マスターは自室に籠もることが多くなった。時折ナイトや隊長を呼びつけて何か指示を出している様子はあったが、自分では何もしていない。まるで嵐の前の静けさだ。
カイコは整備室であったマスターとの会話を誰にも言う事ができずにいた。あのアカイトにさえカイコは真実を告げる事はなかった。
誰もが不信感の種を抱き、疑心暗鬼の芽は着実に育ち始めている。
役者達は脚本家の手の上で踊る。脚本家でさえ今は役者の一人。シナリオを少しずつ変え、ありとあらゆる場面に対応していく。どんな局面でもチート級の切り札を持って修正していく。ある意味卑怯戦隊より卑怯な行いだ。
カイコは一人マスターの部屋を見つめてため息をついた。首につけたチョーカーを外し、チョーカーに視線を落とした。
「マスター…」
寂しげな表情のカイコに気付いたナイトが声をかけた。
「どうしたのですか?カイコ。体調が優れないならば無理をする事はありません。ベッドへお送りしましょう」
ナイトは紳士的にカイコに手を差し出した。
「…おや?美しいチョーカーですね。透き通る青、よくお似合いですよ。そう言えばマスターもそう言った色が好みでしたね。マスターへのプレゼントですか?」
カイコは俯いて力無く首を横に振った。
「これは失礼。少し喋りすぎました…」
「いいえ…これはアカイトがくれた物なんです」
ナイトは己の失言をカイコに謝罪した。カイコは少し顔を上げて弱々しく微笑んだ。手にした青いバラを模った飾りのついたチョーカーをナイトに見せるようにしてカイコが説明するとナイトの表情が一瞬険しくなった。
「?…ナイト?」
カイコが声をかけるとナイトはいつものポーカーフェイスに戻っていた。
「さぁ、部屋に戻りましょう」
ナイトはカイコに再び手を差し出してエスコートした。
カイコを送り届けるとナイトの表情はまた少し険しい物へと変わった。抜け目なくマスターから外出許可を得るとナイトは早々に家を出た。
カイコの部屋―――
カイコはベッドに横になって天井を仰ぎ見た。手を伸ばし、指先で器用にチョーカーを弄んでいる。
トントン。
ドアを叩く音がしてカイコはそっと起き上がった。ドアを開けるとそこにはあの近寄りがたいミイラ男、タイトが立っていた。
「僕の顔見てドアを閉めようとするなんて、君もなかなか酷いね。まぁ、慣れてるけど…」
慣れた様子で閉まりかかったドアをこじ開けるとタイトはカイコの部屋へと侵入した。逃げようとするカイコを奥へ押しやり、逃げ場を奪うとタイトは恐怖に引き攣った顔のカイコとは対照的に暗く怪しげな笑みを浮かべた。
「そんなに怖がらなくても、別に僕は君に何て興味ないから…」
タイトはカイコをバカにしたように笑った。
「…それじゃぁ手短に用件だけ言おう。君のそのチョーカーをマスターに渡してもらえないかな?」
タイトはカイコが手にしていたチョーカーをカイコの手ごと強引に掴んだ。顔を寄せて狂気じみた顔で迫ればカイコはあっけなくタイトの術中にはまった。
恐怖と混乱に惑うカイコ。悪魔の囁きはなおもカイコを苦しめた。
「君は男だろう?こんな女物のチョーカーなんてつけて、何がしたいんだい?それとも、もう男を捨てて女になってしまったのかい?ふふ。別に僕は同性愛を否定したりはしないけれど…まさか君、アカイトの事が好きなの?正気?」
ニヤリと笑うタイト。その目はやはりカイコをバカにしているようだった。
「何を迷っているのか知らないけど、せっかく元の体に戻れるチャンスなのに君はそんな物のためにこのチャンスをふいにするんだね。本当に勿体ない。僕なら喜んでそんなチョーカーマスターに差し出すよ。マスターの願いを叶えるのが僕らの勤めだろう?」
最後の囁きは核心的だった。ボーカロイドとしてのカイコの心に深く突き刺さった。
落ちたなと感じたタイトは満足そうにニヤリと笑いカイコからすっと離れた。放心状態のカイコを置いてタイトはさっさとカイコの部屋を出た。
マスターの部屋―――
ベッドの上でマスターは寝転がっていた。力無く片手をぶらりと垂らし、もう片方の手で両眼を覆っていた。掛け布団ごと体の下に敷いていたため下はふかふかとしていたが上はスカスカだ。少し足を広げた状態で無防備に寝転ぶマスターに外から入る風が当たる。
トントン
遠慮がちにドアを叩く音がしてマスターはだるそうに起き上がり、ドアを開けた。
「カイコ…来たんだね…」
まるで来てはいけなかったかのような言い方である。カイコは戸惑い、片足を後ろに下げた。
「部屋を間違えた…何て事はないだろう?何の用?無用の者は入るなと言ってあったはずだが?…」
睨み付けるマスターはやはりまだ負のオーラを纏っている。しかし意外にも整備室の一件の時のマスターほど恐怖は感じられなかった。
「マスター、これ…」
カイコは弱々しくアカイトのくれたチョーカーを差し出した。マスターはチョーカーを受け取るとしばらく黙ってチョーカーを見つめ、そして今度はカイコを見た。どこか興味なさそうに椅子の背もたれにだらしなく体重をかけ、机の端に肘をついて頬に手を当てて頬杖をついている。
「…ついておいで」
しばらくしてマスターは立ち上がった。ただ一言声をかけるだけでマスターはカイコを見ようともせず部屋を出た。途中隊長に何事か話しかけ、隊長も頷いてどこかへ行ってしまった。
カイコからはマスターの顔が見えなかった。もしこの時カイコにマスターの顔が見えていたら、マスターの考えを理解する事ができたかもしれない。運命の悪戯か、タイトの描くシナリオ脱却の分岐がまた一つ消えた。タイトの周到な恐怖のシナリオを回避する術はあるのだろうか。終焉のシナリオは刻一刻と近付いていた。
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