あの日以来、彼女は気に入った曲が見つかる度に俺の処に来ては、彼女だけの指定席に座り、曲を聴かせてくれるようになった。彼女のオススメは、必ずしも俺の好みに当てはまるわけではなかったが、ひとつの曲に対して意見を云い合うことは、純粋に楽しかった。
彼女のオススメが俺の好きな曲として増えてきた頃、またあの人の新曲がリリースされた。始まりはいつも、あの言葉。今回も、また。
「聞いてー、ルキ君!」
走ってくる彼女に対して、俺は笑顔で言葉を返す。
「ルカ姉の新曲、だろ?」
「えー、チェック済みー? ルキ君もついにルカさんのファンになったんだね。良かった良かった」
「いやなってねーから。調べものしてた時に、偶然見つけて知っただけ」
「えー、つまんなーい!」
「出たな、ニジイロ。
てかつまんなくねーよ。ほらさっさと流せ」
「なんだかんだ云って聴きたがってるくせにー」
「はいはい。早く聴きたいので早く流して下さいお嬢さま」
「はーい! わっかりましたぁ!」
ノリノリで応えた彼女に、俺もニジイロ式に応えてやる。
「こいつ、ホントに分かってるのか」
本当はルカ姉の科白なんだけど。ま、いっか。
「はーい、スタート!」
その言葉を境に、彼女は流れ出す音楽に没頭し、俺も耳を傾け始める。だが今日はいつもと何かが違っていた。いつものように、彼女は俺の膝に座っていて、彼女のケータイから姉の声が聞こえてくる。
なのに俺は、目の前にある緑の髪しか見えなくなった。
同じ方向を向いている彼女には、一体何が見えているのだろう。俺が見ているものを、彼女が見ることは出来ない。そして同時に、彼女が見ているものを、俺が見ることも出来ないのだ。
彼女の目の前にあるものが判ったとしても、彼女がその中の何に視線を注いでいるのか、俺には判りえない。あるいは、彼女は何も見ていないのかもしれない。聴覚が拾う刺激のみを、脳は感じているのかもしれない。
ならば、俺が触れても、彼女はそれを感じないだろうか。
ならば、流れる水のようなこの髪に、触れてもいいだろうか。
手を伸ばせば確実に届く。けれど、歯止めが掛かる。
壊れてしまうのは、失ってしまうのは、……嫌だから。
「やっぱりいい曲!」
はっと我に返る。
「ね、どうだった?」
いつもと同じ質問。違うのは、俺だけ。彼女には何の異常もなく、俺のそれにも気づいてはいない。
「ああ、まあ良かった、な」
はっきり云って、ほとんど聴いていなかった。
「んー微妙かー」
「いや良かったっつったじゃん」
「その前に“まあ”って付いてたじゃん。本当に良かったって思ってる時にそんな言葉付くわけないもん。
むー。でも確かに今回のは……」
彼女はこの曲の歌詞に少し不満があるらしく、一人で語っている。その上に、言の葉が注がれた。
「え? ルキ君今なんて云ったの?」
中途半端に聞こえたらしく、見上げて聞いてくる。
「……ルカ姉の女王様キャラ、定着してきてるな、って」
「ああ! そうだよねー。だってルカさん似合っちゃうんだもん」
「……ファンとしてどうなの? それ」
「え、何が? 似合ってて恰好良ければわたしは全然構わないよー」
「……ふーん」
零れた言葉は、空気に喰われて消えてしまった。だがそれは確かな種となって、俺の中に植え込まれた。
「ミク、」
帰るね、と告げた彼女の名を、静かに呼ぶ。
「何ー?」
彼女はすでに立っていたが、呼び掛けに振り向く事なく先ほどの歌を鼻歌で歌っている。その相変わらずな様に、どう切り出せばいいのか、迷う。
なかなか続きを云わない俺にしびれを切らしたのか、彼女が振り向いたその時、言葉は紡がれた。
「曲さ、もういいよ」
俺はまだ座ったままの状態で、彼女の顔を見るために目線は上に向けていた。だからはっきりと彼女の顔、そしてその表情が見えていた。
いつもとは違うアングルで映し出された彼女は、こちらを振り向いた時から、いや、俺が言葉を発した時から、固まっていた。彼女のそんな姿を、俺は今まで見たことがなかった。常に浮かんでいた笑みが、波にさらわれて消えてしまったかのようだった。
そう長くはない間のあと、その顔に困惑の表情が浮かび、それに相応しい応えが返ってきた。
「……え、もういいって、どういうこと?」
「もう、曲聴かせてくれなくていいから」
少しだけ、突き放すような口調で答えた。彼女がもう、俺の処へ来ないように。
「……やだ!」
しかし、突然彼女は泣き出した。こんなに激しい反応が返ってくるなんて、予想外だった。
「ちょ、おい」
「やだよ、わたし。だってルキ君と曲の話するの楽しいんだもん。ルキ君にとって必要じゃなくっても、わたしにとっては必要なんだから!
聴くのやめるなんて、絶対許さないんだからー!」
彼女は駄々っ子のように泣き喚く。赤子の泣き声を何とかして止めようとするかのように、俺は思わず立ち上がって駆け寄り、彼女をなだめた。
「わ、分かった。ともかく泣きやめ」
「……泣くのやめたら、これからも曲、聴いてくれる?」
ちら、とこちらを窺いつつ聞いてくる彼女に、観念して云う。
「あー、うん。聴きます、はい」
俺の言葉を聞くや否や、破顔して一言。
「やった!」
「って泣きやむの早すぎだろ! 嘘泣きだったのか!?」
「嘘泣きじゃないよ。ちゃんと泣いてたって」
ちゃんと泣いてた、って何だ? ……もう何も云うまい。
「じゃあわたし行くね。また来るからー」
涙の痕を見せず、彼女はにこにこと去っていった。
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