海の思い出
それは、不思議な出会いと素敵な秘密。
押しては返す波の音。穏やかな海に潮風が吹き、昼を過ぎた太陽が海辺を照らす。砂浜に伸びる二つの影が重なっては離れ、並んでは遠ざかる。
王宮を抜け出してこの海岸に遊びに来たリンとレンは、日の光に金髪を輝かせてはしゃぎまわっていた。
「ねえ。そろそろおやつ食べようよ」
少し休みたいと提案した姉王女に、弟王子は唇を尖らせる。
「えー?」
もうちょっと時間が経ってからでいいじゃないか。遊び足りないと文句を付けるレンに対し、リンは頬を膨らませて言い返す。
「だってお城を出てからずーっと休んでないよ。私は疲れたからもう動けないもん」
ぺたりと砂浜に腰を下ろし、ここから動かないと座り込む。レンが手を引いても立とうとせず、ついにはそっぽを向いてしまった。
……あ。これ駄目だ。
完全に機嫌を損ねたと悟り、レンは姉を誘うのを諦めて手を離す。それでも休憩より遊びたいという気持ちの方が強い。だけどリンはきっと一緒に来てくれない。
「じゃあ、リンはここで待ってて。僕はあっちに行って来る」
レンは自分の肩越しに後ろを指差す。林で隠れて見えないが、向こう側にも浜辺は続いている。さほど遠くないのですぐに戻って来られる距離だ。リンは不機嫌そうにしていたものの、やがて目を合わせて頷いてくれた。
「うん。後で一緒におやつ食べようね」
待ってるからとリンは手を振る。何だか悪い事をしたような気分を感じながら、レンは砂浜に新しい窪みを作って林へ足跡を伸ばして行く。
波の音に交じり、三時を知らせる鐘の音がリンとレンの耳に届いた。
向こう側の海岸に到着し、レンは足を止めて振り返る。リンの所まで繋がっている足跡が林の先へと続いていた。木々に隠れて姉の姿は見えない。
抜け穴を使って王宮を抜け出そう。一番始めに言い出したのはリンの方だった。最初の頃は見つかったら怒られると思って怖かったけれど、何回か外へ出ている内に大人達に隠れて抜け出すのが楽しくなって、今日は自分の方から遊びに行こうと誘って外に出た。
暗くなる前に帰る。それが二人で決めた約束だ。夕焼けを半分ずつ分け合おうと手を繋げば、悪戯をする悪い夕暮れも怖くなかった。
水に濡れた犬のように首を振り、「違う違う」とレンは呟く。
「……怖がってるのはリンの方なんだ。だから僕が傍にいてあげるんだ」
自分は夕暮れを怖がるような弱虫じゃない。でもリンの前では絶対に言わない。そうすると一緒に歩けなくなるから。リンと手を繋いで帰れなくなるから。暗くなるとお化けが出るから一人が嫌だとかじゃない。絶対に。
砂を踏む度に足下から小気味良い音が生まれる。浜辺に足跡を残して歩いていると何も無い所で突然躓いた。
「っわぶ!?」
レンは砂浜に顔面を突っ込む。余りにいきなりだったので驚きが強く、反応が遅れて手を付けなかった。地面が柔らかいお陰で痛みは無いが、口に砂が入ってじゃりじゃりする。
起き上がりながら砂を吐き出して服をはたく。前髪にくっついていた砂も落ちた。
「何だよもー」
海岸に石や段差なんて無かった。何でもない所で転んだのがどうにも納得がいかないレンは不満を露わに振り返る。
そして、黄の国王子は『へんなもの』を蒼の瞳に捉えた。
真っ先に目に付いたのは、赤色が混ざった黒い大きな羽。形は蝙蝠と良く似ている。先から根元を辿ってみると、まるでライオンのたてがみのような金色の毛が目に飛び込んできた。
ますますおかしいと思って全体を見てみれば、漆黒の巨大な『何か』が太い腕と足を投げ出して砂浜に倒れていた。姿形は人に似てなくもないが、左右に広がる羽と言い動物に近い生え方の毛と言い、人間にしてはちょっと変な気がする。
「……何これ」
不満が一瞬で吹き飛び、レンは疑問符を頭に浮かべて首を傾げる。ついさっき、それこそ躓く寸前まで何もいなかったし、そもそも砂浜に誰かがいたらすぐに気付くはずだ。なのに、この黒いのは目の前で倒れている。数秒前までは確かに砂しかなかった場所に。
