼らは、私とゆうきを引き離すつもりでした。
 実際のところ、医療ネグレクトと収入の問題から、彼らに預けたら乳児院に入れられ、数年間は一ヶ月に数時間の面会だけになっていたでしょう。
 けれど……そうなっていた方が、よかったんです。
 そうしていれば、まだ……ゆうきは……。
 ……。
 ……でもこのとき、私はそこまで考えが回っていませんでした。
 二度とゆうきと会えなくなる。
 そうさせないことが、なによりも重要でした。
 私はなかば逃げるようにして、ゆうきを胸に抱いて病院を出ました。
 一週間ぶりくらいに、ゆうきの父親の家へと帰ってきました。
 あとになって気づいたことですが、彼は一度も病院に来てはくれませんでした。
 彼は私のことも、子どものことも、なんとも思っていなかったんです。
 そんなこと思いもよりませんでした。
 自分の子どもなんだから、彼もきっと私と同じように大事にしてくれるものだと信じこんでいました。
 ……とんだ大馬鹿者です。
 帰ってきた私が彼の部屋で目にしたのは、新しい他の少女と“そういうこと”をしている、彼の姿でした。
 呆然としていた私の前で、彼は服をはだけたまま「あ、お前のこと忘れてたわ」と、どうでも良さそうに言いました。
 そして、私の腕の中のゆうきを見て言ったのは「なにコイツ。指……気持ちワリィ」だったんです。
 頭がまっ白になって、そのあとどうしたのか、あまり覚えていません。
 気づいたときには、彼の家からずいぶん離れたところにある公園のベンチに座り込んでいました。
 それまでなら、外で一夜を明かすなんてどうってことありませんでした。でももう、そういうわけにはいきません。私には、ゆうきがいたんです。
 でももう、彼の元には寄れません。
 私は……一度、母の元に戻りました。
 母から変わらず邪険にされましたが、ゆうきを見て、短い間という条件で受け入れてくれました。
 赤ちゃんが生れた場合、十四日以内に出生届を出さなければいけないと、助産師に教えてもらっていました。
 なので、その出生届を出しに行ったんです。
 けど、役所は受理してくれませんでした。
 父親の欄は直筆じゃない。母親に記された名前は戸籍に登録がない。
 書類不備と言われましたが、直しようがありません。
 ……私が無戸籍だったせいで、ゆうきもまた無戸籍にならざるを得なかったんです。
 そのとき、本当の絶望を味わった気がします。
 自分のことならまだ我慢できました。
 けれど……。
 自分が受けてきた不便を、ゆうきにもまた強いなければならないんだと、そこでようやく思い当たったんです。
 ゆうきに満足にお乳をあげられるだろうか。
 おむつなんかも、余裕をもって用意できるわけじゃない。
 無戸籍だから、病院にも連れていけない。
 ……私は、頑張って探したんです。
 私でも借りることのできるアパート。私でも働ける仕事。
 余裕なんてなくて、毎日が忙しくて、でも、充実してると思えた日々。
 ……そんな風に、前向きに受けとることができたのは、安アパートに移り住んでせいぜい半年程度でした。
 私にはわからない理由でぐするゆうき。
 お金を稼ぐために、一日の内の長い間家を空け、へとへとになって帰ってきてからも、ゆうきの世話で休まる時間なんてない。
 外に連れていけば、同じようなママさんが近寄ってきて……ゆうきを見て、顔をひきつらせてそそくさと立ち去っていく。
 ……。
 ……忙しいけれど充実している日々は、ほどなくストレスと苦痛に満ちた日々へと様変わりしました。
 味方になってくれる人などいませんでした。
 私はろくに眠る時間さえないまま、毎日を過ごしました。
 休みなく働いて、仕事から帰ればずっとゆうきの面倒を見て。
 ぐするゆうきに怒鳴りつけることも、次第に多くなっていきました。
 ……そして、ゆうきが一歳になった頃。
 私は疲れていて、疲れきっていて、数日はご飯も受け付けなくなるほどに憔悴していて、なにも考えたくなくて、半日でいいからなにもしなくていい時間が欲しくて……。
 疲れが……限界だったんです。
 ほんの少しだけでいいから、休みがほしかった。
 家に帰ってきたのに、その扉を開けられなくて。
 扉を開ける、たったそれだけのことがものすごく億劫で。
 ……ひっく。
 その日……。私、家に帰ってそのまま寝てしまったんです。
 ……私が起きて世話をしてあげないと、ゆうきはまだ生きていけなかったのに。
 なのに……私、ゆうきを見捨ててしまったんです。
 やっちゃいけないってわかってたのに、疲れきってた私は……。
 ……結局、寝過ごした私が起きたのは昼過ぎでした。びっくりして、あわててまた仕事に行きました。
 ……ゆうきのことを気にしていなかったと気づいたのは、仕事中でした。
 それから、私は罪悪感にさいなまれながら家に帰りました。
 玄関の扉はいつも通りきしみながら開きましたが、いつも以上にとても重く感じました。
 心臓がばくばくなっている半面、部屋は不自然なほど静まりかえっていました。
 ゆうきは寝ているのかとホッとして、音をたてずに部屋に入り、ベッドで静かにしているゆうきの隣で、私はまた、崩れ落ちるように寝てしまいました。
 ……。
 ……。
 ……それに、気づいたのは……翌日でした。
 ……。
 ……。
 ゆうきの小さな身体は、すでに……。
 ……。
 すで、に……冷たく……ひっ……なって、たん……です……。
 ……うぅ。
 うぇ……。
 うええ……。
 ……うう、う……。
 ぐすっ……。
 ひっく。
 ……。
 ……ご、ごめ……な、さい……。
 こん、なつもり、じゃ……。
