その後、何度か放課後に残って、わたしたちは『ロミオとジュリエット』の戯曲に、修正をかけた。あれ以降、レン君がああいう風になることもなかった。どうしてなのかは、わたしにもよくわからない。
 ……でも、多分、これでいいのだと思う。お姉さんだってああ言っていたし。それにやっぱり、わたしの中に、まだちょっと怖い気持ちがあるから。


 五月のデートで、わたしたちはまた映画館に来ていた。今回はこの前のような、大きな映画館ではなく、もっと小ぢんまりしたところだ。
「リン、本当に『パンズ・ラビリンス』でいいの?」
 レン君が心配そうにそう訊いてきた。これを訊かれるの、何回目だったかな。わたし、そんなに危なっかしい?
「おとぎ話調のファンタジー映画だけど、どっちかっていうとダーク系だし、ホラーほどじゃないによせ、怖いシーンも多いって言うし」
 おとぎ話の中には、怖いものもたくさんある。グリム童話の『ねずの木』のように、子供が殺されてしまう話だって。後、あの話は何だったかな。兄が弟を妬んで殺してしまって、そのお墓から葦が生えてくる話。その葦で笛を作って吹くと、死んだ弟の声が聞こえてくるの。
「大丈夫よ」
 一人だったらさすがに躊躇ったかもしれないけど、レン君も一緒だもの。少しくらい怖そうなシーンがあっても、きっと大丈夫。
「映画の間、手を握っててもいい?」
 わたしがそう訊くと、レン君はちょっと笑って頷いて、それからわたしの肩を抱き寄せてくれた。


『パンズ・ラビリンス』は、不思議で暗くて悲しい話だった。現実と夢の境目を移ろう女の子のお話。主人公のオフェリアは、おとぎ話が大好きな女の子。お父さんは死んでしまい、お母さんは再婚して、お腹に赤ちゃんがいる。お母さんの再婚相手である残酷な大佐には馴染めない。そして内戦の最中なので、どこも安全とは言いがたい。とにかく、いたるところで銃弾が飛び交い、人が死んで行く。そんな世界の話。
 山奥の継父の赴任地に、お母さんと一緒に連れて来られたオフェリアは、そこで昆虫が変化した妖精に導かれて、迷宮に住むパンと出会う。そして言われるのだ。オフェリアは地下にある魔法の国の王女様の生まれ変わりで、三つの試練を果たせば魔法の国に戻れると。
 オフェリアは試練を果たそうとするのだけれど、二つ目の試練で、誘惑に負けて葡萄の実を口にしてしまって、パンには見放されてしまう。一方で、オフェリアを取り巻く現実はどんどん苛酷になって行く。お母さんの体調は良くならないし、継父は恐ろしい。オフェリアが心を許せるのは、メルセデスというお手伝いの女性だけ。この人だけは、オフェリアに優しい。でも、彼女はゲリラ軍のスパイだったりするのだけれど。後、お医者さんもいい人なんだけど、この人もこっそりゲリラの味方をしている。
 この話では、化け物が襲って来たりする試練よりも、大佐が取る行動の方がずっと恐ろしい。容赦なく人を殺したり、拷問したり。オフェリアのお母さんは、状態が悪化してお産で死んでしまう。オフェリアは心の底からお母さんを助けたかったのに、助けられなかった。お医者さんも、大佐の命令に逆らって殺されてしまう。メルセデスも、スパイだということがバレて大変なことになる。幸い彼女だけは生き延びられたけど……。
 オフェリアの周りには辛いことばかり。絶望するオフェリアの許にパンが来て、最後の試練に挑めと言う。でもチャンスはこの一度だけとも。オフェリアは生まれたばかりの弟を抱いて、二つ目の試練で手に入れた短剣を持って、迷宮に行く。そして、そこで……。
 映画が終わる頃には、わたしは胸がいっぱいになって、涙ぐんでいた。きっとあれで良かったんだ。あれしかなかったんだ。でも……メルセデスがかわいそう。誰かメルセデスに、オフェリアは幸せなんだって教えてあげられればいいのに。
 わたしが映画の内容をあれこれ考えていると、不意にレン君がわたしの肩を抱いた。びっくりしてそっちを見る。
「リン、平気?」
 あ……泣いていたから、心配させちゃったみたい。ごめんね、レン君。
「う、うん……」
 レン君がわたしを抱き寄せたので、わたしは自分の頭をレン君の肩にもたせかけた。……あったかい。やっぱり、こうしていると落ち着く。