好奇心と恐れで胸を高鳴らせてそろりと足を動かす。黒いのを起こさないよう慎重に頭の方へ回ると、耳の上から後頭部へ向かって角が生えているのが見えた。
触っても平気かな……。
ゆっくりと手を伸ばす。指先が角に触れるか否かの瞬間に動物の唸り声にそっくりな音が響き、レンは思わず手を引っ込める。
「え? え? 何?」
動揺して左右へ顔を振った直後、蚊の鳴くような声が耳に届いた。
「た……」
「へっ?」
足下へ視線を落とす。相変わらず俯いたままの黒いのから、小さく、しかしはっきりと言葉が聞こえた。
「腹……減った」
再び響く唸り声。それは巨大な黒い体の中程、腹の辺りから発せられていた。自分以外の声を聞いてしばし呆けていたレンは、ぼんやりとした口調で漏らす。
「……しゃべった」
レンが見下ろす前で、腹の虫がまた鳴いた。
持って来ていたおやつをあげると言うと、起き上がった黒いのはブリオッシュ丸々一個を口に放り込んだ。レンにとっては何口かに分けないと食べられない大きさだが、黒いのが持つと一口大のパンに見えた。
相手がブリオッシュを咀嚼しているのを眺めながら、砂浜に腰を下ろしたレンは正面の巨大な体躯を仰ぐ。
とにかく大きい。胡坐で座った状態なのに、立っている大人よりも高い位置に頭がある。顔つきは人間とは掛け離れていて、でも馬や犬と言った動物とも違う。絵本で登場する生き物が飛び出て来た感じだ。
「……ふん。少しは足しになったか」
黒いのがブリオッシュを食べ終えて、レンが感嘆の声を口にする。
「でっけぇ……」
満面に現れているのは恐怖でも怯えでもなく、憧れが混ざった嬉しさで輝く無邪気な笑顔。爛々と目を光らせるレンへ視線を送り、黒いのは腕を伸ばしてレンの襟首をつまんで持ち上げた。
「うわっ」
急に体が浮かんで慌てるレンを無視して目前に引き寄せ、真っ直ぐに目を合わせて尋ねる。
「おい、坊主」
首筋を持たれて子猫さながらのレンはばたつかせていた足を止め、かけられた声へ律義に返事をする。
「はい?」
「お前は我が怖くないのか?」
人間と全く違う顔なので分かりにくいが、黒いのが不思議そうな、困っているような表情をしているのは何となく伝わった。
どうしてそんな事を聞くんだろう。質問された意味が理解出来なくて困惑したが、レンは思った事を素直に答える。
「怖くない。怪獣みたいにでかくて強そうでかっこいい」
「か、怪獣……? 我を怪獣と言ったか?」
純真無垢な返答が相当予想外だったのか、黒いのは呆気にとられた様子で問い返す。違うの? と言わんばかりにレンが頷くと、小さい体が砂浜に落下した。
「わっ」
襟首を離されたレンは尻餅をついて地面に着地する。予告も無く落とされた事に文句を言おうと相手を見上げた時、黒いのが僅かに肩を揺らしていた。
「くっくっく……」
押し殺せていない笑い。レンが怪訝な顔をしたのとほぼ同時に、黒いのは口を開けて胸を張った。
「はーっはっはっは!」
豪快な笑い声がレンの鼓膜を直撃する。高笑いが海岸に轟き、波の音が見事に打ち消された。余りの声量に両耳を押さえたレンに構わず、黒いのは虎に似た牙を見せて笑い転げる。
「はははは! この我を悪魔でも化け物でも無く怪獣と呼ぶか! 悪魔として長き時を過ごしてきたが、そんな呼ばれ方をされたのは初めてだ!」
大体分かってはいたが、黒いのはやっぱり人間ではないらしい。ありえない事の連続で感覚が麻痺していたレンは大して驚かずに両手を下ろした。馬鹿笑いのせいで耳鳴りがする。
「こいつは面白い。……坊主、置き土産に一つ話を教えてやる」
さっきから何でこんなに偉そうなんだろう。レンは思ったが口には出さず、言葉の続きを待った。
「とある世界の海にある言い伝えだ」
黒いのが語ったのは、とても素敵な言い伝え。海に願い事を流せば、いつの日か叶うと言う不思議な話。
信じるか信じないかはお前の自由。最後に付け足された台詞はレンの耳に入っていなかった。
「羊皮紙を小瓶に入れて……」