 わ、わた、私……どうしたらいいかわからなくて……電話も持ってなくて……隣に住んでる人に救急車を呼んでもらって……。
 ……。
 ……病院で、ゆうきは死んでる、と言われました。
 病院からの連絡で、警察は私にゆうきの子育て状況を事細かに聞いてきました。
 あまりきちんと答えられはしなかったと思います。
 でも結局……それで、私は逮捕されました。
 刑事さんに根掘り葉掘り聞かれて、裁判になって――。
 保護責任者遺棄致死罪。
 懲役五年三ヶ月。
 それが、私に下された刑罰でした。
 警察からの事情聴取と、その後の裁判の過程で、私が無戸籍であることも発覚し、刑務所に入ると同時に、私にはようやく戸籍が与えられました。
 どれだけ望んでも与えられなかった戸籍。
 私がここにいるって証明してくれるもの。
 ゆうきの死によって与えられる皮肉。
 私がゆうきを“殺した”この事件は、ニュースにも取り上げられたらしく、裁判の傍聴席も埋まっていました。
 その新聞記事やニュースの動画を、後から見せてもらいました。
 私がどれだけ普通じゃない環境で育ったのか、どれだけ性に奔放で身勝手な生活をしてきたのか、どれだけセンセーショナルにできるかを競うような報道でした。
 行政の問題を指摘するものも少しあったけれど、そのほとんどは私の“自業自得”だという結論を下していました。
 ……私がもっと頑張っていれば防げた殺人だと。
 私がまともな人間だったなら、こんなことは起きなかったのだと。
 私のつらさも、私の苦しさも、そんなのは子育てをしている人なら当たり前のものだと。
 行政の支援も、家族の支援もなにも得られなかった私の苦労は、行政と家族に支えられて子どもを育てられた人となんら変わらないのだと。
 ……女子刑務所の中でも、そんな周囲の態度は変わりませんでした。
 刑期を終えて女子刑務所を出たのが、一年前のことです。
 それから、無戸籍の人を支援する団体のサポートのもと、パートの仕事を転々としながら、夜間中学に通わせてもらえるようになりました。
 でも、でも……事件が報道されたせいで、仕事はあまり長く続けられません。
 私の名前で検索すると、すぐ事件のことが出てしまいます。
 出産は十九ですけど、事件が起きたのは二十になってからですから。
 十代で二度の妊娠、出産。
 そして、二十歳でわが子を殺した。
 その二つだけで、私はもう誰からも許してもらえません。
 刑務所に入って刑期を終えても、罪を償ったことになんかならないんです。
「あの人、自分の子どもを殺したんだって」
「普通の人ならそんなことできないわよ」
「怖いわあ。犯罪者と一緒に働かなきゃいけないなんて」
 ――って、みんなそう言うんです。
 そうですよね。
 私は、許されないことをしたんです。
 だから、なにをどうやっても、一生許されないんです。
 でも。
 でも……。
 ……私、泣き言を言っちゃダメなんでしょうか。
 だって、誰も、誰も……助けてくれなかったんです。
 なにも助けてくれなかったんです。
 私は聞きたかった。
 私を責めるすべての人に。
「もし私と同じ環境だったら、私と同じようにならないと言い切れますか?」
 って。
 戸籍がなくて行政の支援もなく。
 学校に行けず、なんの知識もなく。
 家族も支えてくれず。
 ……そんな状況で、彼らは加害者にならずに済むんでしょうか。
 ……。
 ……。
 ……。
 こんな言い方、卑怯だって思いますか?
 私は、なにも知りませんでした。
 世間のルールも、世の中の仕組みも。
 いろんな人に言われました。
「そんなこと、普通わかるだろう」
「知らなくたって、考えたらおかしいって思うだろう」
 って。
 それを聞く度、私は「この人はなに不自由なく生きてこれた、幸福な人なんだな」と思ってしまいます。
 私みたいな、なにもかもから取り残される人がいることなんて知りもしない人たち。
 私が凶悪な犯罪を犯したから、近くでただ静かに生きていることすら許してくれない人たち。
 それでいて、罪の償い方なんて教えてくれない人たち。
 本橋さんは……どうですか?
 本橋さんも、そちら側の人ではありませんか?
 こんな話を聞かされて、それでも……私を受け入れることなんてできますか?」

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

水箱  7  ※二次創作

第七話

ようやく書ける今回の参考文献
中島かおり著「漂流女子 にんしんSOS東京の相談現場から」朝日新書 2017年

今回のみく嬢の境遇は、すべて実在する問題を元にしています。
300日問題、無戸籍、ネグレクト、自宅に居場所のない十代、夜間中学、望まない妊娠、奇形児、シングルマザーの貧困、ワーキングプア……。

これらは、現実に存在する問題なんです。
実際のところ、かなり壮絶なみく嬢とそう変わらない生活を送っている人は、少なくはないのだと思います。
……表沙汰にならないだけで。

この小説を書いている最中、法務省が無戸籍の人への対策を強化するというニュースがありました。
しかし、行政に見つからないのが無戸籍です。実際のところ、どれほど効果があるのかわかりません。

自分たちが当たり前に享受しているものが、どれだけほしくても手に入らない人たちがいるんです。
こういう問題に「なんとかできないだろうか」と考えてくれる人が増えてくれたらいいな、と思います。

閲覧数:43

投稿日:2017/12/27 12:36:30

文字数:5,982文字

カテゴリ:小説

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