自分の教室に入って席につくと、ようやくわたしは少しだけ落ち着いた。ミクちゃんは自分の席から椅子を引きずってきて、わたしの向かいに座っている。
「災難だったね、リンちゃん」
「……うん。ものすごく驚いたし……怖かった……」
 一体何だったんだろう、さっきの人。思い出したらまた気分が悪くなってきた。
「あの子、誰なの? 演劇部の一年生みたいだけど」
「そう言っていたわ。でもわたし、演劇部の人って鏡音君とミクオ君とグミちゃんぐらいしかわからなくって。他の人とも一応会ったことはあるけど、まとめてだし短い時間だから、一人一人誰かってことまではわからないし……」
 わたしの言葉に、ミクちゃんは首を傾げた。
「それなのに急に抱きついてきたの?」
 ミクちゃんは、状況がよくわからないようだった。わたしもよくわからないんだけど、説明しようと試みる。
「今朝昇降口でさっきの人が待ってて、わたしを呼び止めて、いきなり『好きです。つきあってください』って言われたの」
 未だに、どうしてそういうことになったのかさっぱりわからない。
「一目惚れされたってこと……?」
 そう訊いてくるミクちゃん。多分、そういうことなんだろうな。でもどうして抱きついてきたりしたんだろう。はっきり言って、気味が悪いとしか言いようがなかったんだけど……。
「……そうみたい。なんでそうなったのかよくわからないんだけど……」
 そう言うと、ミクちゃんは複雑そうな表情でため息をついた。
「お話の中だと一目惚れってロマンティックな感じするけど、現実だと寒いのね……」
 わたしは頷いた。おとぎ話にせよオペラやバレエにせよ、出会った瞬間に恋に落ちるというパターンは多い。『シンデレラ』もそうだし、『ロミオとジュリエット』もそう。でもこの二つは両方共に恋に落ちるのよね。片方だけのパターンだと……『椿姫』がそうか。マルグリット――オペラではヴィオレッタ――もしばらくしてから相手に恋をするけれど……。
 もっとも舞台の場合だと、上演時間というどうしようもない制約があるから、のんびり恋に落ちる経緯を描いていられない、というのもあるかもしれない。恋に落ちても、そこで終わりじゃないもの。なんだかんだで邪魔がいっぱい入っちゃうし。
「『ロミオとジュリエット』は、舞台で見るからロマンティックなのかもね」
 実際には、きっとああいう風にはいかないのだろう。
「わたし、あの話嫌い。両方死んでおしまいなんて。愛しあう二人が結ばれないなんて、悲しすぎるもん」
 ミクちゃんがわたしの目の前で、不満気に唇を尖らせた。わたしもハッピーエンドの方が好きだし、あの話は正直苦手だけれど……。
「一緒に死ねただけ幸せなんじゃないかしら」
『椿姫』のマルグリットは、一人で病に倒れて孤独に死んで行った。あの結末は淋しすぎる。だからオペラでは、ヴェルディは手を取られて死んでいくラストに変更したのよね、きっと。
 あれ……変更って言えば、確か……。
「でもさあリンちゃん、鏡音君が助けてくれたんでしょ?」
 ミクちゃんが不意にそんなことを訊いてきたので、わたしの思考は打ち切られた。
「えっ……? ええ、そうだけど……」
 ……また、助けてもらっちゃったのよね。
「良かったじゃない」
 にこにこと、満面の笑顔でミクちゃんはそう言った。うん、良かったんだけど……。これでいいのかな……。いつもこんなのばっかりだし……。
 あ、そうだ。わたしは鞄を開けて、中のクッキーの包みを確かめた。大丈夫、割れてないみたい。落としたから心配だったの。
「はいミクちゃん、これあげるね。昨日、久しぶりに自分で焼いてみたの」
 わたしはクッキーの包みを二つ取り出して、ミクちゃんに手渡した。
「わあ、リンちゃんがクッキー焼くのって本当に久しぶりね!」
 ミクちゃんは喜んでクッキーを受け取ってくれた。屈託のない笑顔に、張り詰めていた神経がほぐれていく。
「こっちが絞り出しで、こっちがチーズクッキー。チーズの方は甘くないけど平気?」
「大丈夫! でも珍しいね、リンちゃんが甘くないお菓子作るなんて。あ、この香りはパルミジャーノ・レッジャーノね」
「うん。お母さんがこういうクッキーにはそれが一番いいって」
「お母さんがあれだけ上手なんだもの。娘のリンちゃんだって上手になるはずよね」
 ……ミクちゃんは、わたしとお母さんが血が繋がってないことを知らない。複雑な話だし、どう話せばいいのかわからないからだ。それに……ミクちゃんに、わたしの家の内情を話したくないという思いもある。ミクちゃんは、わたしと一緒の学校に通うために、無理に受験した。そんなミクちゃんに、余計な重荷を背負わせたくない。
「……巡音さん」
 不意に名前を呼ばれて、わたしはそっちを見た。さっき昇降口にいた、蜜音さんという髪の長い女の子が立っている。
「あ……さっきの……」
「2-Bの蜜音リリ。演劇部の副部長」
 この人が副部長なんだ。
「あ……初めまして、巡音リンよ。さっきは色々とありがとう。こっちはわたしの幼馴染の初音ミクちゃん」
「初めまして。と言っても、クオの従姉だから知ってるわよね」
 ミクちゃんがにこっと笑う。蜜音さんも笑顔になった。
「初めまして。初音君からいつも話は聞いてるわ」
 そう言った後で、蜜音さんはまたわたしに視線を向けた。
「心配だからちょっと寄ってみたんだけど、大丈夫そうね」
「……ありがとう」
 ほぼ初対面の蜜音さんにまで、心配されてしまった。よほどわたしはひどい状態だったらしい。