教えられた事を忘れないように小声で復唱し、全て言い終えて黒いのへ礼を述べる。
「うん。もう覚えた。ありが……」
正面に目を戻すとそこには何もいなかった。ほんの少しだけ目を逸らした間に、黒いのは跡形もなく消えていた。
「え……?」
レンはぽかんとして数秒固まる。開けた視界で砂浜と水平線が映った。繰り返される波の音が優しく耳を打つ。
夢でも見ていたんだろうか。だけど、黒と金の巨大な姿は目に焼き付いているし、海に伝わる秘密もちゃんと頭に残っている。
しばらく呆然として座っていたが、レンは砂を払い落しつつ立ち上がった。
「……戻らなきゃ」
ずっとリンを待たせてしまっている。かなり怒っているかもしれない。一緒に食べるおやつは無いけど、その代わりに素敵な話を教えてあげよう。
一度だけ黒いのがいた場所を振り返り、レンは自分の足跡を辿って駆け出した。
始めに遊んでいた海岸に戻ると、リンが誰かと話しているのが目に入った。悪い人ならやっつけてやると思ったが、こちらに気付いたリンが笑って手を振っている。傍にいる二人の大人はとりあえず悪い人ではなさそうだ。
一人は桃色の髪を腰近くまで伸ばした女の人。もう一人は珍しい紫色の髪を後頭部の高い位置で結んで垂らしている男の人。外国の人なのか、男の人は今まで見た事の無い変わった服装をしていた。
「レンおかえりー」
「ただいま」
レンは挨拶を返してリンの隣に移動し、見知らぬ大人二人を見上げる。初めての外国人、しかも風変わりな格好をしているので戸惑いを隠せない。
女の人がリンに尋ねる。
「この子がさっき話していた弟君?」
「うん。似てるでしょ」
どうやらリンはこの大人二人と打ち解けているようだ。女の人が屈んで同じ高さの目線になり、顔を突き合わせたレンは肩を強張らせた。
「本当。流石は双子、そっくりね」
綺麗な人。理由が分からないけれど、胸がどきどきして止まらない。
話しかけられて更に緊張するレンを我に返らせたのは、頭上から聞こえた男の人の言葉だった。
「まるで鏡があるようでござるな」
「……ござる?」
一気に現実に引き戻されてしまい、脱力したレンはやや冷めた心境で上を向く。いまひとつ状況を飲み込めていない様子を察したリンが説明する。
「この人は円の国から来たんだって。ちょっと変わった喋り方をしてるけど、皆がこういう話し方をしてるんじゃないんだって」
「円の国って……ここからずっとずっと東の!? そんな遠い所から!?」
姉の解説を聞いたレンは驚愕して目を見開く。円の国と言えば、黄、緑、青の三国から遥か東にある島国だ。こちらの国々とは大分違った雰囲気の国だと言うのは少し習った事がある。
「ほう。拙者の国を知っているのでござるか。小さいのに博識でござるな」
男の人が褒めてくれたのは分かるが、言葉の意味が分からない。レンは隣のリンへ顔を向ける。
「博識って何?」
知らないと姉が言ってすぐ、女の人が意味を教えてくれた。
「色んな事を知っているって事。こちらの国で貴方達くらいの年頃だと、円の国の場所まで言える子はほとんどいないわ」
凄いわねと微笑んで言われ、レンは頬を赤くする。女の人が姿勢を戻して立ち上がると、双子に家へ帰るよう促した。
「暗くなる前に帰らないと、お父さんとお母さんが心配するわ」
リンとレンは揃って海を振り返る。いつの間にか空に夕陽が見え始めていた。早く帰らないと王宮を抜け出したのがばれてしまう。
手を繋いだ二人は親切な大人達に礼を言い、別れの挨拶をして海を後にした。
「そうだ、リン」
王宮への道すがら、レンは隣を歩く姉に話しかける。
「どうしたの?」
「今日さ、凄く不思議な事があったんだ」
黒くて大きな怪獣に会ったと言ったら変な顔をされたけど、それでも構わなかった。
レンは歯を見せて笑顔を浮かべ、嬉々として語り出す。
「リンにも教えてあげる。海に伝わる素敵な秘密を」
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