「そういえば、君は今まで見たことがないな…」
俯きがちになっていたリンに、少佐が言った。
姐の客にも拘らずリンも彼のことを知らなかったのだから、この三ヶ月程の間に此処へ通うようになったのか――いや、遣手の慌て振りからすれば今日が初会なのかもしれないが。
「そうですねえ…少佐さんは、よく通っていらっしゃるんですか?」
不躾かとも思いつつ尋ねてみれば、男は少し驚いた表情でリンの顔を見た。
その理由はリン自身もよく分かっていることだったので、特に気にすることでもない。
「君もか…此処の女は皆、流暢に話すな」
思った通りだと、リンは苦笑する。
彼女は田舎から売られてきた訳ではないので里言葉などなく、楼主はそれならばわざわざ廓詞を使う必要はないと言った。
楼主に拾われたという姐も廓詞を使わず、最近では皆がこちらの言葉に感化される始末になっている。
けれど里言葉のクセも全くなしに喋るのはリンくらいで、度々客に驚かれるのだ。
初めてそう言われた時は、戸惑って家のことまで話してしまったのだが――その事情さえも情で繋げれば、まだよかったのだろうが――今ではもう慣れていることだ。
微笑んでありがとうございますと言い、そこで会話を一旦打ち切る。
「けれど、うちの姐さんも上手に話すでしょう」
そうやって話を姐の方に持っていってやれば、姐を目当てにしてきた客なら簡単に喰い付く。案の定、男もそれに頷いた。
「そうだな、彼女も――」
「失礼します…村岡さん、お久し振りですねぇ」
その時、断わりの言葉に続いて戸が開いたかと思うと、美しい声が部屋に流れ込んできた。
本当に早いなと遣手の仕事の早さに少しばかり感心しながらも、リンは入ってきた女を見遣る。
当然ながら、それは彼女の姐であり男の相手でもある女郎。
「ははは、先週も訪ねたばかりだったと思うがな、ミク」
少佐は満足そうに彼女を見て笑う。
リンより何段も豪奢な着物を身に纏う、まだ少女と言っても過言ではない女。
けれど彼女が纏っているのは衣だけではなく、リンにはまだ足りない、その歳に不似合いにも見える圧倒的な色艶。
快活に笑う男を前に、ミクはその空気を以て場を支配する。
「私は毎日来て頂いても良いんですけれどね」
戯れのようにそう言うと、まるで大見世にいる女郎のような貫禄で、当然のように男の隣に座る。
こんな場所であっても、リンにとっては眩しいばかりの存在だ。
「また今日は、素敵な部下の方をお連れなんですね」
ミクは少佐の連れである若い少尉にも笑んで、社交辞令を交わす。
彼女が来ただけでこうも場の雰囲気が変わってしまうのは、なにもこの少佐がミクの客だからという訳ではないのだろう。
リンは姐の姿を見ながら思った。
「おっと…やはり、ミクも若い男の方が好みか。よかったなあ神威」
先程から聞いていると、この男はただ冗談が好きなのか、はたまた初めての廓に緊張しているであろう部下に気を利かせているのか。
茶化すような言葉に、しかし若い少尉は真っ直ぐに答える。
「いえ、私など軍人としても男としても、まだまだ少佐には敵いません」
けれど少佐はその答を気に入った様で、また口を開け快活に笑った。
リンはそれまでの言葉に全て愛想笑いを続けながらも、これからの自分の仕事を考えていた。
ミク――彼女の姐が来た以上、場を保たせるというそれまでのリンの役目は終わった筈である。
しかし何故か、これで終わって格子の前に戻る気にはなれなかった――それは勿論、また見世に出て格子の前に張り付くのが好ましいことではない、というのもあるのだが。それだけではない。
今までは消極的な抵抗心だったのだが、今日はそれとはどこか違う。
何故だかは分からないけれど。
積極的に、この場所にいたいと望んでいた。
「まだ時間は残っていますし、飲みますでしょう?リン、お酌を」