 わたしたちはしばらくそうしていたけれど、ずっと映画館にいるわけにもいかない。次の上映を見る人の邪魔になってしまう。だから上映室を出て、ロビーに移った。そこの椅子に、二人で座る。
「なんというか……救いの無い内容だったよな」
 レン君にそう言われて、わたしは思わず首を傾げた。さっきの映画……あれは、一応ハッピーエンドに入れていいんじゃないの? わたしは、あれはハッピーエンドだと思った。メルセデスにはそうは思えないだろうけど。
「救いはあったわ……オフェリアには」
 地下の魔法の国で、お姫様になった。優しいお父さんとお母さんと、これからは三人で暮らせる。
「リン、あの子は死んだんだよ」
 そんなことを言うレン君。現世では、そうよね。でも、あれが最後の試練だ。
「魔法の国に行くためには、死ななければならなかったのよ。パンもそう言っていたわ」
 最後の試練は自分を犠牲にすること。……多分、キリストの死がモチーフになっているのね。罪を浄化するために、罪のない者が死ぬ。
 レン君は、わたしの言葉を聞いて首を傾げている。……どうしたの?
「そんなものは最初から存在しないんだよ」
 きっぱりとそう言い切られてしまった。
「しないって、何が?」
「だから、魔法の国とか、パンとか。全部存在してないの。あれはオフェリアの頭の中の空想の世界なんだってば」
 レン君に言われたことが意外だったので、わたしは驚いてしまった。
「どうしてそう思うの?」
「最後に迷宮の中で、パンがオフェリアに『弟を殺せ』って言うシーンがあるだろ。あの時、追いかけてきた大佐が見たのは、弟を抱いているオフェリアだけだった。つまり、あのパンは、オフェリアの空想の存在なんだよ」
 それが、レン君のしてくれた説明だった。え? 全然違うわ。
「大佐にパンが見えるはずないわ。だってあれは、オフェリアのように、それを信じている純粋な存在にしか見えないものなのよ」
 信じてない人には最初から見えない。おとぎ話の中ではよくあることだ。資格があったり、信じていたり、あるいは他の条件を満たしていて、初めて見える。
 わたしは、昔読んだ童話を思い出した。お姫様が仲良くなった少年を、大好きな不思議なおばあさまにあわせようとするのだけれど、おばあさまはお姫様だけに見えて、少年には見えなかった。部屋も、お姫様にはとても綺麗な部屋に見えるのに、少年に見えるのは石の壁と粗末な家具だけで。それでお姫様、ショックを受けるのよね。どうして見えないんだろうって。
「魔法が存在していないのなら、どうしてオフェリアのお母さんは、パンがくれたマンドラゴラで良くなったの? 具合が悪くなったのは興奮しすぎたせいだとしても、一時的とはいえ回復したのは説明がつかなくない?」
「いわゆる、一時回復って奴じゃないの? 人間は死ぬ前、ちょっとだけ具合が良くなるって言うし」
「そうだとしても、タイミングが良すぎると思うわ。それに、最後に閉じ込められていた部屋から抜け出したのだって、パンがくれた魔法のチョークが本物だったからじゃないの?」
 オフェリアがいなくなった後、壁にはチョークで描かれた扉が残っていた。扉を作れる魔法のチョークで抜け出したんだって、考えるのが自然なはず。
 だからパンも妖精たちも魔法の国も全部存在していて、オフェリアは魔法の国の王女様の生まれ変わりで、魔法の国に戻ることができたんだ。最後に木に咲いていた花、あれはきっと「わたしは大丈夫よ」って、メルセデスや弟に伝えたかったのね。
「……リン」
 不意に真面目な調子で名前を呼ばれたので、わたしはびっくりしてレン君の方を見た。
「どうしたの?」
「リンは……ずっと、俺と一緒にいてくれる? どこにも行かないで、俺の傍にいてくれる?」
 わたしは、あっけに取られてレン君を見ていた。レン君、いきなりどうしたんだろう。こんなことを訊くなんて。でも、レン君はすごく真面目な表情をしている。
 ……だったら、ちゃんと答えないと。でも、なんて答えたらいいの? わたしは、ずっとレン君と一緒にいたい。けど、ずっと一緒にいられる保証なんてできない。だって……。
「俺を置いて行かないでほしいんだ」
 そう言ったレン君は、ひどく不安そうだった。レン君がこんな表情をしたところ、初めて見た。……わたしが、レン君を置いてどこかへ行ってしまうって思っているの?
「……行かないわ」
 わたしは腕を伸ばして、レン君の背に回した。わたしが不安な気持ちになった時、レン君がいつもこうしてくれるから。
「わたし、どこにも行かない。ずっとレン君と一緒にいる」
 ああ、これだと嘘になってしまう。ずっと一緒にいることなんて、本当はできないのに。でも、少なくともわたしは一緒にいたいと思っているの。
「……わたしからどこかに行くなんてことは、しないから」
 これは本当だ。わたしの意志でレン君を置いて行くことだけはしない。……わたしの意志で置いて行くことだけは。
 レン君は、わたしをぎゅっと抱きしめた。額と額が触れ合う。
 こんな時間が続くといいのに。幸せで温かくて、大事な人の存在を、すぐ近くに感じられる時間が。
 ずっとずっと一緒にいたいのに……わたしにそれは許されていない。その事実が、辛かった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 第六十三話【バラの花の火】

 この連載も、そろそろ終わりが見えて来ました。
 次回でまた一つ節目を迎えさせて、そうしたらクライマックスに行けそうです。
 もうしばらく、おつきあいください。

閲覧数:872

投稿日:2012/03/27 18:49:29

文字数:3,961文字

カテゴリ:小説

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  • 初花

    初花

    ご意見・ご感想

    初めまして!!rukiaです。1話からずっと読んでました(・x・)/最近追いつきました…。

    外伝も、アナザーも読みました!!もーすぐクライマックスですか…。さみしいです。
    あとちょっと、がんばってください!!!

    2012/03/28 18:05:56

    • 目白皐月

      目白皐月

       初めまして、rukiaさん、メッセージありがとうございます。

       長いので結構読むのは大変だと思います。読んでくださってありがとうございます。
       まだ最終話まで紆余曲折ある予定ですので、もうしばらくおつきあい頂けると嬉しいです。

      2012/03/28 23:21:25

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