「あ、巡音さん。あのバカのことだったら気にしなくてもいいから。あいつ、ちょっと可愛い女の子見ると、すぐその気になって追い掛け回すのよ。演劇部でも追い掛け回されてうんざりした子が何人もいるし。いきなり抱きつくなんてやらかしたのは、さすがに今回が初めてだけど」
 そうなんだ……『フィガロの結婚』のケルビーノみたいな感じなのかな?
「演劇部の子にちょっかい出された時は、あんまりしつこいようだと私が割って入ることにしてるんだけど。必要とあれば張り倒してもいいって思ってもいたしね」
 だからさっきは容赦なく鞄で叩いていたんだろうか……。
「もしかしたら邪魔されるのが嫌で、今回は部外の巡音さんに目をつけたのかもしれないわ。バカのくせに変なとこだけ頭が回るというか……」
 わたしは、嫌なことに思い当たってしまった。
「あの……もしかして、次はミクちゃんに迫って来たりとか……」
 さっき、ミクちゃん一緒にいたし。今度はミクちゃんに目をつけられたりしたら……。
「さすがにそれはしないと思う。初音君が前に釘刺してるから。俺の従姉に構うなって。一緒に住んでるんだから、ミクを守ってやるのが俺の義務なんだって」
「へ、へえ……クオ、そんなこと言ってたんだ……」
 ミクちゃんは驚いている。わたしもだけど。ミクオ君、そんなこと言ってたのね。
「巡音さん、もう平気?」
 あ……鏡音君だ。
「あのバカには、二度とちょっかい出すなってきつく言っておいたから。だからもう近づいて来たりはしないと思う」
 そう言われて、わたしは安堵した。正直、またあの人に会いたいとは思えない。
「良かったね、リンちゃん」
 ミクちゃんに言われて、わたしは頷いた。
「きつくってレベルじゃなかったけどね」
 不意に、蜜音さんがそう言った。……どういうこと?
「あれぐらい言ったってバチは当たらないだろ」
「それは私も思うけどね。これであのバカも懲りて、ちょっとは成長してくれるといいんだけど。どうかしらね。バカは死ななきゃ治らないって、昔から言うし」
 蜜音さんの口調は、ちょっと怖いくらい突き放した感じだった。ものすごくあの男の子のことが嫌いみたい。……でも、それも無理はないのかも。
「あいつの場合は死んでもじゃないか?」
「……そうかもね。ああ、私はもう自分の教室に戻るわ。それじゃあね、巡音さん、初音さん」
 蜜音さんは手を振ると、教室を出て行った。
「じゃあ、俺も自分の席に戻ってるから」
 鏡音君もそう言って、行こうとした。あ……。
「あ……待って!」
「何?」
 鏡音君が立ち止まる。つい呼び止めてしまったけど……あ……えーと、どうしよう。頭の中が、真っ白になる。
「あの……その……」
 鏡音君はわたしの前で、辛抱強く次の言葉を待っていてくれている。早く用件を言わないと……でも……。
「あ、あの……放課後に戯曲の話の続き、できる? その、無理にとは言わないけど……」
 わたしは、やっとのことでそれだけを言った。他にも言うべきことがあるのに、なんで出てきたのはこれなんだろう……。
「あ……戯曲ね。今日は……」
 鏡音君が答えようとした時、携帯の着信音が鳴った。
「ちょっと失礼」
 鏡音君は携帯を取り出して、確認している。返信を始めたところを見ると、メールみたい。
「メール、誰から?」
 気になったので、わたしは訊いてしまった。
「グミヤから。今日と明日は部活を休みにするって。……そういうわけで暇ができたから、戯曲の話をしようか」
「あの……休みになったって、さっきのことのせい?」
「そうだけど、悪いのはコウだから巡音さんが気にすることないよ」
 はっきりした口調でそう言われてしまった。……わかっちゃうんだ。
「あ……うん。そ、そうするね。じゃあ、放課後に」
 鏡音君は自分の席に戻って行った。ちゃんと言葉の出て来ない自分が恨めしい。少し気分が落ち込んでしまう。
「ねえ、リンちゃん」
「あ……ミクちゃん。あのね……」
 言いかけたわたしを、ミクちゃんは明るい笑顔で遮った。
「言われなくてもわかってるって。アリバイ工作でしょ? 大丈夫よ、任せといて」
 三度目のせいか、ミクちゃんは察していたようだった。明るい笑顔で承諾してくれている。わたしは申し訳ない気持ちになった。
「いつもごめんね……」
「気にしなくていいってば。それより、またクッキー焼いてきてね」
「……わかったわ」
 わたしが答えた時、始業のベルが鳴った。ミクちゃんが「じゃあね」と言って、自分の席に戻って行く。
 わたしは自分の鞄の中を、淋しい気持ちで眺めた。……こういうことだから、駄目なのよね。放課後までに気持ちを立て直さないと。

ライセンス

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ロミオとシンデレラ 第三十六話【もう飛ぶまいぞ、この蝶々】後編

 まあ、この場合問題なのは「一目惚れ」じゃなくて、「その後のアプローチ」なんですがね……。

 なお、蜜音リリ=リリィさんです。最初はこういうキャラにするつもりはなかったんですが……なんか、気がついたらこうなってました。おかしいなあ……。

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投稿日:2011/12/03 19:13:09

文字数:4,252文字

カテゴリ:小説

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