理解出来ない感情に焦り振り回されそうになっていたリンに、ミクが酌を頼む。
ミクも新造だけでは不安なのか、それとも上客にリンのことを覚えさせておきたいのか。意図は掴めないが、つまりはまだ此処にいても良いということ。
少しだけ落ち着いて、リンは姐に返事をすると禿から酒を受け取った。
これでも新造であった頃から、場を保つのはなかなか上手いと言われていたのである。先程からあまり話すことも出来なかったが、挽回しなくては。
そう思いながらも少佐に酌をすると、少尉の相手をしろとミクに目線で訴えかけられる――やはり、少尉の方をリンの客に充ててあげたいという姐心なのか。
胸中のわだかまりを抱えつつも、とにかくリンは彼に話しかけてみた。
「少尉さんも、お飲みになりますか?」
「は?ああ、では…」
杯に酒を注ぎながらちらりと盗み見れば、やはり彼は見目麗しかった。
軍人でありながらその長髪で良いのだろうかとふと思ったが、この若さで少尉という職に就いているくらいだ、なんとでもなるのだろう。
「君の名前は?」
と、急に話しかけられ、思わず瓶を取り落としそうになる。
まさか相手の方から話しかけてくるとは思わなかった――いくら下級の遊女とはいえ、初会といえば大抵の相手は緊張してあまり話せなくなるものだと思うが。
それに何と言うか、髪型といい纏う雰囲気が古風であったこともあり、君などと言われるとは思っていなかったのである。
しかしリンは一瞬の間でなんとか平静を取り戻し、男に笑いかけた。
「リン、と申します…お見知り置き下さいませ」
今までの経験から、一番男にとって魅力的に見えるであろうカオをしてそう言う。
けれど少尉はそうかと一言返事をしただけで、特に何か思った風ではなかった――やはり、よく分からない男である。
「少尉さんのお名前は、伺っても構いませんか?」
あまりこちらから聞くのも無粋なのだろうが、仕方なく男にも名前を尋ねると、しかし彼は何故か少し困ったような表情になった。
この地位なのだから、言うに足りない名前という訳でもないだろう。
不思議に思いつつも反応を待っていると、彼は苦笑した。
「“カムイ”だ。神の威光と書いて、神威という」
「神威、さん?」
神威とはまた聞かない名だが、神威と同じ字とはなんとも大仰な名前だ。
リンは彼の名付け親に少し感心した。その名を以てしても彼に何ら劣る所がないように見えるのも凄い。
未だ苦虫を潰したような表情をする彼――神威を不思議に思いつつも言う。
「良い名前ですね」
すると神威は少し目を瞬かせてから笑った。
「リン殿は変わっているな」
何について言われているのか分からず、今度はリンが目を瞬かせる。
当然ではあるが、リンは他人から変わっているなどと面と向って言われたことはない。
また、それにしても不思議な口調の男である――案外普通に喋るのかと思えば、まさか“殿”などと敬称を付けて呼ばれるとは。
「神威さん、私のような者に敬称は不要です。どうぞリンと…」
訂正しながらも、本当に変わった人だとリンは思った――こんな位の低い遊女に向かって、まるで普通の人間に対するような話し方をするなんて。
今日は本当に何かある日なのか。まるで二年も前のあの頃に戻ったような気分だ。
「…ならば、リン」
神威は先程の台詞を特に気にした風もなく、まるでリンがただそう呼んで欲しいと願ったからだけだという口調で言い直した。
「何でしょうか?」
それだけでまた胸が苦しくなるが、リンはなんとか微笑んで彼の言葉を待つ。
すると、神威はまた屈託なく笑って言うのだ。
「ありがとう」
その言葉の真意も理由も分からない。
「…」
なのに、こんなにも胸が締め付けられるのは何故なのだろう。
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